18 同族
また、闇の中で目が覚めた。ただ今回はすでに椅子が用意されていて、春彦は革のソファーに座っている。かなり質の良い素材ではあるが、向かい側に金髪の少女が座している絢爛豪華な玉座に比べれば貧相だ。少女はにんまりと勝ち誇った笑みを浮かべていた。
「久しいな春彦」
「毎日会話してるだろ、延珠」
「思念での会話と対面では違う趣であろう」
春彦と延珠は、明確な言葉による会話よりも、感情の受け渡しが多い。だから彼女がこうして対話することや、『夢』の中に現れるのは珍しい。
「で、これは何だよ」
春彦はソファーの肘置きを指で叩く。
「話すのなら椅子が必要かと思ってな」
「明らかに差を付けてくるのはお前らしいよ。この前対等だと言ったことを根に持っているのか」
「まさか。私の器がそんなに小さいわけなかろう」
延珠は小馬鹿にするように鼻を鳴らす。
「そーかよ。で、呼び出した理由は何だよ」
「いやなに、最近よく菜緒子という女の話題になると思ってな。あの女、悪虚の本体を討ちたいようだな。そんな途方もないことをよくも口に出来たものだ」
延珠はクスクスと笑って足を組む。実年齢は知らないが、実際現在はまだ幼く足が短いので、いくら厚底のブーツを履いていても、背伸びをして格好つけている子供にしか見えない。
「とはいえ、お前もそれを望むんだろう?」
「無論だ。私は奴を滅ぼすことを望んできた。それは私の存在証明となるからだ」
「存在証明……」
「私を否定した奴を殺すことで、私という存在を認めさせる。それはあの菜緒子という娘も同じだ。結局のところあの娘は正義感から悪虚本体を倒したいのではなく、悪虚本体を倒すことで組織に自分を認めさせ、自分を正当化しようとしている」
「正当化?そんなことをする必要があるのか」
すると延珠はわざとらしく大声で笑って、試すような目付きで春彦を見据える。
「何を言うか。期待されたい、認められたい。これはかつてお前が父親へと抱いた感情と同じだろう」
その言葉に心臓が跳び跳ねた。ドクンドクンと自分の耳にも聞こえるような音で騒ぎ立てる。
延珠は立ち上がって春彦の隣へと座る。
「今もまだその炎はくすぶっているのだろう?だから朔を羨ましいと感じるのだ。せっかくこの組織に身を置いているのだ。生きる為だけと言わず、何か欲を持て。悪虚本体を討てば、お前の父も少なからずお前を認めるだろう」
(父さんに……)
幼い頃から春彦に振り向かなかった父。記憶にあるのはいつだってその背中と険しい横顔だけ。
春彦の動揺を楽しむように延珠は笑う。
「どうだ?その気になったか?」
「……違う」
延珠は眉をひそめる。
「何?」
「俺が朔を羨ましいと感じるのは、父さんに認められたいからじゃない。俺が本当は、朔に憧れているからだ」
悪虚を殲滅する冷徹さ、天賦の才能、人を惹き付ける明るさ、そして過去に囚われず誰かを思いやる広い心。全てが羨ましい。春彦にとって朔は、自分がなりたかった姿そのものだった。
「なあ延珠、認められたいというのは、結局は自分に自信が無いんだ。本当は心のどこかで後ろめたさがある。俺は父の本当の子供でないこと。菜緒子は朔を危険に遭わせたこと。お前は霊力の消費が多いこと。結局、本当に自分を認めていないのは自分なんだ」
延珠は立ち上がって烈火のごとく激怒した。
「違う!私は私だ!お前も私を否定するのか!」
「否定なんてしない。俺はお前の能力を認めてる。俺にはお前が必要だ」
「何の目的も無く戦ってるくせに、口先だけの出任せを言うな!」
「そうだな、お前は俺に目標を持てと言ったな。それなら俺の目標はーーー、ーーー」
目が覚めたのは夜明け前だった。まだ空は仄暗い。今度は寝過ごさなかったらしい。
春彦は刀を握る。この宿舎では守護石の範囲内なので春彦の霊力は拡散されない。鞘を少し抜いて刀身を眺め、戻して布袋へ入れると、足早に部屋を出た。
※※※
ここにもまた一人、夢を見ていた者が居た。
『涼華!』
菜緒子は、黒く大きいスーツケースを引いて寮を出ようとする涼華を呼び止めた。茶髪の巻き髪が揺れる。
『辞めるって本当なの!?』
『ごめんな、菜緒子』
振り返らずに、顔を半分だけ見せる涼華は力無げな様子だった。そんな彼女を見たのは初めてだった。
『あなたならまだここでやれるわよ!何の為に今まで頑張ってきたのよ。せっかく女性初の一課長になれるかもって言われてるのに!』
『あたしは一課長になりたかったわけじゃないし、そもそも一課長になれる保証も無い。全て夢幻なんだよ』
『でもあなたは戦闘員のエースになって、私は研究員として権威を得るって、一緒に誓ったじゃない。戦闘員じゃなくても、委員会に在籍していればいずれーーー』
『あたしはこれ以上、この組織に翻弄されたくない。活躍する男達を見て、みじめな思いをしたくないんだ』
言葉を遮った涼華は、冷たく淡々としていた。それが自分に向けられた態度に感じて、菜緒子は怒りがふつふつと湧いてきた。
『あなたの意思はその程度だったというの?』
『……』
涼華は何も言わず、背を向けて再びブーツのヒールを鳴らし、そして二度と振り返ることはなかった。菜緒子はなおもその背中に言葉をぶつける。
『私はあなたと違う。涼華みたいにならない。組織に抗わずに、組織で「成し遂げた側」になる。その時あなたは、ここを去ったことを後悔するわ!』
じわじわと目元が熱くなって涙がこぼれる。
(違うこんなことを言いたいんじゃない)
いつもの涼華なら黙って聞き流したりしない。他部隊でも構わず言い返すのに、今はもう彼女の耳に届いてすらいない。涼華は殲滅委員会という組織を拒絶しているのだ。そして親友の菜緒子も、全て。
『ーーー行かないでよ涼華!私を一人にしないでよ!』
菜緒子の言葉が虚空に響いた。
涼華が去ってから、菜緒子は組織に絶対服従した。上司からの命令であれば何を言われても実行し、命令されるままに規律ギリギリまで色々なことに手を染めた。それがこの組織に在籍する限りの宿命で、生きることなのだと。全て仕方ないと思った。こうしていれば自分は組織でやっていける。
しかし組織に染まれば染まるほど、自分ではなくなっていく恐怖と自己嫌悪に苛まれた。やがて朔の件をきっかけに、涼華の気持ちを理解するようになる。今までの自分の行動への後悔と、絶望に苛まれた。
(自分って何。私って何なの。組織に居てこんなことをして、一体私は何者に成り果てたの?)
どろどろした黒い感情が心を侵食していく。菜緒子は頭を抱え跪く。
(どうしたらいいの……)
やがて菜緒子は目を覚ました。化粧も落とさず、仕事をしながら机に伏して眠ってしまっていたらしい。窓の外はまだ夜明け前で、薄紫色の空が広がっていた。
起きるには早すぎる時間だったが、目が冴えてしまったので端末で事務処理を確認していた。この後シャワーを浴びようかと考えていた矢先、何気なく確認した三課の通信端末の位置情報に目を剥く。
「え……」
慌てて上着を掴んで宿舎の玄関に向かった。
宿舎の門から出ようとしている少年に声をかける。
「待って、どこに行くの春彦くん!」
「すぐに戻る」
春彦の首もとから包帯が見え、菜緒子は声を強める。
「ダメよ。部屋に戻って。これは命令よ」
もうこれ以上彼を傷付けるわけにはいかない。なのに何故、こんな時間に外に出ているのか。
「朝になったら殲滅に行けるのか」
菜緒子は目を見開く。震える声を隠し、なんとか平常心を装う。
「明日は殲滅活動をせずに本部へ戻るわ。あなたは怪我人なのよ」
「それじゃあ負けたままになる」
「ここで勝たなくったって、挽回はどこででも出来るから」
「でもここで勝たなきゃ悪虚本体の殲滅なんて夢のまた夢のだ」
真っ直ぐな春彦の瞳に、まるで自分の全てを見透かされている気がした。
「そんなの無理よ!」
菜緒子は叫んだ。悪虚本体を殲滅するなど、どうして言ってしまったのか。
「暁からもう聞いているでしょう、朔ちゃんのこと。私は罪を犯した」
春彦に真実を伝えて欲しいと暁に言ったのは菜緒子だ。自分のせいで怪我をした彼には知る権利がある。
「本当は、私を置いていった涼華が間違っていたと証明したかった。でもそれが間違いだったと気付いた時にはすでにこの手は汚れてた!悪虚本体の殲滅なんて、汚れた自分を誤魔化す為の大義名分に過ぎなかったのよ!」
結局自分も同じ穴の狢。組織に良いように利用されてただけ。付き従っているだけでは使い捨てられる。
思い悩んだ末に菜緒子はようやく立ち直った。こんなことをしていても何も変わらない。せめてもう涼華のような存在を出したくない。組織を変えるなら新しい風を入れなければならない。どんな困難が訪れようとも。ーーーなのに。
「なのに今度は春彦くんまで傷付けた」
本部の演習場で火の鳥を出せない春彦を見て、菜緒子は内心かなり焦った。かつての朔のように戦闘が出来なくなってしまったのではないか。では戦闘が出来るようになる為に、また非道な手段を使わなければならないのか。不安が不安を呼んだ。
結果的に回復したものの、その焦りは続いてこんな兵庫まで来てしまった。
そして結果、春彦は負傷した。撤退すべきだった。彼を怪我をさせたことでより菜緒子の罪の意識は格段に大きくなった。かつての罪も含め、菜緒子は罪悪感に押し潰されそうだった。
(どうしたらいいの、私は、どうしたら……)
不意に冷たく強い風が吹く。菜緒子の長い髪が乱れる。
「菜緒子」
春彦に名前を呼ばれ顔を上げる。
「アンタの犯した罪は、これまで通り朔には黙っててくれ」
春彦には分かっていた。きっと菜緒子は限界だ。全てを朔に打ち明け自分を罰して欲しいと願っている。でもそれは許されない。それは菜緒子を救っても、朔が救われないことだからだ。
春彦は一歩一歩、菜緒子に近付いた。彼女は微動だにせず立ち尽くしている。
「アンタのしたことが善か悪かなんて、俺はもう考えない。でも、このまま朔が知らなければ、朔の苦しみが増えることはない。だから、その罪悪感を背負い続けてくれ」
菜緒子の瞳からは光が消え、両手で顔を覆って膝を着いた。肩を震わせ、嗚咽を漏らす彼女が、とても他人事のようには思えなかった。
「アンタは涼華に振り向いて欲しかったんだろ。俺にはその気持ちが分かる」
父の顔が脳裏をよぎる。延珠の言う通り、かつて自分にも同じ気持ちがあった。何かを成し遂げたら振り向いてもらえる。でもそこに至るまでに心は擦りきれてボロボロになる。
春彦はそっと菜緒子を抱き締めた。
「罪を心に秘めるのは辛いことだ。でも俺もその罪を一緒に背負う。だから、アンタは一人じゃない……」
その腕の中で、菜緒子はまだしばらく泣いていた。春彦はそれが、いつかの自分を抱き締めているような気がした。
※※※
朝焼けに照らされる管理区画。今日は雨が降っていないのに、うっすらと霧が出ていた。
春彦は菜緒子を連れて気配のする方へと向かう。菜緒子は非戦闘員なので待っているように伝えたが、彼女なりのケジメなのか一緒に山を登ると言う。一応追い払う程度は戦えるらしいが、春彦は自分より前に出ないように伝えた。とはいえ、心配するまでもなく、延珠を握れば悪虚は一目散に春彦へと向かってくる。
やがて春彦が足を止めると、菜緒子が後ろへ下がった。昨日と同じ気配がする。一体のみの気配。
布袋から延珠を取り出し握ると、春彦の霊力が拡散されたのか他の小さな悪虚達が数体群がった。それを延珠から出た火の鳥が一気に燃やし尽くす。いつもより激しさが増しているのは、明け方の夢の中で話したことが原因かもしれない。延珠が拗ねているのを感じる。
「なあ、もし悪虚本体を殲滅したら、懸賞金っていくらなんだろうな」
「そんなの、ほぼ無限に等しいと思うわ。悪虚殲滅は委員会の存在意義そのものだもの」
「だよな」
春彦は延珠を見ながら薄く笑った。闇の中で延珠と対話した時、春彦はあることを約束した。
『ーーー俺の目標は、朔をこの組織から解放してやること。その為に悪虚本体を殲滅する』
そう豪語する春彦に、延珠は目を見張り、次いで鼻をならした。
『他人の為に自己を犠牲にするだと。そんなこと出来るわけがない。お前に何の得がある』
『得か損なんて求めてない。今までいろんなことで苦しんできた朔を、自由にしてやりたいだけだ。そうしたいと、俺のエゴで望んでいる。ある意味で俺の欲だ』
『他人の為に戦えるものか。いいか、お前は私の力があるからこそ戦えておる。私が力を貸さぬと決めれば、奴に喰われてひとたまりもないのだぞ!』
『それでまた化石に逆戻りして困るのはお前だろう』
延珠は春彦を憎らしげに睨み付ける。
『延珠、俺はお前と敵対したいんじゃない。約束する。誰かの為であろうとも、俺はいつか悪虚本体を殲滅してみせる。それがきっと、俺とお前の存在意義となるはずだから』
「春彦くん!」
顔を上げると、先程より霧が濃くなっていた。そしてあの独特な動きで浮遊する二対の悪虚。今日はハッキリと分かる、やはり片方は気配が無い、幻影だ。
悪虚が先制攻撃を仕掛けてくる。春彦は触手を避け、延珠を振りかざす。しかし目にも留まらぬ早さで交互に入れ替わるせいで、幻影の方を攻撃してしまう。
「春彦くん!」
「同じ轍踏んでたまるかよ!」
いつの間にか幻影が復活して、悪虚はすぐに二対に戻る。
(嗅ぎ分けろ、本物はどっちだ!)
春彦は目を閉じ、襲い来る悪虚の気配を感じる。片方は幻影だ。本物さえ捉えれば何も怖くはない。
近付いてきた気配に春彦は力を振り絞って刀を突き刺す。
「捉えたっ!」
急所を外す。しかし思いのほか攻撃が効いている。霧があると遠くからでは気付かなかったが、悪虚はすでに刀傷を負っている。昨日朔が負わせた傷だ。そして急に悪虚の動きが、何かに引っ掛かったように鈍る。その隙は見逃さない。
「今だっ!」
春彦の声に合わせ、延珠からは炎の斬撃をくり出され、悪虚を切り裂き燃やし尽くした。悪虚がチリとなって消えると、やがて霧が晴れ、森に朝日が射し込む。春彦は懸賞金悪虚を殲滅した。
宿舎まで歩いて帰る途中、菜緒子はポツリとこぼすように告白した。
「本当は例外もあったのよ」
「え?」
「二十五歳になっても戦闘員を辞めなかった人」
春彦には思い当たる人物がいた。つい最近春彦も出会ったあの女性だ。
「特別機動調査室の和涅さんか」
「そう。あの人は十六年前、悪虚本体上昇の兆しが現れた時の生き残り。何年経っても、あの人は辞めろとすら言われなかった。でもあの人は心を組織に殺されてるのよ」
赤く晴れた目が再び涙が滲む。
「涼華は事務職が性に合わないと言ったわ。でもそれは彼女なりの抵抗だったのかもしれない。これ以上自分を殺されたくなかったのよ。なのに私はあんな酷いことを言って、だから暁も、私を……」
確かに暁は完全に菜緒子を許していない。彼には彼の正義の天秤が存在している。だが決して、暁が情に絆されない冷徹な人間でもない。
春彦は呆れたように笑って肩をすくめる。
「アイツは冷静に見えて冷静じゃないっていうか」
「え?」
「本当に許せなかったら、お前の補佐なんかしてねーよ。ちゃんと暁の中でも、折り合いはついてる」
宿舎から戻ると、テラスのベンチで横になって眠っている人物が居た。暁だった。上着を枕にして泥のように眠っている。
「ねえ、なんでベンチで寝てるの。まさか一晩中ここに居たの?」
「凍死するぞ」
菜緒子につつかれても、暁は起きる気配がない。ふと春彦は、先程の悪虚の不自然な動きを思い出す。
(まさか)
彼は昨日の夜からここでずっと起きていたのではないか。無断で単独殲滅しに行った春彦を陰からフォローしてくれていたのか。
姿を見せずに春彦を援護出来るのか考えたが、ふと、それにも思い当たる節があった。暁は本部のどこでタバコを吸っても火災報知器が感知しない。最初は火災報知器の性能を疑っていたが、これが霊力固定の応用だとすれば話は違う。
「今日はもう帰るだけだろ。そっとしておこう」
「それもそうね」
するとそこへ明るく元気な声が響く。
「おはようございますー!」
朔が毛布を持って駆け寄ってきた。窓から外で眠る暁が見えたらしい。
春彦は暁の眠りこける顔を眺めた。
(普段のお前ならもっと割り切って菜緒子のことを受け入れられただろ。霊力固定化も、それが出来るなら三課どころか和歌山支部へ行けたはずだ。でもそれをしないのは……出来ないのは……)
朔がそっと毛布をかける。心なしか暁の顔色が良くなった。
※※※
帰りの車の中、暁は顔をしかめながら首を左右に動かす。
「あーだっる!身体いてー!」
「ベンチで寝るからよ。明日も仕事なんだから、ちゃんと治しなさいよね」
その言いぐさはすっかりいつも通りの菜緒子だった。そんな菜緒子の横顔を見て暁は微笑みを隠すように窓の外を見た。
後部座席でコロッケを食べていた朔は隣の春彦を見やる。
「遠征も終わっちゃったねー」
「お前、大事なこと忘れてないか」
「え?」
「明日テストだぞ!!」
春彦は英語のノートをバシバシと叩いて朔の目前に差し出す。
「そんなの直前に読み返したら余裕だよ」
「それで余裕なのはお前だけなんだって。くっそー、時間が全然足りねー。遠征なんて二度とゴメンだー!」
「駄目だまだ眠い……」
「暁!あと二分でレンタカー返すから寝ないで!」
空港に辿り着くまでのほんのわずかな時間でも、この車内は騒がしい。それが何より平和な証拠だった。
「楽しいなぁ、第三課」
朔はコロッケの最後の欠片を口に放り込み、微笑んだ。
※※※




