表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

寝る前に読みたいオリュンポスの子守話

作者: 山元弘真

 本編は、ギリシャ神話の一挿話を題材に、人称を変えて再構成したものです。実際の伝承とは内容が異なる箇所があります。ご了承ください。

 専門用語と主な登場人物の肩書きについてまとめておきます。読み飛ばしても結構です。

・ニンフ……妖精、もしくは下級女神。

・沐浴……身体を水で洗い清める儀式。

・アルカディア……ペロポネソス半島中部にあった都市国家。今のアルカディア市よりも広い。

・カリスト……ニンフ。アルテミスの侍女。

・アルカス……カリストの娘。

・ゼウス……最高神。天空神もしくは雷神。

・ヘラ……ゼウスの姉、かつ正妻。結婚の女神。

・アルテミス……ゼウスの娘。月と純潔の女神。

・ヘルメス……ゼウスの息子。伝令と商人の神。


 眠れないの? 

 あら、かわいそうに。でも、もういい歳してんだから、一人で寝られなくちゃダメよ? 全く、甘えん坊ね。分かりました。じゃあ、今夜は特別なお話をしてあげますね。

 今でこそ、性犯罪の被害者の権利が声高に主張されるようになったけど、私の頃は酷いもんでした。……えっ? 子守の話じゃないって? まあ、黙ってお聞きなさいな。

 ただのニンフ──妖精に過ぎなかった私が、ゼウス様の手で犯されたときには、誰一人として、私の味方をしてくれる人はいませんでした。そう、ここでいう人というのは、神様も含めて、ですよ。

 月の女神アルテミス様に侍女として仕えていた私は、男と一切の関係を持たず、貞潔を守り抜くことが求められていました。代わりに、アルテミス様も処女を通していわけですが──。

 そのアルテミス様が、ある夜、私を個人的に呼び出されました。どうしたんだろうと思って、人目を忍んで会いに行くと、何とそこには、下着姿のゼウス様がいますではないですか。逃げようかとも、一瞬思いました。でも、私がどこに逃げたって、全知全能のゼウス様には見つかってしまいます。何にせよ、私の立場ではゼウス様に逆らうことはできませんでした。だってそうでしょう? 最高神ゼウス様に迫られて、拒絶できるはずがないではないですか。強姦? 確かに強姦とはちょっと違うかも。でも、合意のないままでこれに及んでいたことには、変わりないでしょう?

 #MeTooですよ#MeToo。

 しかし、一介のニンフが男と通じていた、この情報だけが、瞬く間に噂になりました。さらに悪いことには、私はその一晩で妊娠してしまったのです。

 正直に告白しようとしても、アルテミス様がお怒りになったらどんなに恐ろしいか、想像するだけでも足が竦みます。結局、私は自分からは言い出せないまま、グダグダと時を空費していきました。

 そうして、運命の日です。

 神様はいつだって気まぐれ。森を散歩していたアルテミス様が、急にこんなことを言い出しました。

「皆の者、これより、あれなる泉にて沐浴せよ」

 従っていたニンフたちは、揃って閉口しました。だってアルテミス様ったら、暇さえあればすぐに沐浴、沐浴って……。某国民的アニメの台詞を借りれば「なんできみはそう、いつもいつもオフロばっかり入るかなぁ」って感じ。純潔の女神というキャラ作りのためだとしたら、少しはニンフの身にもなってほしいです。

 でも、結局、アルテミス様には口答えできずに、みんな服を脱ぎ始めました。そんな中、私は一人、服を脱げずにいたのです。

「おい、そこの者」

 ついにアルテミス様に見つかってしまいました。

「カリストとか言ったな。何故衣を脱がぬ。言え!」

 怖いです。ほんと、寿命が縮みます。というか実際縮みましたけど。

「も……申し訳ございません。実は……」

 しかし、ここまで来ると観念するしかありません。

「私のお腹の中には、天空神ゼウス様の御子がおわしますゆえ」

「な……はぁ?」

 アルテミス様は一瞬狼狽えましたが、すぐに気を取り直して仰せになりました。

「貴様、父君と情を通じたということか?」

 ああ、そう言えば、アルテミス様は一応、ゼウス様の御令嬢でしたね。

「何と汚らわしい……貞潔も守れぬ女に、何が守れると申すか!」

 今どき、そんなことを公然で叫んでも、笑い者になるだけなのに。

「事もあろうに、この世を統べたもうゼウス様と、だと?」

 因みに、アルテミス様自身も、ゼウス様の不倫で産まれたお方です。

「そ、それでは貴様が、我の義理の母となるということではあらぬか!」

 あ、本音はここだな。

「一夜の過ちでございます。どうか、お許しを……」

 まあ、こんなことを言っても無駄ですよね。はーい。分かってました。

「リュカオンの娘カリストよ、純潔の女神アルテミスの名において、貴様をエリュマントス山へ追放する!」

「え、エリュマントス山?」

「左様だ。エリュマントスの樹海に軟禁され、一生、世を偲んで暮らすのだ。序でに、人食いイノシシでも放っておこっかな?」

 どうして急に言葉遣いを崩したのかは置いておいて、こんなのは死の宣告と同義です。子持ちのニンフが、どうやって食べていけと?

 とまれかくまれ、私は一旦はエリュマントス山へ行くしかありません。重たい身体を引きずって、私はひたすら歩きました。不倫女として、行く先々で冷遇されましたが、それも慣れれば安い試練です。ただ、お腹の子供に害がないか、それだけが不安でした。

 それでも、エリュマントス山近くのランビアで、無事に元気な男の子が産まれました。満月の綺麗な夜でしたから、アルテミス様も、ひょっとしたら私の出産を見届けて下さったのかもしれませんね。

 しかし、命令は命令です。私は赤ちゃんを抱いたまま、エリュマントス山の奥地へ、人の住める土地を求めて歩きました。あるかどうかも知れない助けを探して、ある晩ようやく、狭い原っぱに民家を見つけました。喜んで入ろうとした、そのときです。

「もし、そこのご婦人」

 女の人の声がしました。私が後ろを振り返ると、そこには、フードを被った方がお一人で佇んでいました。夜の暗がりの中でしたから、顔はよく見えませんでしたが、上品な気高さがどことなく感じられました。

「旅のお人とお見受けします。かような辺鄙な所へお越しになるとは、道にでも迷われたのですか?」

「あ──はい」

「それは大変でしたね。赤ちゃんは私がお預かりしますから、休んでいきなされ」

 このとき、親切な人だと、一瞬でも感じた私が愚かでした。

「では、お言葉に甘えて」

 赤ちゃんを手渡した瞬間、フードの下から、黒い笑みがちらりと見えました。

「この子、名前は何と?」

「まだ決めておりませんの」

「そう。……それなら、お母さん、あなたのお名前は?」

 一瞬躊躇しましたが、ここまで不倫の噂が伝わっているとは思いませんでした。

「ニンフのカリストと申します。そちらは?」

 私が聞き返すと、彼女はフードを勢いよくめくり、私に微笑みました。

「頭が高いわ、ニンフ。ゼウスの妃ヘラと言ったら、私のことよ」

 ヘラ様──。

 ゼウス様の実姉にして正妻、結婚の神ヘラ様です。そんなお方が、どうしてこんな所に? 答えは簡単です。間女の私に、直接恨みを晴らしにいらっしゃったのです。本当に迷惑な話です。

 赤ちゃんを優しく抱えるヘラ様に、私は、咄嗟に跪きました。

「申し訳ありません、ヘラ様! 私はいかなる責め苦でもお受けいたします。その子は、その子だけは傷つけないで下さい!」

 ヘラ様は、ゼウス様の浮気相手やその子に対して、とんでもない仕打ちをするお方です。まあ、正直言って、ゼウス様もゼウス様でクズいけど、ヘラ様もヘラ様で嫉妬心の塊みたいな方なんですよ?

「あら、その顔は何かしら? 可愛いからって、何でも許してもらえると思っているならば、大間違いよ?」

 ヘラ様がそう言った瞬間、私の目の前で大地にひびが入り、木の根のような物が生え出てきました。根は、私の後頭部を上から抑え、顔を強く地面に擦りつけます。

「全く、あの人も、こんな美人なんかのどこがよかったの? 顔さえ潰してしまえば、あなたなんて……」

 ヘラ様はここで言葉を切ると、身動きの取れない私の頭上へ御御足を乗せられました。有り体に言えば、頭を踏んだ状態です。

「それとも、この見事な髪で、あの人を誘惑したのかしら? うふふ、本当、この踏み心地は癖になるわね」

 さっきから私の容姿に嫉妬全開のヘラ様ですが、ヘラ様はご自分がコンプレックスに思っているほど、美しくない女性ではありません。ただ、美の女神アフロディテ様や、正義の女神アテナ様のように、チート級の可憐さをもつ神々といつも比べられるから、見てくれの印象が地味となるだけのことなのです。

 尤も、 ヘラ様の人気のない一番の原因は、女神とは思えないこの性格の悪さだと思いますけど。

「あら、あなた、その手は何? 邪魔なんだけど」

 喋れない私は、手でどうにか頭を守ろうとしましたが、それも無駄なこと。

「どんな責め苦も受けるって、この子の前で言ったわよね!」

 ヘラ様は初めて声を荒げ、私の手を、さらには足をも、根で束縛しました。私はカエルのように、土下座の格好で固定されてしまったのです。いくらヘラ様のためとはいえ、これほどの屈辱はありません。

「うふふ、嫌だわ、そんな格好で恥ずかしくないの?」

 今から思い返しても、あまりにも酷い仕打ちです。

「そんな所で寝ていたら、旅の人に、偶然、踏まれちゃうわよ。ほら──」

 無防備な背を、ヘラ様の踵が抉ります。

「台無しじゃないの、この、艶っぽい身体が! 絹のような肌が!」

 こんな調子で、私の前身を隅々まで皮肉りながら、ヘラ様は私を余すところなくいたぶりました。私は耐えるしかありません。赤ちゃんのことを思えば、痛みなど、恐れるものではなかったのです。

 ひとしきり私をぼろぼろにすると、ヘラ様は飽きたと言って、私の上から退きました。しかし、根の戒めはそのままです。

「もう、私の気は済んだわ。これで許してあげるから、あとは獣なり虫なりと、ここで仲よくしていなさいな」

 ヘラ様は、普通に私を死なせる気だったようです。こうなると、もう、一介のニンフにできることはありません。

 でも、赤ちゃんが助かるなら──その希望だけが、私の理性を保っていました。しかし、それも、この一言で打ち砕かれます。

「そうそう、赤ちゃんは心配しないで。すぐにまた会えるから」

 すぐに、また会える──。

 このとき、私の脳裏を、ヘラクレス様の一件が過りました。ゼウス様とアルクメネ様の不倫で産まれたヘラクレス様が。ヘラ様に毒蛇を送られ、殺されかけていた件です。

 ヘラ様は、出産の女神でありながら、ご自身は子宝に恵まれない境遇でした。その恨みがあどけない幼子にさえ向かうのは当然のこと。そんなお方に、私は何を期待していたのでしょう。

 私の胸の奥に、何かが湧き上がる音が響きました。

「ヘラ様? 今、何と……」

 口を地面に押しつけられていても、その言葉は何故か声になりました。でも、言葉を使えたのはそこまで。

「な……なっ?」

 縛っていた根をちぎりながら、私の四肢は猛烈に膨れ上がりました。羽織っていた衣は跡形もなく破れ、露わになった柔肌を、漆黒の毛がすぐさま覆います。

「カリスト! あなた、何をやっているの?」

 さしものヘラ様も、これには戦慄していました。それはそうでしょう。格のある神ならともかく、私のような卑しいニンフが、単独で変身できるはずはないのです。

 手に獣の爪を、唇に獣の牙を感じながらも、私は赤ちゃんを取り返すことしか考えていませんでした。自分がどういう姿をしているか、何故こういう姿になったか、そんなことはどうでもよかったんです。私は顔を上げて、ヘラ様を上から睥睨しました。ヘラ様よりも、すっかり大きな身体になっていました。

「ひっ……」

 ヘラ様は腰を抜かしたのか、地を這うように逃げ出しました。でも赤ちゃんは手放しません。私は自由になった四本の足で、ヘラ様を追って走りました。追い詰められたヘラ様は、咄嗟に月を指差して叫ばれました。

「月の女神アルテミスよ! この汚らわしき雌熊を射殺せ!」

 その声に応え、夜空の一点が即座にきらりと光りました。アルテミス様の矢は百発百中。今度こそかと、私も覚悟を決めた、そのときでした。

 バリーン!

 轟音が響くとともに、眩い紫電が視界を引き裂きます。僅かに遅れて凄まじい衝撃波が起き、エリュマントスの大地が大きく揺らぎました。

 このド派手な登場は──そう、ゼウス様です。

 土煙が晴れて、私がその姿をどうにか視認したとき、ゼウス様はアルテミス様の強弓を、私の目の前で確と受け止めておいででした。

「ヘラ……、カリスト……。もう、やめてくれ……」

 これで、生身に矢を受けて私を庇っていた、とかならばカッコいいんでしょうが、実際には、アイギスの盾というチート防具で矢を止めただけでした。もう、本当、神々の皆様方のやることはいっつも規格外です。

「お、俺が悪かったんだ。カリストを見逃してやってくれ。頼む」

 しかし、どんなに凄い兵器を持っていても、結局夫婦は夫婦です。ゼウスは興奮冷めやらぬヘラ様に、膝をついて謝ります。

「まあ、ユーピンがそこまで言うなら……」

 そうは言いながら、ヘラ様の表情はまだ……って、ユーピン? 誰ですか、その地下アイドルみたいな名のお方は!

「そ、その名で呼ぶなって……」

 はあ? ユーピンって、ひょっとして、ゼウス様のこと? ひょっとしてひょっとして、ゼウス様のローマ名ユピテルから取っていたりするの?

 混乱する私を尻目に、二人は急に抱き合い始め、お互いの肌をべたべた触りまくり、挙句の果てに接吻まで──私は、どうしていればよいんでしょう。

「と、いうわけだ。カリスト」

 いや、何が「と、いうわけ」なんですか。

 そう言おうとしましたが、口から出たのはワホワホという咆哮ばかりでした。ああ、私、熊になっていたんでしたっけ。

「お前には辛い思いをさせたね。本当に、俺が馬鹿だった。許してくれ、カリスト──そして、君にも」

 ゼウス様はそう言うと、徐に振り返り、ヘラ様の手から赤ちゃんを取り上げられました。このときのゼウス様は、正しく、温和な父の顔をなさっておいででした。

「なあ、母さん」

 母さん、と呼ばれて、私は少しだけ戸惑いました。でも、すぐに、ゼウス様の言わんとすることを悟りました。

「アルカス、でどうだい?」

 ──ええ。素敵な名前です。

 そう言葉にはしなくとも、ゼウス様には伝わるものです。ゼウス様は笑顔でヘラ様に向き直ると、こう仰いました。

「ご覧よ、ヘラ。大人たちが殺し合おうとする間にも、アルカスは少しもぐずったり泣いたりせず、こんなに穏やかに寝てるんだ。この子に罪があると思うかい?」

 愛しのユーピンにそう言われると、ヘラ様も冷静になったようです。

「ごめんなさい、カリスト。今更謝っても許してはくれないでしょうけど、せめてもの償いに、あなたを元のニンフの姿に戻すわ。麓に、獣の来ない安全な村があるの。そこで、アルカスと幸せになってちょうだい」

 落ち着きを取り戻した途端に、急に素直になるヘラ様。私も、どう接すればよいのかわからなかったようです。

「あっ、待って!」

 私はいつの間にか走り出していました。色々なことが頭を駆け巡りました。ヘラ様への恨み、アルテミス様へのわだかまり、ゼウス様への複雑な思い……そして、アルカスへの愛。

 私をどん底まで叩き落とした神々に対して、どう思っているのかは、自分でもわかりません。そう簡単に許せる仕打ちではありませんでしたが、かといって、心の底から憎らしいということでもありませんでした。私は、結論から逃げました。森の奥へ、山の頂へ、ひたすら駆けました。

 途中で、ふとアルカスのことが気になって、引き返そうとしました。私を追ってくる足音に気がついたのはこのときです。私は足を止めて、後ろを顧みました。すると、そこにいらっしゃったのは、ゼウス様でも、ヘラ様でもありませんでした。

「初めまして、カリストさん。僕のこと、わかりますか?」

 丸い旅行帽を被り、パリッとしたコートにカジュアルなズボン、そして金のサンダルを履いた美青年。色々と突っ込みどころ満載の方でしたが、一番アンバランスなのは、若々しい佇まいなのに何故か杖をついているところです。

「そう、正解です。ゼウスの息子で神々の伝令、ヘルメスって言います」

 いや、そんなこと思ってないんですけど。ひょっとして、父君の読心術を気取っているのでしょうか。

 それで思い出しました。ヘルメス様は、ゼウス様の遣いであることを認証するために、ケーリュケイオンと呼ばれる杖をお持ちであると。そのお方の杖をよく見ると、確かに、伝え聞く通り、二匹の蛇が柄に絡んでおりました。

 このお方がヘルメス様であらせられるのは、間違いないのでしょう。でも、熊の身である私は、人の言葉でご挨拶を申し上げることができません。前脚を畳んで地に伏し、最大限の礼を尽くしました。

「いや、いいんですよ。僕は大して偉い神じゃないんです」

 ヘルメス様は爽やかに笑っておいででした。

「こちらこそ、父さんが迷惑をかけてしまい、申し訳ないくらいです」

 何と言えばいいのでしょう。ヘルメス様は、神様というよりも、寧ろ旅の商人のような雰囲気のある方でした。不思議と、警戒心を柔らかく揉み解されるような心地がしました。

「カリストさんが、そのお姿で、森で暮らすご決心ならば、僕はそれを止めません。でも、アルカス君とはしばらく会えないでしょう。それで宜しいですか?」

 私は、どう応じればよいかわかりませんでした。

「僕としましては、アルカスは可愛い弟のようなものです。もし、僕を信頼して頂ければ、アルカスには、福祉や教育の充実した生活を保障しますよ。私が父親代わりとして、あなた方の揉め事をアルカスが知らずに済むようにします」

 胡散臭い字面も、ヘルメス様が言うとそれっぽく聞こえます。

「これは、父さんとヘラ伯母さんのお望みでもあるんです。アルカスには、親を知らずに育ってもらう代わりに、オリュンポスの神々の加護を最大限与えてあげたい。それで、せめてカリストさんに安心してもらいたいんです」

 いくらゼウス様が超絶浮気男だからといって、ヘラ様が残虐嫉妬女だからといって、神々のお気持ちを疑うことは、ニンフごときの分ではありません。

 私はぺこりと頭を下げ、ヘルメス様に肯定の意を伝えると、踵を返して、また森の中へ進んでいきました。

「そうそう、最後に一つ」

 歩いていく私の背に、一話の鳥が止まりました。

「僕の魂の一部を担う、聖鳥のトキです。カリストさんの熊の耳なら、トキの言葉がわかるでしょう。そいつが、僕との連絡手段だと思ってください」

 今や、世界中で携帯電話が普及し、いつでもどこでも誰とでも連絡が取れる時代ですけど、当時は、遠隔の連絡手段といえば大抵が鳥でした。不便だと思うかもしれませんが、鳥が自分の所へ遥々飛んでくるって、なかなか楽しい気分でしたよ。

 そうして、長い夜がようやく終わりました。私はヘルメス様と別れ、エリュマントス山の熊として生きていくことになりました。

 私が熊になった、という噂には、色々な尾鰭がつきました。ニンフが単独で変身できるはずがない、ゼウス様か、ヘラ様かが変えたんだ、人々はそう思っていたようです。しかも、私がアルテミス様に殺されたなどと、根拠のない情報が加わり、私の行方は誰にもわからなくなりました。今になって考えると、ゼウス様と契りを結んだときに、霊力の一部が私の身体に取り込まれていたのかもしれません。あれから、何回も元の身体に戻ろうとしましたが、変身したときのような力はすっかり無くなっていました。

 森で暮らす最初の数年は、ひたすら後悔の毎日でした。自らも猛獣の体躯があるとはいえ、怪物級の獣と日常的に遭遇する日々に、私はすっかり疲れてしまい、アルカスのことを恋しく思いました。自分の毛むくじゃらの手を見て、水に映った醜い顔を見て、人の頭ほどもある大きな足跡を見て、涙が流れました。

 そんな折、私を救ったのは、トキから伝え聞くアルカスの話でした。歩けるようになった、話せるようになった、おむつを卒業した、そんな話を聴いていると、私は孤独の中にも希望を見出しました。

 雄弁の神ヘルメス様のペットなだけあって、トキは様々なことを面白おかしく教えてくれました。自分で作った彫刻と結婚した人の話、変身術に失敗して半分だけ魚になった神様の話、水鏡の己の姿に惚れて水仙になった人の話。また、いつか話してあげますね? でも、私が一線を越えたときにはあれだけ怒っていたアルテミス様が、オリオン様やエンデュミオン様と関係を持った話だけは、ちょっと笑えませんでした。

 十年の月日が流れ、アルカスは学問を始めました。才知溢れるヘルメス様が直々に育ててくださるとあって、アルカスはめきめき成長していきました。こうしてトキから聞かされるだけでは飽き足らなくなり、すぐにでも抱きしめてあげたい、頭を撫でてあげたいと、身体が疼きました。しかし、自分が熊であることを思い出す度に、会いに行けない苦しさを、改めて確認することになるのでした。

 十五年の月日が流れ、アルカスは学んだ知識を人々に伝導するようになりました。貧しかった村々に、パンができ、紡績技術が普及し、人々の笑顔が満ちていきました。エリュマントス山の上から見る景色は、アルカスのおかげでだいぶ変わりました。この村々のどこかにアルカスもいるのでしょうが、ここからではわかりません。アルカスは一つの村にとどまらず、色々な地域の人々を助けているのだと、トキは言いました。

 二十年の月日が流れ、アルカスはこの一帯の指導者になりました。地域の村々は統合され、アルカディアと呼ばれるようになりました。アルカディアは大いに繁栄し、その北の外れのエリュマントス山までも、活気が伝わってきました。この頃には、もう、トキに聞かなくても、アルカスのよい噂が耳に入ってきました。自分の息子がここまで立派になるとは、微塵も思っていませんでしたが、考えてみれば、ゼウス様を父に、ヘルメス様を先生にもつ子が、偉くないわけはありませんよね。

 一方、私は徐々に、身体の衰えを感じていました。ニンフであれば、不死身ではないものの人よりはずっと長生きしますけど、熊の寿命は二、三十年です。遠からぬ死を感じ、私はたった一つ、欲望を芽生えさせました。

 ──もう一度だけ、アルカスに会いたい。

 一目、大人になった姿を見てみたい。話ができなくてもいい、私を母だと認めてくれなくてもいい。ただ、凛々しい息子の晴れ姿を、この目に一瞬捉えるだけでいい。それさえできれば、私はいつだって死ねるとまで思いました。

 母親としての最後の情熱が、老いた身体を山頂へと駆り立てました。エリュマントス山の頂は二千メートルを超えると聞きます。若い頃に数回登ったきりでしたが、流石に今回の登り道は堪えました。でも、不思議なことに、諦めるという気はこれっぽっちも起きません。薄い空気が体力を、生命を削ります。ここで眠れたらどんなに楽でしょう。何度もそう思いました。その度ごとに、愛しい我が子の姿を想像して、あと少し、あと一歩、苦しみながら登りました。

 朝に出発して、辿り着いたときにはもう真夜中。

 あの夜と同じ満月が、私の姿を照らします。

 私は、南の空へ、精一杯吠えました。

 このときほど、熊の姿を呪ったことはありません。言葉が通じれば、どんなによかったことか……。

 ひとしきり吠え、疲れ切った私の前に、やっと、月の女神アルテミス様が降臨なさいました。

「何事だ雌熊よ。夜更けに騒々しいであろう」

 私は、爪を伸ばして地面を引っ掻きました。文字でお伝えするためです。

 しかし、アルテミス様は、手にした弓で私の動きを制止なさいました。

「貴様、あのときのニンフだな? 名は……カリストと申したか」

 そのお言葉に、私は首を縦に振って、肯定を示しました。

「そうか。もうよい。言いたいことは察した。倅に会うために、下山を認可せよと申すつもりであろう?」

 私はこれにも頷きます。

「そうかそうか、うむ。安心せよ」

 アルテミス様の笑顔は久しぶりです。寛大な処置を期待した私に、アルテミス様は優しく笑いかけました。そして、こう言って、私の背中を弓で撫でました。

「エリュマントスを抜けたら、心臓に穴が開く刻印を施しておく。これで、諦めもつくであろうぞ」

 私は唖然としました。二十年も前の不貞を、未だお許しになられていないことにまず驚き、それに少し遅れて、アルカスに会う道が閉ざされたことを悟り、心の底から、絶望が火山のように噴き出しました。

「さらばだ、カリスト。もう二度と、会うこともあるまい」

 引き止めようとしましたが、アルテミス様は月光に吸われるように、一瞬で天へ上がってしまわれました。

 私は、しばらくの間、ぼんやりと月を眺めていましたが、それが雲で隠れてしまうと、死んだような闇の中へ、静かに歩き始めました。

 泣くこともなければ、アルテミス様へ恨み言の一つもない、寂しい山路でした。私は動物的な本能で、自然とあの場所へ向かっていました。ヘラ様が私を陥れ、アルカスと永遠に別たれた、思い出の原です。鉛のような心を引きずって、ひたすら山を下りました。私の求めていたのは、ただ、死に場所だけでした。

 じんわりと冷え込む、夜明け前の高原。私は、いよいよ、命を終える準備をしました。──とは言っても、落ち着く場所を探して、そこに黙って横になるだけのことです。折しも、日がちょうど昇るときでした。今日が終わる頃には、もう消えていたい、そう思いました。生き疲れて、私はついにまどろみ始めました。でも、私の運命は、ことごとく、私の思う通りにはならないようです。

「おーい、ヘル兄!」

 突然、風の彼方から、男の声がしました。

「くそっ、参ったな……」

 ん? 男の人──。

「おーい、ヘル兄、どこ行ったんだよーっ」

 聞いたこともない声でしたが、私は直感的に、その声に強く心惹かれました。声の主を探して、上体を起こすと、茂みの向こうに、背の高い男の姿が見えました。誰ともつかない彼の元へ、私は自然と歩き出していました。

「誰かー、誰かいないのかー?」

 その双眸が一瞬、こちらを向きました。高い鼻にヘーゼルの瞳、鋭く印象的な顔立ちが、私の記憶を打ちます。そう、エリュマントス山への旅路で、産みの苦しみを身体に刻んだ、あの満月の夜のことを──。

 いつしか、私は駆け出していました。この歳になって、まさかまた走ることがあるとは夢にも思っていなかったものですが、いざそのときが来ると、さっきまで死にかかっていたことも忘れていました。あれだけ苦しんで産んだ息子です。二十年程度の時で、顔を忘れてしまうわけがありません。

 ──アルカス、アルカス! やっと会えたね、お前の母はここにいるよ!

 喉が張り裂けるほどに、肺がちぎれるほどに、私は吠えました。美しい、懐かしいその面影に向かって吠えました。一瞥できれば十分だなどと思っていたことも、我が子を目の前にして何になるというのでしょう。

「なっ? け、獣物め!」

 その青年は、咄嗟に向き直ると、弓に矢をついで引きしぼります。矢尻の先は私の胸を捉え、愚かな母が我に返ったときには、もうその矢は放たれていました。

 当然ですよね。ヘルメス様は、アルカスに私のことを知らせないようにするとおっしゃっていました。いきなり抱きつこうとしても、熊が襲ってきたと思うだけでしょう。

 ──あーあ、馬鹿だなあ。でも、これもこれで、幸せな臨終かも。だって、息子に死に目を見届けてもらえるなんて、願ってもなかったこと……。

 バリーン!

 閃光と轟音が、にわかにモノローグを遮ります。

 強烈な雷撃が、音を立てて地を抉り、土煙の奥からは、やがて、プラズマを纏った人影が現れました。

「ゼウス様?」

 聡明なアルカスは、すぐにそのお方が、雷神ゼウス様だと察しました。そう、あのときと同じように、稲妻とともに現れたのです。

 でも、何か様子がおかしいです。よく見ると、今度のゼウス様の格好は、バスタオル一枚ではないですか!

 ということは、当然、アイギスの盾など持っているはずもなく──。

「ぜ、ゼウス様! 血が……」

 アルカスが駆け寄ります。よろめくゼウス様の腹には矢が深く刺さり、血もはっきりと滲んでいました。

「だ……大丈夫だよ、アルカス……これでも、俺は……ふ、不死身……だから」

 それから、ゼウス様は私のほうへ向き直りました。

「はは、アルテミスもひどい娘だ……い、いきなり、寝室にやって来て……無言で、な、投げ落とし……やがって……カハッ」

 ──そうですか、寝室ですか。昨日は誰と寝ていたのでしょう。

「昨日はヘラと寝てたの!」

 そうそう、ゼウス様、心読めるんでしたっけ。

「なあ、アルカス……信じられるか」

「な、何をですか、ゼウス様」

「俺が、お前の真の父さんで……母さんが、あの熊だ、って……」

 苦しげにうち震えながら、ゼウス様は告白なさりました。

「さ、錯乱していらっしゃる」

 アルカスは信じられないようです。無理もありません。

 そのとき、私の背後から、一人の青年が飛び出してきました。

「アルカス! 探しましたよ、落雷が……」

 金のサンダルに丸帽子、認証の杖ケーリュケイオン。ヘルメス様です。アルカスが呼んでいた「ヘル兄」とは、ヘルメス様のことだったんですね。

「って、父さん? カリストさんも!」

 ヘルメス様は、すぐさまゼウス様の傷を手当てなさいました。結果的に、ゼウス様は特に容態が危機的状況になることなどなく、お休みになられました。

 ゼウス様と私が──私の心が会話するのを見て、アルカスも腑に落ちたようです。自然と、私のことを「母さん」と呼ぶようになりました。

 そして、しばらく、慌ただしい時間が過ぎ、ゼウス様とのお別れのときがやって来ました。ヘラ様が寂しがって、西の空に虹を架けられたからです。

「あれが、ヘラ叔母さんのお使いのアイリスだよ。僕が風に乗って父さんの司令を伝えるように、アイリスは虹の橋を渡って移動するんだ」

 ヘルメス様がつかさず解説します。アルカスにとっては、最高の兄であり、師であったことでしょう。

「今帰ったら、ヘラは怒っているだろうなあ」

「まあ、アルテミスの姉さんが、上手いこと言いくるめているかもしれないよ」

「あの不器用な娘に、そんなことができるか」

 全くです。こうすれば私とアルカスが再会できることがわかっていて、山頂で私に冷たく当たったんです。刻印を施したなんて嘘まで吐いて、ですよ。しかも私が殺されそうになったら、何も言わずに実父を投げるなんて……今どき、定期テスト前の中学生のほうが計画性ありますよ。

「きっとアルテミスと二人で、お仕置きを食らうんだろう。あーあ、気が重いぜ」

 そう言うと、ゼウス様はワシに変身なさいました。流石に、服も着ないで天へ上がるのは気が乗らなかったようです。

「ゼウス様、いや、父さん」

 しばらく黙っていたアルカスが、急に言いました。

「お願いです。僕を、熊の姿にしてください」

 これには、その場にいた全員が驚きました。アルカスはアルカディアの王です。民に求められている存在です。その人が、自ら熊になりたいだなんて。

「カリストさんと、お話がしたいのかい?」

 人の言葉が話せないゼウス様に変わり、ヘルメス様が答えました。

「はい。母さんは、誰よりも私を愛してくれた人です。今、母さんが熊としてエリュマントスで生きているなら、僕もそれについて行きたいんです」

 私は、込み上げてくるものを感じました。息子にこの愛が届く日が来るとは、夢にも思っていませんでしたから。

 でも──。

「悲しいことだけど、カリストさんはもうすぐ亡くなるんだ。本当はもう寿命は来ていたのに、アルカスへの愛だけでもっていたんだ」

 それは、私も自覚していました。

「再会が叶った今、カリストさんに残された時間はほとんどないんだよ?」

「ならば、いっそのこと、今すぐに話させてください」

 どうしたものか、と、ヘルメス様はゼウス様に目配せしました。ゼウス様は何も言わずに、アルカスを子熊に変えられました。

「カリスト、そしてアルカス」

 ワシの言葉で、ゼウス様は仰せになりました。

「お前たちに迷惑をかけたのは、全て、俺の一晩の過ちが元凶だ。とは言っても、アルカスには、ピンとこないかもしれないが……でも、わかってほしい。俺は神としてではなく、お前たちを愛する多くの者の一人として、お前たちの幸せに責任をもちたいと思う」

 ──ずぼらなゼウス様のわりには、小難しいことを言うものですね。

「余計なお世話だ」

 ──おっと、失礼。

「それでだな、お前たちが二度と神々の都合で引き裂かれ、悲しい思いをすることのないよう、父さんから一つ提案がある」

「何ですか、父さん」

「お前たち、星になる気はないか?」

「──いきなりですね」

「でも、永遠に一緒にいられるぞ」

「どうする、アルカス? あなたはアルカディアにも、友達や家族がいるんじゃない?」

「んー、あるかでぃあ? わかんない」

「よ、幼児退行してる!」

「あ、しまった。精神年齢を合わせ忘れてたよ」

「と、父さん……」

「でも、ぼく、おかあさんといっしょならどこでもいい!」

「ほんと? ほんとに、それでいいの?」

「おじさんだれ?」

「だからお前の父さんだって!」

「なんで? なんでぼくのおとうさんはワシなの?」

「だから、それは、えっと……」

「おかあさん、このワシのおじさんこわい」

「ですって。どうします? 最高神ゼウス様」

「もういい。星にする」

「やっぱりずぼらじゃないですか」

 やっぱり、神様は神様ですね。

 こうして、結局、私たち母子は北の空に上がりました。人々は、私をおおぐま座、アルカスをこぐま座と呼び、私の話を何千年も語り草にしました。

 何にせよ、私はもう永遠に会えないと思っていた息子と、永遠に一緒にいられることになったのです。きっと、世界一幸せな熊でしょうね。地上の熊たちも、そう思いながら、夜空を見上げているんじゃないかしら。ねえ、そう思わない?

 ……あら、もう寝てしまっていたのね。あなたの尻尾は北極星。海に沈むことなく、ずっと世界を照らしていたんだものね。雲をかけてくれてありがとう、お父さん。

 お休みなさい、アルカス。もう、二度と離れないからね。

 


 お読みいただきありがとうございます。特に結末を設定せずに書いたので、だいぶ神々のギャップがすごいことになってしまいました。ヘラには悪い役をやらせてしまったと後悔しています。

 なお、この伝説を元々ご存知の方にも楽しんで頂けるように、話をだいぶ盛りました。そのせいで陳腐になったと感じられたら申し訳ありませんが、暇つぶし程度にご笑覧くださったなら幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ