酒場にて
大衆酒場『盲目の吟遊詩人亭』。テウクロイ東門近くに門戸を構えるこの店は、一世紀も昔から暖簾を掲げる老舗だ。
そんな酒場の店内は、今日も活況を極めている。……ただ、いつもの常連客に紛れて、一番隅のテーブルには奇妙なペアが座っていた。――フードで顔を隠した筋骨隆々の老兵と、大量の皿を侍らせた少女である。
「あー、もうっ、なんなんですかぁっ! あのパリスって奴!」
鋭い八重歯をスペアリブに突き立てながら、チコはぷんぷんと怒声を上げた。
「わふぁひ、こんなに腹が立ったのは生まれて初めてでひゅよお!」
すねる程度なら日常茶飯事のこの少女だが、今回ばかりは珍しく憤慨している様子。
ただし、対面した老兵の方はほとんど聞き流しているようだ。
「腹が立ちすぎてお腹空いちゃいましたよ!」
「……チコ、きちんと飲み込んでからしゃべりなさい」
「あれ、ぜぇーったい私たちに喧嘩売ってましたよぉ!」
「……チコ、良く噛んで食べなさい」
「すかしたマントなんて羽織っちゃって! 団長の一番のファンだとか適当なこと言っちゃって! 団長が投げたトロールの飛距離は百五十メートル! 割ったのはアイアンタートルの甲羅じゃなくてプラチナタートル! ドラゴン相手に使ったのは肉切り包丁じゃなくて芋の皮向き用の小刀ですぅ! 一番のファンは私なんだから!」
「……チコ、食べ過ぎだ」
「んもうっ! 団長は何とも思わなかったんですかっ!?」
少女の怒りはヘクトルにまで飛び火する……が、老兵は至ってマイペースだ。
「そうだな、私もあのように舌が回ったなら、もう少し団長らしくできたのだが……」
「そうじゃなくって! あんなあっからさまな嫌味言われて平気なのかって聞いてるんですぅ!」
「嫌味……そうだったのか? ふむ、それは気づかなんだ」
「んもーう!!!」
鈍感な上司にじたばた悶えるチコ。いつも通りの噛み合わない会話。
だがそんな折、二人のテーブルに近づく人影があった。
「……ここ、よろしいでしょうか」
唐突に声をかけて来たのは、フードを目深に被った女。
影になっているせいで表情は読めないが、僅かに覗いた朱紅の唇は妖艶な微笑を湛えていた。
「えー、あっちの席空いてるじゃないですかぁ……ここは私と団長の――」
「ええ、構いません。……チコ、皿をのけなさい」
「……ぶー……」
「ふふ、ありがとうございます」
席に着いた女は、くつろいだ様子でオーダーする。
そのあまりの自然体にチコが眼をぱちくりさせていると、意外にもヘクトルが口を開いた。
「……久しいな」
「……はい。団長もお変わりなく」
「へっ? 団長のお知り合い……?」
首をかしげるチコ。その疑問に答えるかのように、女の手がはらりとフードを払いのける。
艶めく銀紗の髪がふわりと舞ったその瞬間、チコは思わず叫んだ。
「あっ――て、テレジア様!??」
「しー。チコちゃん、静かにね」
「しゅ、しゅみませんっ」
テレジアと呼ばれた美しい艶女は、微笑を浮かべながら人差し指を唇にあてた。
「あ、あの、お、お久しぶりでありますっ! テレジア=クァントロニカ副団長!」
チコが小さく敬礼すると、テレジアは悪戯っぽく笑う。
「あら、さっきも王城で会ったのだけど……気づかなかった?」
「へ? 王城に……あっ!」
そう言われてチコはようやく気が付いた。――女王セレナについていた衛兵長だ。髪型も装束も変わっていたために一瞥ではわからなかったのである。……もっとも、すべて同じ格好だったとしても、ガチガチに緊張していた少女にはわからなかっただろうが。
「ディディさんはお元気?」
「おじいちゃ……じゃなかった、ディディ=フワンパフは相変わらずだそうです!」
「そう、良かった。あのひょうきんな角笛の音が懐かしいわ」
「えへへぇ、私もおじいちゃんから角笛習ってるんですよぉ! ほら!」
誇らしげに頬を染めながら、チコは腰のポーチから小さな角笛を取り出してみせる。
「おじいちゃんとお揃いなんです!」
「うむ、これでチコもなかなかの腕前だ。私が保証する」
「あら、そうなの。今度私も聞かせて欲しいわ」
「えへへぇ……それほどでもないですよぉ……うふふふ」
「ああ、祖父譲りと言えば、馬の扱いにも長けている。私のカサントスの世話ができるのは、兵団でもチコだけだ。……ディディ殿の血だな」
「団長そっくりの暴れ馬ですものね。チコちゃん、すごいのねえ」
「あぁん! もっと! もっと褒めて! チコは褒められて伸びるタイプですぅ!」
「……調子に乗りやすい性分も遺伝してしまったのが残念だが」
「ふふ、よろしいじゃないですか。団長の従者としてはぴったりですわ」
と、テレジアはくすくす笑う。
「ところでテレジア、他のみなはどうしている? ラーグリーズやアレイオス、ガルシアの様子などは聞いているか? なにぶん、こちらは僻地でな。連絡が絶えて久しいのだ」
「ええ、職務上、報告書に目を通す機会はあります。息災なようですが……みな遠方の辺境警備任務ゆえ、直接御顔を拝見できないのは寂しい限りです」
「絶対嫌味大臣の嫌がらせですよ!」と憤慨するチコ。嫌味大臣とは、言うまでもなくパリスのことである。
「そうだな。だがそれも職務であれば仕方のないことだ」
割り切ったように頷くだけのヘクトル。……だが、テレジアは沈鬱に俯いていた。
「……申し訳ありません、団長。配属の件については女王陛下も手を尽くしたのですが……」
「よい。お前が残っているだけで十分だ。お前が陛下の側についているのならば、私も安心して王都を離れられる」
「私などいなくとも、あのお方は強いですよ。……それに、私にできることなど、そう多くはありません……」
ヘクトルは元部下の暗い声音を読み取った。
「……女王陛下から聞いた。国際情勢が芳しくないそうだな」
「……はい。魔王領開拓地問題です」
「国家間による開拓競争か……」
「どの国にとっても、魔王領の開拓は今後の発展に不可欠。それ故に、国家間での軋轢が生じています。以前は国際問題の解決にあたって、我々連合兵団がある種の窓口になっていましたが、それが無くなった影響もあるかと。そして何より――」
テレジアはためらうように一拍の間をおいた。
「――魔王という人類共通の敵が存在しなくなったことが、大きく作用しているのでしょう」
ヘクトルの表情が一瞬にして曇った。
魔王さえ倒せば世界は平和になる。――そう信じて戦って来たというのに、今の惨状はそんなかつての信念さえ否定するものだったのだ。