1【古き森の魔女】
西の果て。
木々生い茂る、深い森の奥に魔女が住んでいた。
聖霊と神秘が息づくその森は、「古き森」と呼ばれていた。
古き森の魔女は聖霊を従えて、薔薇十字の印の元に神秘を操ると言われていた。
そしてその魔女には一人の弟子がいたのである。
***
「ミーシャ、森を出ていきなさい。」
古き森の魔女と呼ばれる魔法使いが、一人の少女にそう言い放った。
少女の名は、ミーシャ・レイシア。今年十三歳になる、魔法使いの弟子である。
黄金の髪を二つに高く結び、少女らしい控えめな紺色のドレスに身を包んでいる。
ミーシャは金色の髪を揺らして魔法使いを振り返った。
「どうして? 」
ミーシャは困惑した。
古き森の魔女と呼ばれているこの魔法使い。元より冷酷な性格なのは知っているが、十三歳の少女から衣食住を奪い、捨て置くほど無慈悲ではないとミーシャは知っている。
それ故に、突拍子もないことを言い始めた魔法使いが不思議でならなかった。
「時間がないのだ。お前はここを離れ、世界中に散らばった聖霊石を探さなくてはならない。」
「聖霊石? お母様が残した聖霊石のこと? 」
「………そうだ。」
ミーシャの母親は既に他界している。
聖霊石とはミーシャの母、カルラ・レイシアが遺した、聖霊を結晶化した宝石のことである。
実体を持たない魔力の塊である聖霊を、宝石に結晶化させることで、聖霊の力を使役できるようにした魔法の石。
数多の聖霊を聖霊石へと変えたミーシャの母、カルラ・レイシアは、「星屑の魔女」と呼ばれていた。
カルラの遺した聖霊石を探すことと、ミーシャが出ていかなければならないことと、何の関係があるというのか。
ミーシャは小首を傾げて魔法使いを見つめた。
そもそもこの魔法使いは、魔女と呼ばれてはいるが、歴とした男である。
長い白髪に真っ赤な瞳、魔法使いらしいローブを着ているせいで魔女と間違われたのかもしれないが、魔法使いは男である。
五歳で母親を亡くし、それから八年間をこの魔法使いと共に過ごした。
一緒に風呂に入ったこともあるし、裸も何度も見ている。
何の因果で魔女呼ばわりされているのかは知らないが、間違いなく男である。
「ここに居てはいけないの? 」
この家を出ていかずとも、ここを拠点に探せばいいのではないか?
ミーシャは率直な疑問を魔女にぶつけた。
「いてはならない。……私にはもう時間がない。」
ミーシャは驚愕に目を見開いた。
「………え? 」
「私はもうすぐ消える、その前にここを発て。……最後くらい見送らせてくれ。」
「………。」
告げられた事実に息が止まりそうになる。
今まで考えたこともなかった。
年齢も、名前も知らない魔法使い。
気が付けば傍に居てくれて、独りぼっちのミーシャに寄り添い生きてくれた。
冷たくも優しい魔法使い。
もう長くないのだと、誰が想像できようか。
ミーシャは信じられないと言う顔で魔法使いを見つめた。
「森を発ちなさい。東へ進めば町へ出る。運が良ければ、そこに一つ目の聖霊石があるだろう。」
ミーシャの濡れた瞳を見ても、魔法使いの意思が揺らぐことはなかった。
「……どうしても行かなきゃ駄目なの? 」
「行きなさい。あれを他の魔法使いに渡してはならない。」
「どうして? 」
最後くらいと言った、泣きそうな顔だった。
あんな顔をした魔法使いを見たのは、ミーシャは初めてだった。
だからミーシャは魔法使いの傍に居たかった。
見送りたいと言うのなら、それはミーシャだって同じなのだ。
家族同然の魔法使いの最後に寄り添えないなんて、それだけは絶対に嫌だった。
幼かったミーシャが今まで生きてこられたのは、魔法使いのおかげだ。その恩も返せないまま旅立つのも我慢ならなかった。
「あれは、お前の親がお前のために残した遺物。他の者に渡してはならない。」
「わたしは、別にいらないの。聖霊石とか、よく分からないし…。」
「ミーシャ。」
ミーシャはビクリと肩を震わせた。
魔法使いが怒っていると、反射的に感じ取った。
魔法使いは滅多に怒ることはしない。
感情が昂れば、それは己の魔力に無意識に干渉し、周囲に影響を与える。
感情を波立たせることは魔法使い失格だと、ミーシャはよく言われていた。
その魔法使いが怒っている。
「あれはお前のものだ。」
魔法使いの深紅の瞳がミーシャを見据えた。
じっと見詰められ、ミーシャは抗えないのだと悟った。
どれ程拒絶してもこの魔法使いは、ミーシャを旅に向かわせるだろう。
「お前が手にしなくては意味がない。」
それほどまでミーシャに聖霊石を手にしてほしいらしい。
理由は分からないが、母親が関係しているのかもしれない。
ミーシャの母カルラ・レイシアは、この魔法使いと既知の仲だったという。
カルラの聖霊石を娘に継いでほしいと、魔法使いは思っているのだろう。
ミーシャは魔法使いから視線を外した。床を見つめたままこくりと一つ頷いて、ようやく口を開いた。
「……わかったわ。」
行きたくない。
その本心を胸に秘めて、ミーシャは魔法使いの望む言葉を口にした。
魔法使いは俯いたミーシャの頬に手を当てて、ミーシャの顔を上げさせた。
無理やり顔を上げられたミーシャの眉は下がっていて、唇は引き結んでいた。
「そうだミーシャ、それでいい。行きなさい。」
望む返答が返ってきて、魔法使いは嬉しそうに笑った。
よく言ったとばかりに、目線を下げたままのミーシャの頬を撫でてやる。
そのまま指を滑らせて魔法使いはミーシャの胸元の宝石に触れた。
ミーシャの母親が、ミーシャに遺したお守りの宝石である。
魔法使いが触れると宝石は小さな輝きを放った。
「私がしてやれるのはこれだけだ。一緒に行けなくて、すまないな。」
魔法使いはミーシャの頬にそっと口づけを落とした。
「気を付けていっておいで。……運が良ければまた逢える。」
魔法使いが柔らかく微笑んだ。
「最後」だからだろうか、それはそれは嬉しそうな微笑みだった。
こんなに喜ばれたら、もう行くしかないではないか。
瞳に涙を湛えてミーシャは魔法使いに抱きついた。
「たくさん集めたら戻ってくるね、見せに戻ってくるから。」
「ああ、楽しみにしている。」
「早く帰るから、待っててね。」
「ああ、待っているとも。」
「最後」なのだ。もう本当にこれでさよならなのだろう。
漠然とそんな予感がミーシャにあって、魔法使いもそれがわかるのだろう。
普段は絶対に返してくれない抱擁を、魔法使いは返してくれた。
母を失い、独りぼっち。
不安で、孤独で、どうしていいか分からなかった小さなミーシャ。
どこからともなく現れて、今まで傍に居てくれた、不思議な、不思議な魔法使い。
名前も知らない、年も知らない。
それでもいい。
ミーシャと一緒にいてくれる、少し怖いけど心優しい魔法使い。
いつか、いつかお礼がしたいと思っていた。
傍に居てくれてありがとう。
ご飯を一緒に作って、食べてくれてありがとう。
おはようを、おやすみなさいをたくさん言ってくれてありがとう。
寂しいと言えないミーシャの頭を撫でて、涙も流せないミーシャを抱き締めてくれた。
そのお礼をするために。
***
こうしてミーシャは旅立った。
魔法使いの願いを叶えるために。
いつかまた、魔法使いに逢うために。
生まれ育った古き森を抜け、目指すは東の町へ。
「星屑の魔女」の遺した聖霊石を巡る旅に出る。
胸に、煌めく聖霊石を宿して。