62. 間違った世界の歩き方2 力なき支配者の独白〜SNSとジグソーパズル〜
歩きながらさっきの光景を思い出す。
それにしてもなんたら映えとかいうのは本当に流行っているんだな。
俺もSNSのアカウントは数種類持っていはいるがもうあれこれ半年は放置している。もしかしたらもう消えてしまってるかも知れない。
どうも俺はああいうものは性に合わないらしい。
そんなに仲良くもない人に自分のことを晒す感じも、それに「いいね」なるものがつく感じも、つながりが可視化されているような感じも、どれもなんとなく嫌だ。
俺は多分他の人より他人に興味がない。他人の評価を気にしない。いや、おそらく意識的に気にすることを避けている。
他人に迷惑をかけていいとは思っていないが迷惑さえかけないなら何やっても俺の勝手だろとは思っている。
だから「いいね」という機能に色々思うところがある。
誰かの気まぐれの1タップで増える「いいね」だが、明確に数値として自分に届く。
それは間違いなくSNS世界の中の評価になる。
「いいね」という機能が全ての言動に間隔尺度を与えるのだ。
他人の投稿と比べられ、自分の投稿間でも比べられる。
誰が比較するか。そんなもの他の人は見ていないかもしれない。
だが考えるべき可能性はそこではない。問題は自分で比べることができるのだ。
自分の中では投稿は自分の一部に感じ、投稿の「いいね」は自分の評価に感じるのだ。たとえ世間はそう思っていないとしても。
そして「いいね」という承認はあまりにも簡単に得られる。
他人に認められるという本来相応の努力の時間と才能が必要なものを簡単に得ることができるのだ。
これはもう麻薬と何ら変わりない。
「したいことをする」から「認められることをする」ようになるには十分な快楽が、承認欲求と自己顕示欲の塊になるには十分な環境が、「いいね」にはあるのだ。
この窮屈さが俺は嫌いだった。欺瞞に満ちた承認に気づかないふりをし続けることが嫌になった。
だから正直に言うと俺はタピオカに並ぶ女子をバカにし、そしてうやらましく思った。
あんな意味のない数字をかき集めるために休日を費やせるなんてバカじゃないかと。
錯覚のような承認欲求を求め、つまらない虚栄心に囚われ、自分の行動を決めることすら他人の見え方に影響されるなんてバカじゃないかと。
あの空虚に見える行列を見て、内心思った。
しかし、しかし同時にこうも思うのだ。
なんでそこまで他人に依存できるのかと。
なぜそこまで自分と自分以外の境界が曖昧でいられるんだろうと。
俺はこれからの人生1人で生きていけるなんて思っていない。
どれだけ反りがあわない同級生でも、どれだけ理不尽な上司でも、どれだけ自分勝手な隣人でも、このような街で今のような水準の生活を続けていくためにはどこまでも他人がつきまとう。
いや、知ったような口を聞いているがきっと大人になったらもっと理不尽な人付き合いが待っている。
それだけ生きていくことと他人の存在は似た意味を持つのだ。人間とは、社会とは、人生とは、かかわりなのだ。
そんな他人と上手くやることは、すなわち人生を上手くやっていくことと言えるだろう。
前期の高校生活を振り返ってみればこのことを痛感する。
もしクラスの男子ともっと敵対していたら、もし白川たちと出会っていなかったら、もし勉強に絶望して学校に行かなくなっていたら、もし何かの理由で親が家からいなくなっていたら・・・。
それらは今の高校生活とは全くの別物となっていただろう。
もちろんそれらの反実仮想の世界にも今とは違う楽しみがあったと思う。それらの可能性を否定してはいけない。
だが間違いなく"今の"生活とは違っていた。幸福度がもしかしたら上かもしれないが間違いなく別物ではある。
自分の人生は逢った人によって創り上げられていく。そこには自分が思っているよりも自分の意志は介在していない。
世界というダイナミックな動きの前では個人の意志なんてちょうど川面を流れる落ち葉のようなもので、石に当たれば流れる向きは変えられるし、流れが急になれば早く流される。そして川に落ちたときには想像もできなかったところに流れ着く。
だから俺は思う。
もし流れる落ち葉に感情があるとしたらきっと川の流れを受け入れた方が幸せなのではないかと。
川の圧倒的な勢いに半ば諦めの念を持ち、それを受け入れることで心に余裕が生まれる。
そんな落ち葉の方が、川に怒りを持ちながら我が道を開拓せんと躍起になったはいいが結局他の落ち葉と同じ運命をたどる落ち葉より幸せな一生を送れるのではないかと思うのだ。
今の俺はどちらの落ち葉だろうか。川の流れを受け入れられてはいるだろうか。
どう考えてもそこまでの諦念を持てていない。
もっと頭を空っぽにして流れるほうがきっと幸せなのに、どうしても流れる意味を考えてしまう。
なぜ全てをなげうつことができないのか。
SNSという新しい潮流にはより懐疑的になるのも仕方ないかもしれないが、その懐疑心の根底には大きなエゴがある。
他人に同化しないという分不相応な自尊心と他人に受け入れられたいという本能的な承認欲求の狭間でエゴが揺れ、どちらもバカにしどちらにも羨望する。
だから俺は周りの落ち葉を見て思うのだ。
「なにも考えずに流されてバカじゃないの」と。
「俺もそうやって上手く流されたいな」と。
じゃあ、他の人から見た俺は川の流れの一部なのだろうか
他人から見たら俺は他人であるわけだし、俺も世界の一部に見えるのだろうか。
他人とは明らかに異なる存在、つまり落ち葉は思考を以て川を理解することはできるのだろうか。
その差は理屈で超えられるものなのだろうか。
その隔たりを克服できる可能性を、今の俺はどうしても認めることができない。
歩きながら考える。
俺というピースと世界というパズルの関係を。
他のピースが揃ってこそ単体のピース意味が生まれるのか。
それとも俺が世界というパズルに意味を与えるのか。
ピースははまる場所があるから意味がある。
そこにはある意味決定論めいた自身と同じ形の穴がないといけない。
しかしパズルはピースが埋まってい初めて意味を持つ。
人間いうピースは社会というパズルの何なのだろう。
俺は世界の内側なのだろうか、それとも外側なのだろうか。
俺は世界の実部なのだろうか、それとも虚部なのだろうか。
今の俺にとって確かなことと言えば、目の前に石が落ちていてそれを蹴り飛ばせるということくらいだ。




