裏切りー1
一、
仕事から帰ってマンションの扉を開けると、帰っているはずの哲志の姿がない。彼の仕事は総合職ではあるが、総務部にいる為に仕事終わりは十八時なので、家には十九時には帰っているはずだった。LINEを見ると、哲志から『ごめん一華、遅くなる。』それを見てまたかと溜息をついて家に入り、洗濯物もベランダにあるままなので先にそれらを取り込む。
彼、永田哲志と同棲を始めて二年になる。付き合い始めたのは大学四年の就活内定がお互いにとれた後だった。私達は学部は違ったのだけれど、同じサークルに入っていたのでそこで出会った。哲志と付き合うまで私は二年先輩の坂井さんと付き合っていたが、郷里で就職が決まったので結局お互いに別れを選んだ。その後は私も就職活動に向けての準備をしなければいけなかったので、恋愛は哲志から告白されるまでは誰とも付き合うことはなかった。就職をして既に五年目になる。
何故哲志が遅くなっているのか、それには理由があった。哲志と私の共通の友人でいて、私の親友である遠田律子が哲志を呼び出すのだ。どういうことなのか、それは仕事のことや職場の人間関係の件で相談に乗って欲しいと連絡がくるらしい。じゃあ何故私じゃないのか、そもそも私は職種が違うということもあるし、私の場合話は聞くけれど、彼女が間違っていると思えば厳しいことも伝えるので、相談するのは専ら哲志の方がいいらしい。
実は私達はただ同棲をしているわけではない。婚約をしている。それを律子もわかった上で呼び出すのでタチが悪い。哲志が帰って来た時には毎回のように呼び出しに対して断るように言うのだが、電話口で泣かれるから仕方ないだろと返ってくる。ただ本当に泣いているのかはわからない。その電話を直接私がとったならばわかるのだが、そうでない分私は疑いをもっている。前に一度私から断ろうかと言ってみたが、それは可哀想だからできないって言うだけだった。
洗濯物を取り込んだ後一人分の食事を作り、食べる前にお風呂の湯張りのボタンを押しておいた。食事をし、後片付けを終えると私はお風呂に入った。
湯船に浸かりながら、もやもやした気持ちを湯に溶かすようにふぅと息を吐きながら、これから本当に哲志とやっていけるのだろうかと考えてしまう。
哲志はいいように言えば優しい人だけれど、ただその優しさが仇になる部分が多々ある。大学時代にも、友人と居酒屋に行って割り勘のはずなのに一人多めに支払わされたり、友人同士でドライブに行く時は必ず運転手だったりしたことがあった。ただそれでもいいよと言って断らない。私からすれば何で、断ればいいじゃんって思うけれど、哲志はお互い様だからと口癖のように言っていた。けどお互い様の様なことは、見てる限りなかったんだけど。
こんな哲志なのに何故付き合うことになったのか、それは何事にも嫌がらず取り組む姿勢という事だろうか、友人に対する優しさに対してという話ではなく、学校での取り組みやサークル活動といったところでの真摯な姿や人の話を聞く姿勢に好感を持っていた。顔はそれほどタイプという訳ではないけれど、だからといって嫌いな顔ではない。
サークルは御朱印巡りをしたり、歴史探訪に行ったりアクティブに動いていた。夏休みなどの長期休みの時は、西国三十三所巡りをしたりもした。近場だと何台かの車で行くけど、バスや電車を使って巡ったりするので、サークル活動で出かける他は、アルバイトで資金稼ぎをしていた。
そうそう、西国二十七番札所の圓教寺に行った時には、ロープウェイで山の上に上がって、そこからまだ山を登って行くんだけど、いざお参りをする時に律子が財布を落としてしまっていて、皆んなで探し回ったら無くて、皆んなで律子の分のお賽銭やお茶屋での飲食代を出しあった。結局律子の財布は帰りのロープウェイに乗る時に、駅員さんが拾ってくれて保管してくれていた。律子はこの頃から周りの人を振り回していたなぁ。京都のお寺に行った時も、ちょっとしたお出かけ気分でサンダルでやってきて、がっつり歩かされて泣言ばっかり。行く前にはかなり歩くことは伝えてあるんだけれど、人の話をまるで聞いていないようだ。そんな状況だから手を引いてもらったり荷物も周りに持たせたりしていたのに、お茶屋さんに入ると我先に席について、もう歩けないとばかりに持ってもらっていた荷物もそこまで運ばせる。ただお礼だけは可愛く伝えるので、いいよと言うしかない。
そんな律子なのに何故親友なのか、それは中学時代まで遡る。実は私と律子は私が中学二年の夏に引っ越すまで、同じ中学だった。私はどちらかと言うと、物事の良し悪しをはっきりと伝える方なので、反対意見の子達とは対立しがちだったのだけど、そんな時に律子がまぁまぁと間に入ってくれて、私が孤立しないようにしてくれていたのだ。その時はそれが居心地が良かったので、仲良くしていた。けれども、大学で再会するとあの頃よりさらに突き抜けた感じというのか、誰もが守ってあげる対象のような、律子だから仕方ないかと諦めているのか、一人少し異質だった。
そろそろお風呂から出ないとのぼせてしまうので、湯船から出てタオルで水気を取ってから、バスタオルで身を包み髪をタオルドライしてパジャマに着替え、洗面所の鏡を見ながらドライヤーで髪を乾かしている時、玄関扉が開く音がした。
『ただいま。』そう言って入ってきたようだが、ドライヤーの風の音でかき消されてしまっていた。哲志は洗面所の扉を叩いて一声かけて扉を開けると、私に『遅くなってごめん。』それだけ言って着替えに行った。
私はドライヤーの後、化粧水や夜用美容液なんかを顔に塗って洗面所を出ると、哲志が今日居酒屋で兄に会ったと言ってきた。その話を聞きたいけれど、あまり遅くにお風呂に入ると近所迷惑になるので、先にお風呂に入るように進め、私は冷蔵庫から冷たい麦茶を取り出しグラスに注いだ。
ふと携帯を見るとLINEの通知が1になっているので、誰だろうと思い開けると兄の二ノ宮光将からだった。
『今日、一華の婚約者、哲志君に会ったよ。女と居酒屋にいた。二人で楽しそうに話してた。あいつ大丈夫なのか?二人の前に行って釘はさしたけど、結婚辞めてもいいんだからな。』そっか、楽しそうにしてたんだ。兄の言う通りなのかなぁ。楽しいから私が注意しても辞めなかったんだ。だったら何で私と婚約したのだろう、湯船に溶かした筈のもやもやがまた蘇って来た。
しばらくすると、哲志が風呂場から出てきた。そしてダイニングの椅子に座る様に促された。
『あのさ、今日お兄さんに会ったんだ、居酒屋で。律子の悩み相談聞いてる時にさ、それでちょっと律子の気持ちが明るくなってきてた時に、お兄さんが僕たちのテーブルにきたんだ。』
『それで?』
『お兄さんに言われたよ。律子見てどういう関係って聞かれてさぁ、友人ですって一華も知ってますって。けど、君、婚約してるよね、一華の気持ちは考えないのか、律子にもさぁ、友人の婚約者と二人きりで会うって、友人の気持ち考えれないのかって言ってた。』
『それで?』
『君が一番に心をおかなければいけないのは婚約している一華じゃないのか。それができないのなら、何故結婚の約束をしたって。そうしたら律子が、一華は許してくれますよ、心配しないでくださいよー。っていつもの調子で言うからさぁ、俺初めて一華が確かに嫌がっていたと思って、律子にこれからは二人で会えないって初めて言えた。律子びっくりした顔してたけどな、何でってな。お兄さんに言われてハッとしたわ。』
『そう。』
『うん。今までごめん。』
『……今まで私が散々言って聞かなかったのに、信用できるとでも。会わないと言いながら、楽しくてまた会うんじゃないの。』
『えっ、あぁ、そうだよな信用できないよな。けど、連絡先ブロックするから。これからの俺見てくれないか。』そして目の前で律子の連絡先をブロックしていた。
『…取り敢えず考えさせて。』そう言って私は寝室に入りベッドに横になった。
自分の気持ちはどうしたいんだろう。兄の楽しそうにと言う言葉が頭の中をリフレインしていて、どうしても引っかかっていた。ただその内仕事の疲れからか、いつのまにか眠りについていて、翌日の目覚ましの音で目が覚めた。
布団から出て顔を洗いスーツに着替えダイニングに行くと、哲志は既に起きていて朝ご飯が用意されていた。お詫びのつもりだろうか、そんなことを考えながら淹れてくれたコーヒーを口にした。あまり食べる気分でもなかったけれど、捨てるのは勿体ないので用意された物を口に無理矢理にでも入れた。仕事柄捨てると言うことができないのだ。
私の仕事はリサイクルの研究をしている会社で、近年問題になっているプラスチックゴミなどの環境問題について、どう形を変えて新しいものを生み出して行くかなどを研究している研究者だ。だから私は家でもエコな生活を心がけていたりする。会社に行く時はお茶を沸かして水筒に淹れて持って行くし、生ごみについてはコンポストを用意し堆肥にし、ベランダで育てているトマトやサラダ菜、バジル、ルッコラ、オクラに使っている。
食事中は何も話さなかった。話す内容もなかったし、いくら哲志が昨日の今日で何か変わったとしても、今すぐ受け入れることはできないし、受け入れたくもなかった。だから、食事が終わるとさっさとお茶を入れて、洗い物をしてから、何も言わず家を出た。
そう言えば、昨日の兄光将への返事をしていなかったので、駅のホームで電車を待っている時にLINEを開き返事した。
『おはよう。昨日返事できなくてごめん。哲志あれから帰ってきて、律子の連絡先ブロックしてた。散々私が言って聞いてくれなかったのにね。ただまだ信用はできないけど、様子見てみる。ありがとう。』
そう入力すると、『無理するな』と帰ってきた。兄は大阪にある弁護士事務所に勤めている。いつも末っ子の私を心配してくれている。結婚が決まるまでは、たまに兄の家にお邪魔して、義姉色葉さんの手料理をご馳走になっていた。兄夫婦には子供が一人、五歳の灯真くんがいて、色葉さんはお腹に二人目を宿している。最近家にお邪魔するのは控えているけれど、行く時は絵本をプレゼントしている。灯真君は色葉さんの影響からか本が大好きなようで、よくリクエストされるのだ。
あと私にはもう一人姉つむぎがいるのだが、日本にはいない。スウェーデン人のOlsson Alfさんと結婚をして、今はスウェーデンに住んでいる。
結婚した後、翌年の二月頃にスウェーデンに新婚旅行で行くことにしていて、姉の家に滞在させてもらう予定だ。姉の子供は今は日本でいう中学校と小学校くらいの年齢の子でSamuelくんと、Stefanくんと、九月に小学校に上がるくらいの子でMartinaちゃんと三人いる。私の結婚式には家族で来てくれるみたいで、今から会えるのは楽しみだ。あっ、ただ結婚辞めるかもしれないから、そうなるとまだ先になるかもしれないなぁ。
電車に乗って四十分、徒歩十分で会社に到着し、更衣室で白衣に着替えて自分の所属している研究室へ行った。研究室には何人かの同僚達が既に出社していて、仕事を始める準備をしていた。『おはよう。』そう互いに声をかけて、私も自分の席に行き準備をした。
『二ノ宮、準備出来たら始める前にお茶しない?』
『うん、ちよっとまってね。すぐに行くわ。』そう声をかけてきたのは、同期の宮本彩生だ。彼女と佐野礼奈、山田一喜が同期で、この二人は別の部署にいる。
私は準備を終えて、宮本がいる応接セットのソファに腰を降ろした。
『おまたせ。』
『コーヒー淹れといたよ。』
『ありがとう。』
『二ノ宮、彼に纏わりついてる奴、相変わらずなの?顔がくらいからさぁ、気になって。』
『あぁ、そうだね。けど昨日うちの兄が居酒屋で二人を見かけて釘さしてくれたみたいで、もう会えないって断ってきたみたい。』
『えぇ、でもそれで大丈夫なの?』
『目の前で彼女のことブロックしてたけど、まだ信用はしてない。』
『そらそうだよねぇ。よく我慢してたよ二ノ宮。で、暗い顔してるのは何でだ?』
『あぁ、結婚本当にして大丈夫なんだろうかって思ってさぁ。これからの俺見てくれとは言われたけど、どうだろうってね。』
『そうだねぇ。まぁでも、このまま結婚するにしても念の為に式後に入籍するようにしたら。』
『あっ、そうだね。そうするよ。』そして私はコーヒーを飲み、そろそろ戻ろうかと声をかけ席についた。