106. クソみたいな世界からは逃げればいい
人気のない場所についてのレパートリーには自信がある。教室から少し離れた人気のない階段に北本を引っ張ってきた。
「どうした?体調でも悪いのか?」
「・・・・・・いえ。」
うーん。どうしよう。こういう時どうするのが正解かわからない。
わからないのでしばらく黙っておく。
「・・・斉藤くん。」
「ん?」
おもむろに北本が口を開く。
「──今やっていることは『しなくてはいけないこと』なんでしょうか。」
北本は顔を上げる。
その表情は悲しいような自嘲しているようなさみしげな顔だった。
北本の言葉の後2人の間にしばしの沈黙が訪れる。
ある程度想定できていた言葉だったが、どう言葉を紡ぐのが正しいのかを今一度考える。
「まぁ、しなきゃいけないことじゃあないわな。」
彼女の方ではなく、どこか上の方、誰もいない階段の踊り場の方に向けてつぶやく。俺はまるで鏡の中の自分を見ているかのような気分になっていた。
「・・・・・・」
北本は三度押し黙る。
その沈黙が意味することは何だのだろうか。俺の返答が望ましいものではなかったのだろうか。それとも、あまりにも予想通りのもので却ってあっけにとられているのだろうか。その真意を知る術は俺にはない。
「そう言えばこうしてふたりきりで話すのは久しぶりだな。」
俺は北本の沈黙を良いことに1人語り始める。
それは北本に向けての言葉だったのか、それとも単なる独白なのかは自分でも判然としなかった。
「これは他の誰でもなくお前だから言うことなんだが、正直俺はこの文化祭が明日中止になったところで何の感情もわかないと思う。
色々あってそれなりに精を出して仕事をしているが、だからといってこの行事に特別な思い入れも情熱も全くと言っていいほどない。正直な。」
俺が階段の一段目に座ったのに倣って北本も静かに腰掛ける。
こうして他の人を気にすることなく話すのは合宿以来かななんてふと思った。
「生きていく中で起こるイベントには様々な指標があると思う。純粋な楽しさ、大変さ、必要度。他にもまぁ色々なものがあると思うけど、ここで厄介な問題がいくつかあることに最近俺は気付いた。
1つめはこれらが独立ではないということ。大変であるイベントは、終わってみればそれなりに楽しいと思うこともあったりする。もうひとつの問題が、それらの関係性に普遍性がないこと。大変だからっていつも楽しいわけじゃない。これらの問題が俺達みたいな者のイベントのモチベーションを著しく下げる。」
北本は肯定も否定もしない。ただ黙って俺の独り言を隣で聞いている。なんだか俺達の周りだけがこの空間で温度が低いような錯覚を感じながら独白を続ける。
「がんばった分だけ終わった後の喜びも大きいなんてよく聞くが、果たして頑張ることがハッピーエンドの必要条件なのかと考えてみると、俺はとてもそうは思えない。今や同程度の幸福を得るための手段は他にあるだろうし、そもそもがんばった分だけ報われるというのも疑わしい。それは頑張ったから幸福を感じなければいけないというある種の防衛本能なのではないかとさえ思える。」
「俺はこのことを考える時いつもスポーツ漫画のことを考えてしまう。主人公は努力して、挫折しながらも最後は勝利する。しかしその主人公に打ち負かされたライバルは?同程度の努力をしていても同程度の結末を迎えることはできない。確かに勝つことが全てではないだろう。しかし確かに結末は主人公とライバルの間に大きな乖離がある。
きっと世間の人はこう言うだろう。『努力に意味がある。その努力はきっと人生の糧になる。』と。
だが俺は思う。その糧とやらは努力と釣り合っているのかと。終わった後の努力をあまりにも軽視しているのではないか、と。」
ひとつ息を吐く。
「クラスでメイド喫茶をすることで得られる楽しさ・幸福と同程度のそれらを得るもっと手軽な方法はおそらく存在している。あくまで量的な話ではあるが。
だから俺は・・・」
きっとこの先の言葉は言うべきではないのだろう。
しかし俺は北本には本心を伝えたかった。
「まぁ多分俺の立場的には言ってはいけないことなんだろうが、お前が嫌ならいますぐ辞めて家で好きなことをしていてもいいと思う。」
その言葉に初めて北本の眉が動いた。




