210. Immoral Moments
ちょうどいいタイミングだろう。伝えたい事も十二分に言えたし、きりも良い。
立ち上がるため、俺は傘を支える手の力を抜く。
だが、その瞬間、俺の手を離さないかのように、上からさらに放生の左手が重なった。
「ありがとう。ありがとう。もう一度いろいろ落ち着いて冷静に考えてみる」
立とうしていた足の力を抜く。
「あんまり考えすぎるなよ」
「うん」
「ねぇ」
「?」
「斉藤くんは、どうしてこんなにわたしに優しくしてくれたの?」
「・・・そんなに優しくした記憶ないんだが」
「ううん、優しくなかったら、きっと、こんなこと話してくれない」
「そうかな・・・・・・そうかもな」
「ねぇ、どうして?」
「そうだな・・・」
「空回りながらも必死に頑張っているお前に最後くらいは笑っていてほしかったからかな」
「・・・もう、ほんとに生意気」
放生は笑いながら俺の頭を小突いた。
「そろそろ戻ろう」
傘を受け取り、再び足に力を込めて立ち上がった。
「・・・」
後ろで放生が立ち上がる音がした。
・・・。
玄関の方に戻ろうとした瞬間。
「え???」
「・・・」
彼女はなにも言ってこない。
「ちょっ・・・」
予期せぬ事態に俺は完全に硬直する。
「ごめんね・・・つい・・・我慢できなくて」
必死に首を動かして自分の背中を見ようとする。
「まずいだろ・・・これは・・・」
そこには彼女のうなじがあった。
俺は無意識に校舎の方を見てしまった。だが無数に並ぶ窓の中に誰かがいるかどうかなんてまったくわからなかった。
「今日はまだ、ただのひとりの女子大生だから・・・」
「ぃゃ・・・」
声にならない声が出る。
もう、放生は何も言わない、というのがなんとなくわかった。
この一瞬だけ俺の周りから音も景色もなくなった。
「ありがとう。またね」
突然、放生はそう言いながら俺の背中から密着した身体を離す。
「ほんとにありがとー!」
気づいたら放生は手を振りながらグラウンドを走って突っ切っていた。
しばし呆然と立ち尽くした後、グラウンドでひとり雨に打たれる現状に気づいて我に返る。
「・・・戻るか」
ぱっぱっと傘を開閉して雫を払い、再び差す。
「雨、止まないな」
漫画なら雨が止むタイミングがいくつかあったが、残念ながら今もしっかり降っている。
不意に悪寒がした。さすがにこの季節で長時間雨に濡れていたのはまずかったかもしれない。
そういやどれくらいここにいたんだろう。
俺はスマホを取り出す。
「あっ・・・」
スマホのロック画面にはさっき確認したときより1時間ほど経った時刻と、その下に白川・北本・佐々木・順からの数え切れない不在着信が並んでいた。
意味がないとわかりながらも濡れた手を濡れたズボンで拭いてスマホを操作し部活のグループチャットを急いで開く。
少し考えてメッセージを送る。
『ごめん、ちょっと友達と話してた』
本当のことを言うのは憚られたが、これもあながち嘘ではない気がした。
俺はひとりでそんなことを思いニヤつきながら携帯をしまう。
グラウンドにはまだ消えていない彼女の靴跡が残っている。
俺は自分のより一回り小さいそれを踏まないようにして、灰色の校舎に走って戻っていった。




