裏切りー4
四
兄は車に乗ると黙って家まで車を走らせた。兄の家に着くと色葉さんが迎えいれてくれ、手洗いうがいを済ませてダイニングに入っていった。色葉さんは食事をしたかを聞いてくれたので、まだだけどあんまり食欲がわかないと言うと、これだけでも食べてときつねうどんを作ってくれた。
温かいそのうどんを食べていると、ホッとしたのかスッと目から自然に涙がこぼれた。すると灯真くんが横に座って頭を撫でてくれ、『いちかちゃん、だいじょうぶ?どこかいたいの?』そう聞いてきた。『うん、だいじょうぶだよ。とうまくんがなでなでしてくれたからかな、ありがとうね。』『うん。あのね、いちかちゃん、なきたいときは、ないていいんだよ。』そう言われて、私はありがとうといいながら顔を手で覆って泣いてしまった。その間また灯真くんは頭を撫でてくれていたけれど、兄がそろそろ灯真は寝る時間だからママと一緒に寝ようなと言って灯真くんを抱っこして椅子から降ろし、色葉さんと向葵ちゃんと一緒に、灯真くんも『おやすみ』と声をかけてリビングを後にした。
兄は私の前に座り、今日のことをもう一度話をした。
『一華、少しは落ち着いたか?』
『うん。ごめん泣いたりして。』
『一華はさぁ、哲志くんのことちゃんと理解してやってるのか?自分の考えだけを押し付けたりしていないか?不安になるのもわかるんだけどな、ちゃんと相手の話を聞かないとダメだ。聞くって言うのはただ耳で聞くってことじゃなく、聞く姿勢だな。今はそれが一華には出来てないように思う。すぐに結果を出そうとせず、もう一度考えてごらん。』
『………。』
兄にそう言われたけれど、自分の中で中々納得できることでもなかった。一方的に言っていたのはそうかも知れないけれど、律子に会っていたのは確かな事だろうし、でも実際に会っていたのかは哲志に聞いたわけではないからわからない。それでずっと黙ったままいたんだけど、兄が『一華が不安になってるのもわかるから、明日俺が哲志くんに話聞いてくるから。』と言ってくれ、哲志に電話をしてくれていた。
その日は中々寝付けなかった。和室に布団を敷いてくれて、その中にお風呂に入ったあと潜り込んだけれど、これまでのこととかを考えてしまう。喧嘩もしたけど楽しい思い出ばかりだった。ただどうしても胸に痞るものがあり、それが拭きれずに重たくのしかかっていた。
そんなことを考えていると、和室にも障子から柔らかい日の光が見えてきたので、布団から出てスーツに着替え、布団は畳んで端に寄せておいた。朝早かったけれど顔を洗い化粧をし、メモを残してから少し朝の空気に触れたくて外に出ようとしたんだけど、家の鍵を持っていないことに気づいてどうしようかと思っていた。すると色葉さんが起きてきたので、『朝の空気に触れたくて。』と話すと、散歩して帰ってくるだけならと色葉さんの鍵を貸してくれた。
兄の家の周りは住宅街なので、別に何か変わったものがあるわけではないけれど、近くに児童公園があったので、そこに行ってみた。朝早くて誰もいなかったので、一人大きく深呼吸をした。朝の澄んだような空気を体に取り入れて、ゆっくりと吐き出した。そんなことを何度かしていると、引っかかっているものが解かれていくようだった。
しばらくして家に戻りそっと玄関の扉を開けると、丁度兄が起きてきたところだった。『おはよう。』とお互い声をかけあってリビングに向かい、忘れないように色葉さんに家の鍵を返した。
色葉さんは私が外に出ている間に朝食を作ってくれていて、昨日うどんをあんまり食べれてなかったようだからと、ご飯にお味噌汁、焼き魚に卵焼き、ほうれん草のおひたしに、フルーツヨーグルト、コーヒーとテーブルに並んでいて、それを『頂きます。』と手を合わせてから頂いた。
兄もしばらくして来て、同じ食事をしていた。
『少しは眠れたか?』そう言われたので、黙って首を振った。ただ私は朝の空気に触れたことで、気持ちが落ち着いていたので、『ちょっとは冷静になってるよ。どうしたいのかまだ結論は出せないけど。』そう言うと、そうかと言って黙って食事を続けていた。
食事が終わると、今日は兄と一緒に家を出た。電車に乗り満員電車に横に並んで立っていると、兄が横に居てくれている安心感からか眠気が出てきた。うとうととしていると、兄が起こしてくれた。電車を降りたところで兄に、『一華、今日仕事行けるか?職場に言って休ませてもらったらどうだ?』そう言われた。けれど、大丈夫と返事して私はそこで兄とは別れた。
職場に到着していつも通り準備後、少し濃いめのコーヒーを入れてソファで飲んでいた。そうしないとまた眠ってしまいそうだったからだった。コーヒーを飲み終え、口がすっきりするタブレットを口に含みマスクをした。まぁこう言う時研究職だから常にマスクをしているのであまり私の表情はわからない、だから悲惨な隈のできた顔はあまり気にならなかった。ただ、同期の宮本には私の様子が違うのはバレていたようで、ぼうっとすると二ノ宮悪いけど、こっちやってくれないと言って、今日簡単な作業をしていた彼女と交代してくれて、何とか午前中は乗り切った。
昼休みになり、宮本に顔色悪いし帰りなよと言われた。私は大丈夫だよと言ったのだけど、トイレに無理矢理連れて行かれ、『自分の顔見てみ、どう見えるよ。』私は鏡に写る自分の顔を見て驚いた。相当青かった。そう言えば寝不足だけかと思ったけれど、どうやら貧血も起こしているようだった。
『宮本、これ青いね。』そう言うと、早よ帰りなってそのまま通りかかった部長に宮本が声をかけてくれて、早退することになった。
私はとぼとぼと駅まで歩き、色葉さんに電話して体調不良で早退するので、色葉さんの都合を確認すると、危ないので兄の事務所で待つように言われた。
兄の事務所は駅の反対側にあって、ここから歩くんだけどなぁと思いながら、色葉さんに言われた通りまたとぼとぼと歩き始めた。すると、兄の事務所の笹本さんが私を見つけてくれて、車に乗せて兄の家まで送り届けてくれた。
私は少しまだふらついていたので、家の中に支えてもらいながら入り、一旦ダイニングの椅子に腰を降ろし、送ってくれた笹本さんにお礼を言った。笹本さんは兄が手が離せなく時間がかかりそうだし、丁度自分はこちらの方面に行くところだったということで、私とも顔見知りだったこともあり、兄に言って私を引き受けてくれたようだった。
私はそこで笹本さんに失礼して、色葉さんが玄関まで見送ってくれた。
私は色葉さんにお願いして、私のスーツケースのポケットに入れておいた、鉄剤を取って来てもらった。そして私が錠剤を出している間に水を持ってきてくれて、それで口に流し込んだ。その後しばらくそこにいて、お昼を作ってくれていたので食べてから、私は着替えて布団に寝かせてもらった。
私が次に目を覚ましたのは夕方くらいだった。隣りのリビングから灯真くんが向葵ちゃんに話しかけている声が襖を通して漏れ聞こえてきたのだ。そしてその声に呼応するように、ウー、アー、と言う小さな声もしていた。私はそれらを布団の中で聞きながらフッと笑みが溢れた気がして、その時に最近哲志といて笑えてなかったなぁとぼんやりと思っていた。
貧血は少し落ち着いていたし、寝不足も四時間ほど眠ったからか割とスッキリしていたので、ゆっくりと起き出した。そして今着ているものの上からカーディガンを羽織ると、そっと襖を開けてみた。
『一華ちゃん。』そう灯真くんに声をかけられて、『はーい。』と返事をしながら二人に近づくと、灯真くんは今向葵ちゃんとお話してたんだよって教えてくれた。それでどんなお話をしてたのと聞くと、幼稚園で教えて貰ったお歌を手をこうして言ってた。と幼稚園で習ったグーチョキパーの手遊びを私にも見せてくれた。その姿に癒されながら、哲志とこれからこんな穏やかな時間は持てるのだろうかと考えたりもしていた。
兄が哲志と話をしてくれると言っていたけれど、どんな風に話すのだろうか、どこで話すのだろうか、それを話たところで、私の気持ちに何か変わる事があるのだろうか等、灯真くんと向葵ちゃんの姿を目で追いながら、ぼんやりとそんなことを考えたりもした。
色葉さんがキッチンで忙しなく動いていて、いつもの私なら色葉さんを手伝ったりするけれど私はしないでいた。というより動けなかった。貧血が尾を引いていたという訳ではない、ただただこれからの自分の行く末を考えると重く、中々そこから動くことができないでいた。
しばらくすると色葉さんが私の姿を捉えたようで、起きていて大丈夫なのかと聞いてきたけれど、『うん。昼よりはましになった。』それだけ答えて、まだ二人の姿を追っていた。
今日の食事は焼肉だった。ホットプレートを出して牛肉や豚肉、キャベツやさつまいも、にんじん、ピーマンをカットしたものを焼いたり、肉をチシャの葉やエゴマの葉で巻いたりしながら、次々に口に入れた。時折ワカメスープで口に残る油を流し込んだりしながら、三人で食卓を囲んでいた。
『おいしいね。』灯真くんが笑顔でそう言っていた。私も『おいしいね。』そう返した。
色葉さんは、私が普通に食事ができていることにホッとしている様子だった。色葉さんはまだ向葵ちゃんが生まれてまだひと月超えたくらいなのに、自分も眠らないといけないのに、私のことを気遣ってくれていることが、自分は色葉さんにとても酷いことをしているように思えてきて、情けなくなり食事の後片付けをした後、色葉さんと話をした。
『色葉さん、いつも頼ってばかりでごめんね。』そんなことを言いだした私に驚いていたけど、色葉さんの体のことも考えずにこちらに来てしまったことを謝った。色葉さんは大丈夫だよと言いながら話を聞いてくれたけど、私に話をしてくれた。
『一華ちゃん。私は義姉という立場ではあるけど、一華ちゃんは私にとっても大事な妹なんだよ。だから、いつまでもいていいのよここに。納得するまでね。私はね、ちゃんと昼寝もしてるから大丈夫だしね。ただ、結婚して家庭を持ってる私から言えることはね、恋愛と結婚は別物なの。うまく言えないんだけどね、恋愛の延長で結婚をするのではなく、新婚時期は多少はあるかもだけど、家庭というひとつの枠に治るって言うのかなぁ。切り替えるというか、それは友働きであってもね。共に同じ道を進む有志みたいな感じかなぁ。だからね、よく考えて結論を出してほしいと思うの。どんな結論をだしても、私は一華ちゃんの味方でいるからね。』そう言われて、そんな風に思ってくれてたんだと心にグッとくるものがあった。そして私は『ありがとう。』と自然と口から出ていた。
その後、子供達をお風呂に入れると言っていたので、向葵ちゃんがベビーバスでお風呂に入っている間は、側で手伝ったり、灯真くんをお風呂に入れている時は、向葵ちゃんを見守っていたりした。その後私もお風呂を頂いた。
兄が帰ってきたのは九時を少し過ぎた頃だった。先に兄がお風呂を済ませてから話を聞くことになった。
哲志とは仕事終わりに、兄の事務所近くで待ち合わせをしたようだった。その方が、哲志の友人に会うこともないだろうということでそうしたらしい。
『哲志くんと話をした。今月になってからの飲み会のこと、そして問題のある飲み会のこと。そして、彼が今どうしたいのかもな。』
『うん。』
『まずな俺が彼に言ったこと。結婚に夢を見過ぎてるんじゃないか、結婚は恋愛とは違うってことな。』そう言って彼に言った話の続きをしてくれた。それを聞いている時、昼間色葉さんが同じことを言ってくれていたなぁと思い出していた。結局、何故岡本くんが一緒だったのかは直接話したいということだった。私が気になる律子については、誓って同席は一度もないと言っていたらしい。
それを聞いて、兄はどう思ったのかを聞いてみたけど、嘘を言っている様子は見えなかったとのことだった。私はまだ迷っていた。どうしたらいいんだろうと。すると兄は、『明日仕事休みだろ互いに。だからここに来てもらうことにしたから、話をしてみろ。』と言ってきた。私は驚いたけれど、いつまでも問題を先送りにするわけにもいかないので会うことにした。
翌日、十時半過ぎに哲志がこちらに来た。ちゃんと手土産を持ってきていたのは驚いた。いつも私が言わないと、そういうのに疎い人だから、珍しいこともあるものだなぁと思っていた。
ダイニングに通されてきて、色葉さんと子供達は話し合いの時は二階にいてくれた。あまり争ってる姿を見せたくもないしね。それで哲志の第一声は、『一華、不安にさせてごめん。』だった。それで私は、『座れば。』そう言ってお互いに向かい合って椅子にかけた。兄は隣のリビングに居てくれるようだ。
『あの日のことなんだけど、俺は学部の仲間と飲んでたんだ。それで隣りの席が空いてたんだけど、そこにさぁ、岡本が会社の同期と飲みに来てて、その同期の方が俺の学部の奴と高校の時に仲がよかったやつで、それで合流して飲むことになったんだ。』
『……。』
『律子はもちろんいなかったし、呼んでもない。男だけだった。それでその時に、明日も空いてる奴だけで飲もうという話になったんだ。それで岡本が仕事終わって俺の会社の前で待ってた。俺は一華にも怒られるからって言う言い方をしてしまった為に、あいつがあんな言い方をしたんだ。電話したのは、今から帰るから一緒にスーパーで買い物しようって思ったんだ。けど、そうはならなかった。ただ一華に俺のせいで嫌な思いをさせてしまった。』
『……。』
『後、飲み会は確かに行き過ぎていた。だから、結婚近いからもう断ろうと思ってる。といっても、殆どお祝いはしてもらったから、ただ同期や学部の仲間と楽しく飲んでただけだから、行かなくても全く問題ないから。』
『……。』
『一華、もう一度、俺と帰ってほしい。一緒に、これからも。』
『……私は、このまま結婚していいのか?と考えてる。兄夫婦に恋愛と結婚は違うって言われて、ずっと考えてた。一緒に生活するって、互いに信頼して互いに協力して、うまく言えないけどさぁ、好きとか愛してるとかそれだけじゃないんだよね。でも哲志は好き勝手に飲みに行くから生活のこと、将来のこと考えているのかが見えないんだよ。一方的に言ってる感じには見えたかもしれないけど、私はそこを切り替える準備段階を踏んでいこうと考えてたんだとは思う。ただ好きと言う気持ちが、嫉妬という形で現れて、それをぶつけたけれどね。』
『そうだな。一華の言うとおりだよ。けど、俺も生活を改めて、もう一度一華と話合って決めて行きたいんだ。』
『……じゃあ、取り敢えず帰ってみて、ダメだと判断したら、お互いに結婚は辞めてよければ。』
『そうならないようにするから。』
『じゃあ、決まりだな。一華、早く帰る準備してこい。』そう兄に急かされるように言われた。
『えっ、何急に。』
『うちも、子供連れて出かけるから。』そうニヤっと含み笑いをされたので、仕方なく帰る準備をして、色葉さんと灯真君と向葵ちゃんに挨拶をしてから、兄の家を後にし、哲志の車に荷物を乗せて自宅へと戻った。