25 真相
暗闇の真っ只中、それは春彦の深層心理の世界。延珠はいつもここに身を寄せ、春彦の行動や選択を眺めていた。そして時々過去の扉も開けて、彼の歩んできた道を辿ったりしている。
それは延珠が『人』というものに興味を持ち、また人であれば悪虚が殲滅出来る予感がしているから。だからまずは、自分の宿主である春彦について延珠なりに考えを深めようとしていた。
少し疲れたのでソファーを用意する。ステッキを立て、ブーツを脱ぎ、横になってくつろいだ。まるで人間のように。
「はあ、疲れた」
あの春彦が霊力切れになる寸前となると、その霊力に頼って生きている延珠にも影響を及ぼす。
「さすがに今回はどうなることかと思ったな」
SP6によって精神世界に閉じ込められられたあの時、正直延珠にもどうしたら脱出出来るのか分からなかった。
(最後に道を示してくれた和涅の姿を模した霊力体、あれは紛れもなくあの女自身の霊力であった)
以前和涅が東京に来て延珠を取り戻しに来た際、延珠に触れた手から感じられた霊力と、先程の霊力体が同じ質であった。他人の霊力残滓が十数年も身を潜めていることは通常あり得ない。しかしそれは春彦の運であったとも言える。
(体内に残っていた理由は、彼女が春彦の記憶を消そうとしたということだ。春彦の記憶は春彦自身によって封じられていた。つまり和涅は記憶消去をしてない。いや、出来なかったというところか)
記憶操作は自分より大きな霊力を持つ者には使えない。つまり春彦の霊力は、和涅の力を持ってしても御すことが不可能な大きさだったということ。それでも和涅の霊力も並大抵ではない。だから中途半端に残っていた。
ふと、和涅に触れられた時に感じた『嫌な気配』を思い出して、延珠は眉をひそめた。
反射的に拒絶したのはそれが理由だ。
(春彦には分からなかったかもしれんが、同族である私には分かる。あれは確実に悪虚の気配)
和涅の中には『何か』が居る。
※※※
SP6との戦いが終結し一週間が経過した。春彦は一人で都立病院の最上階にある、委員会管轄の病室に訪れた。見舞いの品に果物を持っていくと、彼女は朗らかな笑みを浮かべて迎え入れてくれた。
「調子はどうだ?」
「もうすっかり元気。ここに居るのはほとんど検査の為なの。でも悪虚の影響も完全に抜けて、来週には復帰出来るって」
「そうか」
ユーリは嬉しそうに頷いた。こんなに穏やかな彼女と話すのは初めてだった。出会った時から張りつめた表情をして、いつも心が何かに追われていた。
「春彦、あらためて、助けてくれてありがとう。あなたが来てくれなかったら私も兄も死んでいたわ」
「悪虚に見せられた幻覚は覚えているのか」
「ええ。あれは全て私の中にあった感情だったの。私、お兄ちゃんより評価されて、そのせいでお兄ちゃんに嫌われていると勘違いしてた、愚かな妄想」
人は勘違いをする。それは表向き優しい人に対しても、自分に後ろめたさがある限りつきまとう疑念。いつしか自分の中でその感情が煮詰められ、やがて焦げ付いてしまう。
「常一郎とは」
「話し合ったわ。ずっと、本当のことを聞くのが怖くて話せなかった。でも悪虚のお陰でお兄ちゃんの本心を知れて話し合えたなんて、皮肉な話よね」
「分かるよ。俺も、あの悪虚のお陰で大事なことを思い出した」
「そう」
自分で鍵をかけて忘れていた、幼い頃の記憶。
ふと、ユーリがタブレット端末を取り出して春彦に見せた。
「これは、殲滅活動計画書?」
活動計画書は一週間単位で作成し、委員会に提出する。一日何体殲滅するか、また行動の予定を記入するもので、あくまで予定であっても自分の意欲を委員会に示すものだ。
「私、きちんと実力でお兄ちゃんを追い越そうと思う。お兄ちゃんはそんなことで私を嫌いにならないし、むしろその方が喜んでくれると思うから」
そう開き直ることが出来たのは、彼女が成長した証だ。
「応援してる」
春彦は笑って返した。
「俺も頑張らないとな」
不意にユーリは口ごもって、ちょいちょいと春彦を近くに呼び寄せ耳打ちする。
「あの幻覚の中に居た女の人のことだけど……私誰にも言わないわ。報告もしてない。きっとあなたが自分でけりをつけると思うから」
春彦は目を丸くした。あり得なくもない。あのユーリと春彦の精神世界の入り交じる境界線で、ユーリも彼女の姿を見て、そして彼女が誰だか気付いたのだ。
こうしてこっそり耳打ちした辺り、組織に報告しなかったのはあまりよろしくないのだろう。でも、今は彼女の厚意に甘えておく。
「ありがとう。ユーリも身体に気を付けて」
ユーリの見舞いを終えて、春彦はバスに乗って実家へ向かった。
バスに乗り込む春彦を、病院の屋上から眺める常一郎と凪査。二人は同期で仲が良い。昔はここにもう一人居たが、今はあまり話すこともない。ただ今日は雲一つ無い快晴だった。
「あの子に言われたんだ。僕と暁が似てるって」
凪査は怪訝そうに眉をひそめる。
「似てる?どこが」
「無駄に責任を抱えるところだって」
常一郎は思い出してクスッと笑った。
「昔の暁はそんな奴じゃなかった。でもきっと今は、あの子達にとってとても良い先輩なんだろうね」
凪査は不満そうに鼻をならす。
「それのどこが良い先輩なんだ。暁はあんな所で燻ってていいような奴じゃない。アイツは俺の唯一認めた存在なんだ」
「ねえ、それ認められてない僕に失礼だと思わない?」
「お前はそんなこと気にしないだろ」
「はぁ、信頼してくれてると受け取っておくよ。で、君は今春彦くんに何をさせたくてここに居るの?」
凪査は「さぁ……」と自分でも分からないといった様子で出発するバスを眺めた。
「ただ、がんじがらめになったユーリを救ってくれた点は評価している。俺達にはどうにもしてやれなかったからな」
「ああ、そうだね」
年の差や性別から、ユーリは三人のように親友のような関係性にはなれなかった。だが凪査もずっと気にかけてくれていたらしい。
常一郎もまた、走り去るバスを眺めた。
※※※
帰ってきた春彦を見るなり、泉美は驚き、次いで嬉しそうに破顔した。
「春彦!おかえりなさい!暑かったでしょう。今日帰ってくると思っていなくて、今からご飯作るわね。あ、お父さんは学会よ」
「うん」
春彦も父昌義が不在であることは知っていた。泉美は春彦が寮生活を始めてから、毎週昌義の予定を知らせてくれていた。それは春彦が昌義の居る時でも、居ない時でも、好きな時に帰ってきていいという思いやりからだった。
泉美は春彦の荷物を取ってリビングに向かう。
「献立は何にしようかしら」
「あのさ、ご飯は後でいいから、聞きたいことがあるんだ」
春彦は昌義が居ようが居まいが気にしたことはない。ただ今日だけは、泉美と二人で話したいことがあってこの日を選んだ。
泉美は軽く目を見張って「じゃあお茶を淹れるわね」と微笑む。
テーブルに向かい合って座る。紅茶と、お茶請けに貰い物のフィナンシェを出してくれた。
「あのさ、俺が迷子になって帰ってきた時のこと覚えてる?」
泉美には驚いたり動揺する様子はなかった。
「ええ。一生忘れない。忘れてはいけないことよ」
「最近あの時のことが断片的に蘇って、全部思い出したんだ」
「……そう。いつか、きちんと話をしなければならないと思っていたわ」
カップを握る手に力がこもる。
「あの日、あなたにめったに構わないお父さんがあなたを連れて出掛けて、一人で帰ってきた時、すぐに探しに行こうと思った。でも、お父さんにこう言われたの」
振り返った昌義の目には暗い影が差していた。
『あの子を元の場所へ帰してきた』
元の場所というのがどこなのかすぐに分かった。
「何も言えなかった。あの頃のあなたはあまり笑わなくて、言葉数も少なくて、私は母親として自信が無かったの。私が母親として不出来なばかりに、この子が子供らしく居られないのかもしれない。何よりお父さんのあなたへの態度が、見ていられなかった。このままだとあなたをずっと傷付けてしまう。それなら、実の母親の元で暮らした方が幸せかもしれない。そしてあなたを追いかけるのを止めてしまった」
泉美はぎゅっと目をつむる。
「でもあなたの声を聞いた時、人生で一番後悔した」
『おかーさん!』
外で春彦が呼ぶ声がした。お母さんと呼ばれた時、自分は母親なのだと、そしてその責任を放棄してしまったのだと自覚した。
気が付けば靴を履くことすら忘れて玄関を飛び出した。走って春彦を抱き締めた泉美。その少し先に黒いコートに制服を着た若い女性が立っていた。
「彼女を見て、この子なんだって分かったわ」
前々から昌義は委員会という謎の組織と通じていて、そこの科学者と懇意にしていた。昌義は独立前都立病院で働いていた。その関係だという。
そして科学者は子供のできない泉美と昌義に、養子として子供を一人引き取ってくれないかと持ち掛けてきた。訳アリであることは分かっていても、泉美は子供が欲しかった。だから承諾した。
きっと彼女もその組織の一員なのだろう。ただ美しい顔立ちにはまるで生気が感じられなかった。
『この子を、連れ帰ってきてくれてありがとうございました』
春彦を抱き締めたまま頭を下げると、和涅は言った。
『その子があなたの元へ帰りたいと言いました』
泉美は目を見開き、自分にしがみつく春彦の丸い頭を見つめた。
『どうかよろしくお願いいたします』
和涅は深々と頭を下げ、泉美が瞬きをした次の瞬間には消え去った。まるで幻を見ていたかのようだった。
ただ自分の腕の中には確かに小さな温もりがあった。
「あなたはちゃんと私を母親として見てくれていた。子供らしくとか、型にはめようとしてあなたを見ていなかったのは私の方だった」
泉美は手を膝に置いて深く頭を下げた。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい……!」
きっと泉美は謝ると春彦には分かっていた。ただその後自分が何と答えるかは分からなかった。
そして春彦の口から出た言葉は。
「でも母さんは俺のこと、ちゃんと愛してくれているんだろ」
「当たり前よ!」
即答した泉美に、春彦は心の底から安堵した。
(ああ、俺もユーリのことを言えないな)
泉美が春彦を愛さなかったことなど、一時も無かった。ただ愛されていないかもしれないと思い込んでいただけ。いつだって泉美は自分の味方で居てくれた。
そして春彦はずっと泉美に伝えたかったことを伝える。
「母さん、俺の母親は母さんだけだよ」
張りつめた糸が切れたように泣きだした泉美を、春彦は立ち上がって抱き締めに行った。抱き締められるのではなく、誰かを抱き締めに行けるようになった。春彦はようやく、自分を閉じ込めていた何かから抜け出せた気がした。
泉美に言われて自分の部屋のクローゼットを開けると、黒い箱が仕舞われていた。それは春彦の置いたものではなかった。
「そういえばずっとあるなって思ってたんだ。てっきり母さんのものだと思ってたんだけど」
「あの件から数日して匿名で送られてきたの。でも送り主は和涅さんのような気がしているの」
箱は未開封で、ガムテープで厳重に閉じられていた。
「一緒に入っていた手紙には、開けずにあなたの部屋に隠しておいて欲しいって。お守りのような役割を果たすって書いていたわ」
とはいえここで開けないわけにはいかない。春彦はガムテープを剥がしていき、蓋を開けて中身を見た瞬間絶句した。
「どうしたの?」
「これは、確かにすごいお守りだよ」
そこには委員会東京本部の演習場から紛失したと言われる守護石の一部が入っていた。切り口まで同じだ。まさか自分の家の中にあったとは。
いつも悪虚の気配を感じても家に入るとそれが遠ざかっていた。
(この守護石のお陰で十数年無事に生きてこられたんだな。しかしさすがに延珠を握って霊力を放出した時にはどうにもならなかったというところか)
春彦は苦笑して蓋を閉じた。あの人も意外と人間らしいところがあるんだと、心の中で呟いた。




