王の後悔
城門が破られた。
押し入ってきた兵士たちの怒号が城の空気を震わせる。
城の内外で剣が交わる金属音が鳴り響く。
城内を走り回る兵士たちの足音と「王を探せ」と叫ぶ声が私を包囲せんとしていた。
この城は直に制圧される。私は捕らえられ、断頭台に立たされることになるだろう。
嫌だ。
私は身震いした。
自分が悪かったのだと分かっていても、惨めに捕らえられ、民衆の悪意の視線と怒号が集まる中に引き出される姿は、想像ですら耐え難いものだった。
私は剣の柄を握り、刃を首筋に当てた。
だが、手が震えて押すことも引くこともできない。
私は剣を放り投げた。
情けない。なんて情けない。
隠れていた部屋の扉が蹴破られ兵士が飛び込んできた。
私は反射的に逃げ出した。どこをどう逃げ惑ったのか、気付くと窓際に追い詰められていた。
兵士は怒りで訳のわからない言葉を叫び剣を振り上げた。
私は「ひいっ」と情けない悲鳴を上げると思わず窓を押し開いていた。そしてそのまま、窓の外に転落した。
こういう時は生きたまま捕らえるんじゃないのか。なぜ剣を振り上げたんだ。殺されるかと思ったじゃないか。
落下しながら馬鹿なことを考えたものである。
次の瞬間、私は地面に衝突し息絶えた。
願わくは、次の生では穏やかな人生を送れますように。
そして私は目覚めた。
柔らかい布団の上で身を横たえる私の目に映るのは、見知った部屋の風景だった。
とは言え、それは私が王太子時代に使用していた部屋だった。
あれだけの戦闘の後だ。こんなに綺麗に残った部屋などあるはずがない。
私はゆっくりと体を起こした。
これは夢か。それとも今までが長い夢だったのか。
少なくとも手に触れるものはすべて現実的で、とても夢の中とは思えなかった。
乳母が来て、『殿下』と呼ばれたので、やはり今は王太子なのだと確認した。
乳母が言うには、私は高熱を出して寝込んでいたのだそうだ。
私が「もう大丈夫だ」と伝えると、乳母は安心して顔を緩めた。
私は今日の年月日を尋ねた。寝込んでいたせいで時間の感覚がはっきりしないというと、納得して答えてくれた。
それは私が十八才、高等学院の三年時、創立記念パーティーの一月前だった。
私が長い夢を見ていたのか、これまでのことはすべて現実だったが時間を逆行してしまったのか、どちらかは分からない。
だが、たとえすべて夢だったとしても、あれが現実には絶対に起こらないと言い切ることは、私にはできなかった。
充分起こり得ることだ。ならばやり直さなくてはならない。もしすべて現実だったとしたら尚更である。
贅沢を言えば、もっと前からやり直したかったが、そんなことは言っても意味のないことだ。
私は早速、手紙を二通書いた。
一通は私のこの時点での婚約者である公爵令嬢へ。
もう一通は私の愛する人へ。
それは明日の早朝、自習室への呼び出しの手紙だった。
高等学院三年時の創立記念パーティー。
それは私が後悔してもしきれない過ちを犯した日であった。
その日私は大勢の生徒、職員、招待客がいる中で、公爵令嬢に婚約破棄を宣言したのである。
公爵令嬢が私の愛する人に対して行った数々の非道な仕打ちを並べ立て、責め立てた。それが後にどのような事態を引き起こすかを考えもせずに。
公爵は憤慨した。当事者一人の証言だけで、ろくに調べもせずに娘に罪があったと決め付け断罪したことは赦しがたいと。
父上にも「なぜ前以て相談しなかったんだ」と、怒られた。
だが、当時の私は自分が間違ったことをしたとは微塵も思っていなかったので、まったく聞く耳を持たなかった。
その上公爵には、悪事を働いた娘を庇うなら爵位を剥奪する、とまで言ったのだ。
もちろん、当時の私にそんな権限はない。従う必要など無かったのだが、公爵は爵位を返上し一族もろとも姿を消した。
父上からしたら、そもそも婚約破棄自体が間違いだと思っているようだったが、それは今さら言ってもどうにもならないことだと考えているようだった。
だが、さすがに公爵一族が姿を消したことには気を弱くし、体調を崩して寝込みがちになった後に亡くなられてしまった。
父上の死は辛く悲しいものであったが、望み通り愛する人を妃に迎え、私は上手くやっているつもりになっていた。
少なくとも即位後十年は何事もなく平穏に過ぎていった。
そしてある日突然、平民たちが蜂起したのだ。
各地で紛争が起こり、その対処のために兵を送ったが、平民出身の兵士たちの中には寝返る者も多くいた。
前年の天候不良によりどこの農地も不作だったにもかかわらず、税は例年通り払わなければならない。元々、ギリギリの暮らしをしていたのだ。これ以上はもう耐えられないと、彼らは口々に言った。
たしかに、王妃の衣装や装飾品のために税率を上げてはいた。それだって徐々にだ。いきなりではない。妻に「貴方のためにいつも美しい私でいたいの」と言われて断ったら夫が廃るというものだろう。
彼らを主導をしていたのが元公爵とその一族だと知った時には愕然とした。そして、憤慨した。
今さら何なのだと。あの時の恨みを晴らしに来たのかと。
初めの内こそ抵抗した。私が王なのだ。逆らう者が悪いのだと。
だが、王妃が逃げ出したと知って、私の心は折れた。
そしてあの日を迎えたのだ。
次の日、私は少し早く学院に行き、自習室で二人を待った。
まず公爵令嬢が来て、私の体調を気遣う言葉をかけてくれた。相変わらず隙のない完璧な振る舞いだ。
次に、私の愛する人が入ってきた。
二人とも呼び出されたのは自分一人だと思っていたようで、お互いの顔を見て驚いて「あっ」と小さく声を上げた。
手紙では他の誰かが来ることも話の内容も特に書かなかったのだから無理もない。
私の愛する人は公爵令嬢を気にしつつ私に近づき、体調の心配をしてくれた。
公爵令嬢と違い、たどたどしい話し方ではあったが、私自身を心配してくれていることが大事なのだ。
私は愛しさに口許が緩むのを必死で堪えた。
「私は、私の決意を聞いてもらいたくて、二人をここへ呼んだ」
公爵令嬢の顔をしっかりと見て言葉を続けた。
「私は貴女との婚約を白紙に戻そうと思う」
公爵令嬢が目を見開いた。
私の愛する人は顔を綻ばせた。
前回、私は大勢の人々が見守る中、芝居のクライマックスを演じるが如く公爵令嬢を断罪した。公爵令嬢は罪を犯したのだからそれを責めるのは当然のことだと思っていたのだ。
だが今はあの時責め立てた数々の罪が真実ではないと知っている。
後から分かったことだが、私の愛する人に嫌がらせをしていたのは公爵令嬢ではなく、親しくしていた他の令嬢達だった。
公爵側からその訴えを聞いた時は、『それでも指示をしていたのは公爵令嬢だろう』と思っていた。
だが、実際は公爵令嬢に阿ねった令嬢達が勝手にやったことだったようだった。
その話を聞いたのは公爵令嬢の断罪から数年経った後のことで、その当時の私はもうどうでもいいことだと思っていた。
おそらく、公爵令嬢が私の愛する人に直接言った注意の数々も高潔過ぎる性格ゆえだろうと思われる。私の愛する人が泣くほどキツいことを言ったのはやり過ぎだったと今でも思うが、公爵令嬢なりの善意だったのだろうと理解している。
今大事なことは穏便に婚約を白紙に戻すことだ。それさえ出来れば、徒に公爵令嬢を責め立てる必要はない。
「理由を伺っても宜しいでしょうか」
公爵令嬢は抑制の効いた声で私に尋ねた。
「真実の愛に抗うことはできないからだ」
私の愛する人はうっとりと私を見詰めた。
公爵令嬢は表情を崩さず冷静さを保っている。
「このことは国王陛下はご存知なのでしょうか」
「いや、まだ話していない。私たちの婚約は家同士のことで王家から公爵家に伝えるのが筋であるとは分かっている。だが、貴女には私から直接伝えるべきだと思ったのだ」
「そうでしたか……。分かりました。今は何も申しません。陛下にお話しになり承諾を得た後で、公爵家としてお返事させていただきます」
ぐるりと踵を返し退出しようとする公爵令嬢を、私は引き止めた。
「ちょっと待て。話はそれだけではないのだ」
公爵令嬢は振り返り、怪訝そうな顔を向けた。
私は揺らぎそうになる心を振り払うように心の中で自分の背を叩いた。
「私は気付いたのだ。私は王の器ではないと」
「ど、どういう意味ですの」
私の愛する人が動揺してしがみついてきた。
私はその手にそっと自分の手を重ねた。
「私は今まで王になるということを深く考えたことがなかった。いずれ父上の跡を継いで王になると言われ、ただ漠然とその道を歩いて来ただけだった。だが、自分がその器ではないと分かった今、王位にしがみつくべきではないと思うのだ」
「つ、つまり………?」
「私は王位継承権を放棄し、市井に下ろうと思う」
「はあ!?」
およそ貴族令嬢とは思えない素っ頓狂な声が室内に木霊した。
「な、な、な、何を仰っているのですか。王太子殿下がそのようなこと、認められるはずがありません」
「ああ、愛しい人。心配することは何もない。何の責任も負わず、誰からも重圧を掛けられることなく、二人の愛を育んで生涯共に歩もうではないか」
前回は怖い思いをさせてしまったがために、城から逃げ出すことになってしまったが、平民ならば誰に恨まれることもなく穏やかに暮らしていけるはずだ。
「お断りいたします」
私の愛する人はそれまで聞いたこともない低く冷たい声でぴしゃりと言い切ると、私の手を払い除けた。思いがけない言葉と態度に私は狼狽えた。
「私は王妃になるのが夢なのです。王太子でない方に用はございません。失礼いたします」
そう言い捨てて私の愛する人は部屋から出て行ってしまった。
私は愛する人が出て行った扉を見詰めたまま固まって動けなくなった。何とか首だけ動かして公爵令嬢の方に顔を向けると、公爵令嬢は私が自分の心に決着を付けられないでいることに気付いたのだろう。仕方なさそうに溜め息を吐いて言った。
「殿下は今、失恋なさいました」
こうして私の『真実の愛』は崩れ去った。
「で、どうなさいますか」
公爵令嬢は私の傷ついた心など無視するように淡々と話を続けた。
「ど、どうとは」
「殿下が婚約を白紙に戻したい理由の一つが無くなりましたが」
たしかに……。
だが、今更、やっぱり結婚しようなんて言える訳がない。
「さっき言ったことはすべてそのままだ。私が王の器ではないことに変わりはないし、王にならない私と結婚する理由は貴女にはないだろう」
自分で言っておいて可笑しくなって、自嘲気味に笑ってしまった。
公爵令嬢は私の問いには答えず、意見を言った。
「ですが、市井に下る、というのは如何なものでしょうか。殿下には無理かろうと存じますが」
意味が分からず返答に困っていると、公爵令嬢は更に言葉を続けた。
「殿下は具体的にどうなさるおつもりなのですか」
「それは、田舎で畑でも耕してのんびりと……」
「剣術の稽古も長続きしない方がですか? 毎日、鍬を握って何時間も畑を耕すと? 根気のない殿下には毎日休まず畑や家畜と向き合うなど無理でございましょう」
うっ……。
「だからと言って、職人に向いているとも思えません。殿下は不器用でいらっしゃいますから」
そ、それは……。
「商人など以ての外でしょう。殿下は単純でいらっしゃいますから、騙されてあっという間に一文無しになってしまいますでしょうね。そもそも殿下は平民が家事全般を自ら行っていることをご存知でいらっしゃいますか。市井に下るということはそれらも全てご自分でなさらなければならない、ということなのですよ。その覚悟はございますか」
そこまで言わなくてもいいじゃないか。
反論できる要素が全くないけど……。
「だからと言って、私が王に向いているとも思っていないのだろう?」
「………それは、まあ。何と申しましょうか………」
そこは言葉を濁すんだな。
私は苦笑した。
そして、最後の提案をした。
「私は次期国王には貴女が相応しいと思っているのだ」
公爵家は初代国王の次男、二代目国王の弟が分家してできた家系で、王位継承に何ら問題はないはずだ。
公爵令嬢はすぐには返事をしなかった。
数秒の沈黙の後こう言った。
「今の話は聞かなかったことにいたします」
その日の授業は気も漫ろだった。放課後になると、私は真っ直ぐ城へ帰り、私の決意を父上に話した。
初めはもちろん全く本気にされなかった。
だが、父上にも思うところがあったようで、後日、公爵と宰相を呼び出しこの件について話し合いが持たれた。
具体的にどのような話がされたかまでは分からないが、私の王位継承権放棄が認められ、公爵令嬢が次期女王になることに決まった。
だが、なぜか私たちの婚約はそのままということになった。
王族としての公務はあるものの政治的権限はない。
よっぽど私を平民にしたくなかったのだろう。
公爵令嬢はといえば、意外にもこの決定に異議を唱えることなく受け入れたという。本人に確認してみれば、『ただでさえ国中が混乱するような変更をするのです。これ以上は避けた方が良いでしょう』といった返事をされた。なるほど、公爵令嬢らしいと納得をした。
私も元々公爵令嬢に恨みや憎しみがあったわけではい。婚約破棄を宣言した時は初恋で冷静さを欠いていたという自覚がある。失恋からしばらく経ち、気持ちが落ち着いた今となっては、私に断る理由がないどころか、あれだけ評価の低い私を見捨てないでくれて感謝の気持ちすらある。
公爵令嬢からは『不得手なことは多いですが、唯一の取り柄は社交性であり、王族として必要な能力でございます』と、貶されている気分になるような褒め言葉をもらった。
この決定が国民に発表されると、思ったような混乱はなく、むしろ好意的に受け入れられた。私の想像以上に公爵令嬢は国民に人気があったらしい。
高等学院を卒業後、公爵令嬢は城に通って政務を学び始めた。とても飲み込みが早く、半年後には父上の補佐ができるようになっていた。
それからさらに一年後、私達は結婚式を挙げた。
妻が政務に励み、夫である私は社交を担当する。一般的な夫婦とは逆だが、これはお互いに性に合っていたようだ。妻は『適材適所』だと笑った。
ちなみに、私の初恋の人はあの後、遠国に留学し、そちらで夢を叶えたらしい。彼女も幸せそうでなによりである。
私の元々の予定とは少々違う結果になってしまったが、むしろこれで良かったのだと思えるほど穏やかな日々を送っている。
私は今、何一つ後悔をしていない。