表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ワンスアイヤー  作者: 丸顔のうさぎ
19/20

ワンスアイヤー 2020

言葉にできない ー あなたに 会えて ほんとに よかった うれしくて うれしくて 言葉に できない


7月9日、この日を私は一生忘れないだろう。


珍しく彼が「送っていくよ」と言った。一緒に食事をして、彼のマンションで時間を過ごした後、いつもだったらおどけてコマネチの真似をし、玄関で見送るだけなのに。追加の飲み物を買いに行くと言う彼と一緒に夜のお散歩、この穏やかな時間が好きだ。


歩き始めてしばらくしたら、言いにくそうに彼が言った、「付き合おうかと思っている人がいる」と。


覚悟はしていた。 この数年ずっと私が彼と一緒にいるのは、彼が本来いるべき人と一緒になるまでの“つなぎ”でしかないと自分に言い聞かせていた。なので第一声は 「良かった!」、それ以上の言葉が出なかった。 心から祝福したいと思ったし、やっとこの日が来たとも思った。しかし駅前のバス停で座りながら話をしていると、いつの間にか涙が出ていたらしい。笑顔で祝福していると自分で思っていたら、「泣いてますがな」と彼が教えてくれた。悲しいわけじゃないのに。彼の幸せを心から願っているのに。これまでも婚活パーティーで知り合った人とデートするなんてことをバカ正直に話してくれた彼なのに、今回だけはいつもと全然違う予感がする。感じたことのないような胸騒ぎ。しかし私には悲しむ権利も、落ち込む権利もない。彼の決断を見守るだけ。ただ私に話してくれたことが嬉しい。


奥さんと別居して以来、1人で10年近く頑張ってきた彼。きちんと家族を持って、人並みに父親になって、幸せになってほしいと思う。その反面、彼の優しい笑顔や、温かい胸、力強い腕が他の人のものになるのかと思うと心がえぐられるような気持ちになる。新しい彼女は彼より1回り以上年下の37歳で、その彼女の方が彼に夢中になっているという。こんな良い話はない。なので彼が打ち明けてくれた時に「これでいいんだよ」と背中を押してあげることができた。 私の精いっぱいの強がりだ。


翌週彼の家に行くと、ベッドに見たこともないような細くて長い髪の毛を発見した。私の剛毛の多分十分の一以下の太さかもしれない。


もうそんな仲になっているのか・・・。


これを境に私が大好きだった彼の家の心地よいベッドは、私のものではなくなった。彼女はきっと小さくてほっそりしていて、髪の毛も柔らかい、私と全然違うタイプの人なのだろう。翌週から部屋に入った瞬間に髪の毛を縛り、私の気配を残さないために細心の注意を払わなければならなくなった。彼も彼で、いそいそと玄関で私にブラシを渡し、髪を縛るように促す。そんな思いを私にさせる彼に、情けないなと思う気持ちもあれば、いつか彼の赤ちゃん抱きたいという、私のささやかな野望を叶えるためには仕方ないと割り切る気持ちの両方が交錯する。


次第に彼女がどんな女性かわかってきた。東大を卒業していて、ビル建設の計画が持ち上がるほどの敷地がある恵比寿の家で育ったお嬢様だそうだ。「からかいのネタが一つ増えたでしょ?」と彼は嘘ぶいていたけれども、彼女が東大卒なのはきっと彼の自慢で、惹かれた要因の一つなんだろう。なんだかんだ言いながらも、彼は頭のいい女性が好きなのだ。私のことは多分勘違いしているが、本来彼は知的な女性を好むことは、長いこと付き合っているとよくわかる。今度の彼女はそんな彼にぴったりの人だ。


付き合い始めに相手のことをすごく知りたがる彼なので、きっと今の彼女とも、まるで畳み掛けるように色々な話をしていることが想像できる。それに若い頃長期間にわたり同棲していたことを考えると、遅かれ早かれ今の彼女とも一緒に住むことになるのだろう。そうしたらもう彼の家に行くこともできなくなる。


マンションにお邪魔できなくなる前に、以前から買ってあげたいと思っていたトースターと電子レンジを彼の誕生日プレゼントしたいと言ったら、彼が心底困ったような顔で「(彼女と)一緒に買うから…」 と言った。


あぁやっぱり。


一緒に住む方向で話が進んでいるだろうことはわかり切っていたのに、私はまだ彼女面かのじょづらをしていたのだ。なんて無神経なんだろうと、自分の馬鹿さ加減に冷や水を浴びせられた気分になる。


切ないことに、帰り際ふとテーブルの上を見たら、封筒の余白に可愛らしいムーミンのイラストと、「今だけなんて絶対信じない」という力強いメモが置いてあった。

きっと彼のことを「好きだ、好きだ」という彼女に対して、彼が「そんなに夢中になるのも今だけやで」的な事を言ったのだろう。付き合い始めたばかりの恋人たちの、熱いやり取りが想像でき、いたたまれない気持ちになる。私はいつの間にか彼にとっての「邪魔者」に成り下がっていたのだ。


夏休みの初日、彼から突然呼び出しがあり、横浜の中央市場食堂に食事に行こうと誘われた。炎天下を歩くことを考え、駅での待ち合わせの直前にuvカットのアームカバーを買った。すると彼に「おばあちゃん」と言われてしまった。

「バカだな、私!」と心の中で自分に怒る。機能性ばかり重視して、見た目を全然考えていなかった。なぜちゃんとおしゃれをしてこなかったのか。確かに私は彼が言うとおり地味な格好の“おばあちゃん”のようだった。辛らつな彼だが、日焼けしないようにと、私のために帽子を持ってきてくれていた。彼のこういう優しさが私をより切なくさせる。


そして彼はその日もできなかった。


ここ数回そんなことが続いている。私と会うために薬を飲んだり、にんにくを食べたりしてくれているが、やっぱり若い彼女の体と比べると見劣りするのだろう。それでもまだ抱いてくれようとする彼の一生懸命さがまた切ない。「新しい彼女ができました。今夢中です。もう会うのをやめましょう」と言われても仕方がないのに。


このことをきっかけに、私はヨガ教室に通うことにした。今年の初めに流行りだしたコロナウィルスの影響で、ふる里への帰省ができない。そこで今年の夏休みは自分自身のために使おうと思ったのだ。とりあえず不妊治療を始めて以来太り続けていた私は、長年の課題だった肥満を解決しようと決めた。彼に「ビキニ姿を見せる」と約束していたGWの石垣島旅行でも、結局1キロも痩せることなく当日を迎えてしまっていた。

彼に抱いてもらう時に、これ以上惨めな思いをしたくない。私のせいなのに「ごめんな」と彼に謝らせたくなかった。


彼は近々彼女の家にご挨拶に行くそうだ。付き合うだけで、おまけにお相手はもう30代後半だというのに、ご両親に挨拶?とも思ったが、東京の山の手に暮らすお嬢様だったらそうゆうものなのかもしれない。

来月誕生日を迎える私に、彼が「もう少しするとお金が自由に使えなくなってお祝いができなくなるから、今のうちに何でも好きなもの言ってね」と言ってきた。きっと近々一緒に住み始めるのだろう。「付き合おうと思っている人がいる」と言われてからまだ1ヶ月しか経っていないのに、訳のわからないうちに話が進んでいて、事実だけがどんどん積み重なっていくような気がする


物分りがいいフリをしている私は、いつの間にか蚊帳かやの外。恋人から外野に格下げだ。


最近泣いてばかりの私に、彼が「変な悲しがり方はやめなはれ」と言う。実際私には夫もいるし 彼が私と暮らしたいと言ってくれたとしてもそれはできなかった。なのに 悲劇のヒロインを気取っている。 バカだ、私は。これまでずっと彼をほったらかしにしてきたのに、今になってこんなに切ない思いをするなんて。


9月、私の誕生日前日に二人で藤棚商店街を目指す。いつの間にか猟銃に興味を持った彼が、ここにある銃砲店に行く用事があったのだ。この商店街は彼が以前「婚活パーティーで知り合った人とデートする」と教えてくれた場所だ。あれから2年は経っただろうか。あの時の彼と今の彼は全く別人に見える。7月に彼女ができて以来、彼は私に何も話してくれなくなった。それまではまるで小学校から帰ってきた子供が母親に一日の出来事を伝えるように、色々な話をしてくれた。それがぱったりなくなったのだ。私と会っていても、余計な会話は一切せず、常に上の空だ。そしてこまめにLINEのチェックをするようになった。私のお役目はそっくり彼女に移ったということだろう。


銃砲店に行った後、二人の思い出の焼肉屋「平和苑」で私の誕生日祝いをしてもらった。相変わらずのクオリティで、「おいしいね」と微笑みながら二人の大好きなロースやカルビを頬張る。彼はいつか彼女とこの焼肉を食べに来るのだろうか。ここは私とだけの想い出の場所にして欲しい。もちろんそんな事を願う権利なんてないのだけれど...。


そしてこの月の終わり、彼から「10月25日に入籍する」と LINE が来た。 つい最近ご両親にご挨拶に行くとは聞いていたけど、まさかこんなに早く結婚が決まるとは思わなかった。東大出身で、お家は恵比寿の一等地で、彼よりも一回り以上年下と言う当初の人となりに加え、この頃には、彼女は年齢の割にお給料が良く、彼も好きな大型バイクを乗り回す人ということまでわかってきた。彼にとってこれ以上のお相手はいるだろうか?

彼女だけでなく大学の教授をしているというご両親も結婚に前向きだそうだ。 いいご両親だ。 私も何回も彼を自分の両親に紹介するシーンをシミュレーションしていた。 しかし私の父だったら絶対に快く賛成しなかったと思う。 心配性で私のすることにとりあえず何でも反対する人だし、お酒が好きな人だというだけでいい顔をしなかっただろう。

それに比べて、彼女のご両親のなんと人を見る目があることだろう。 本当に最高のご縁だと思う。


「おめでとう」とは言ったものの、私が悲しがっていたのがわかったのか それとも最後に思い出作りをしようとしてくれたのか、彼が温泉旅行に誘ってくれた。 場所は四万温泉。まるで小学生の遠足のようにワクワクしながら準備をした。楽しかった温泉旅行が終わる時、帰りの直行バスで涙が止まらなくなった。彼が彼女に送っていたLINEのメッセージが目に入ってしまったのだ。


彼は彼女をすでに呼び捨てにしていた。


私を「さん」付けから「ちゃん」付けで呼ぶのに7年もかかっていたのにだ。そして子作りを始めていたのも分かった。「赤ちゃん、また消えちゃった」と彼女が悲しがっていた。「また」ということはすでに複数回妊娠の兆候があったということだろう。


ここで私は自分が大きな勘違いをしていたことにやっと気づいた。


私にとって彼の結婚は「彼の子供を抱きたい」という、私と彼との共同のプロジェクトのはずだった。彼が結婚したとしても、私のことは相変わらず大切に思ってくれて、そして逐一子作りプロジェクトのことを報告してくれて、私はそれに指示をしたり、相談に乗ったりする立場にいられると思い込んでいたのだ。それが今では私はまったくの第三者で、プロジェクトの主役は彼と彼女とに移っていた。


本当に私はおめでたい。


もし彼に子供ができたら、学費などに困らないよう、彼の子供に私のわずかな遺産を遺したいなんて話をしていたが、お金持ちのお嬢さんと結婚して、結婚を機に本籍を恵比寿に移すという彼には、もう私のサポートなど必要もない。もし宝くじに当たったら、彼にスーパーカーを買ってあげるなんて夢を楽しく語っていたこともあったが、そんなことが現実になったとしても彼を困らせるだけだろう。つまり私の存在は彼にとって迷惑以外の何者でもないのだ。


私の隣で同じ方向を見て一緒に歩んでいると思っていた彼は、気づけばいつの間にかはるか遠くの前方に、違う人と肩を並べて進んでしまっていた。私はこの数ヶ月その後ろ姿を追いかけていたのだ。


もう追いかけるのは止めよう。


知り合ったばかりの頃、彼に言われた「ずっと会える人でいてほしい」という言葉を、私は守ってきた。彼と一緒に前を見つめて行きたいと、そしてもし彼が離れても、戻りたいと思った時にいつでも迎えられる、彼の港のような存在になりたいと願っていた。


今がまさにその時なのかもしれない。


7月に彼に付き合おうと思っている人がいると言われて以来、私はほぼ毎日泣いていた。彼の前でも何度も涙を見せてしまった。彼にまだ会えているのならこんなに泣く必要は無いのに、ただ悲しくて会いたくて重くつまらない女に成り下がっていた。こんなのは私じゃない。


私は自分が好きな私に戻ろう。そしてただ彼の幸せを祈ろう。これまで一緒にいられたことを感謝しよう。思い返せば私は17年間も彼と付き合ってこられたのだ。それだけで十分じゃないか。彼と会えている時、私はとても幸せだった…だからこれだけは言える。


彼に出会えて本当によかった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ