終幕の先へ
とある施設の一室。
奥に備えられた執務机の上には、うず高く積まれた書類の大山脈。
その山陰に、小さく背中を丸めたヘクトルの姿があった。眉根に皺を寄せながら、一枚一枚書類の束に目を通している。……が、量が量だけに焼石に水といった様子。ヘクトルは深い溜め息をついたかと思うと、ちらりと背後を見る。視線の先には、壁に立てかけられた一振りの剣。
「――ウム」
何事かの決意を以て剣を手にしたヘクトルは、唐突に立ち上がった。その瞳には、並々ならぬ闘気が満ち溢れている。
と、そこへ――
「団長~!」
ドアを開けて、栗色の髪の少女が入って来た。
「む、チコか……」
「暇なので遊びに……って、なんか、見る度に増えてませんかあ? それ?」
チコは机上に積まれた書類の山を指差す。
「……お前もそう思うか? ……私もそう思う」
途方に暮れたように呟くヘクトル。
魔王でさえ打ち倒す老兵の怪腕も、書類仕事には通用しないのだ。ペンは剣よりも強し、という諺など、今のヘクトルにとっては皮肉でしかない。
「でもまあ、仕方ないですよね~。だって――」
チコは机の片隅に置かれたプレートに視線を遣る。そこに刻まれていたヘクトルの肩書は――
「『国連団総事務長』――なんてよくわからないのになっちゃってるんですから~」
あの魔王召喚事件から約三ヶ月。
世界には各国家間の調整役を担う諸国統括組織――『統一国家連合団』が設立されていた。複雑な名前だが、要は国同士のいざこざを解決するための仲裁係である。
その性質上、『統一国家連合団』――通称『国連団』は各国の上位に位置づけられる組織。普通なら三ヶ月程度で作れるはずがない。それが実現したのは奇跡でもなんでもなく、前もって周到な下準備がなされていたからだ。主導した人物の名は、セレナ=トゥルヴィア――世界最大国家・トゥルヴィア王国の現国王その人である。
彼女もまたヘクトル同様、魔王との大戦時代に独自の人脈を築いてきた人間。ヘクトルの死闘さえもパリスの眼を逸らす囮にして、各国の主要人物にコンタクトをとっていたのだ。
ヘクトルは今、その暫定総事務長をつとめているのである。国連団の性質が旧連合兵団の政治的側面を後継しているということもあって、建前上は推薦されての着任。だが、実態としては押し付けられたと言うべきだろう。
なにせ、超国家的な統括組織など存在そのものが前例のない代物。しかも実務内容が『国家間の問題に緩衝材として割って入る』という明らかに面倒な役回りなのだから、誰も責任者をやりたがらないのは当然のこと。
そして事実、他の総事務長候補者たちが危惧していた通り、ヘクトルの元には日夜厄介な問題が舞い込んで来ている。
開拓地の権利問題を筆頭に、魔王大戦期の負債分配や越境交通網の整備などなど、頭が痛くなる難題が多数。すべてが手探りで、忙殺される毎日だ。
けれど、ヘクトルは後悔してはいない。少しずつでも種々の問題が解決に向かう実感。それは、ヘクトルにとって何より嬉しいことなのだ。……もっとも、疲れることに変わりはないのだが。
「ところで、団長。何しようとしてたんですか~?」
と、チコはヘクトルが手にした長剣へ視線を向ける。
するとヘクトルは、ひどくバツが悪そうに口ごもった。
「いや……なんだ、その……気晴らしに、素振りでも、と……」
「あー! もしかして、サボる気だったんですかぁ?!」
「ムウ……少しだけ、少しだけだ。ほんの一万回ほど……一分で済む……」
「だめですよー、事務長秘書の私が許しませんっ! 第一、そんなとこ見つかったらまたテレジアさんに怒られちゃいますよ~!」
これぞ立場逆転。いつものお小言の仕返しとばかりに、チコは喜び勇んで責め立てる。
そこへ更に、別の声が飛び込んできた。
「――ええ、その通りです。私、怒りますよ」
不意に響いた第三者の声。
ヘクトルはぎくりと背筋を震わせた。
「て、テレジア……」
「……情けない顔をしないでください、団長」
呆れ顔を浮かべたテレジアは、気を取り直して用件を伝える。
「ニュースが三つあります。一つはどうでもいい報告。一つは良い報告。もう一つは……ご自分で判断してください」
意味深なもの言いをしてから、テレジアは一つ一つ報告を始めた。
「一つ目、これは私個人としては至極どうでもいいことですが……エリオスの釈放が五日後に決定いたしました」
「そうか、それは何よりだ。奴も酒が恋しかったことだろう」
「一応協力者ということでしたのでね。襲われていた商会組合は不服なようですが……まあ、彼らも大きなことは言えない立場ですし。私としては商会に賛成したいところなんですがね」
テレジアはいつもの調子で毒を吐く。
「それから、こちらは良い報告です。――エピウの監視レベルが第三級まで引き下げられました。これで月に数度の外出許可が下ります。また、特例として獄中での魔術開発が認められたそうです」
「そうか……嘆願書は聞き入れて貰えたか」
「ミュケネス側からの司法取引を受け入れた形ですね。エピウが開発し、ミュケネスが独占していた医療・衛生関連の新魔術は、どこの国も喉から手が出るほど欲していましたから。既存の新術及び今後開発されるすべての魔術の公開を条件に、監視レベルが見直されたようです。罪人とはいえ、彼女ほどの才能を腐らせるのは全人類にとっての損失ですし……何より、この件に関しては皆、後ろめたい部分がありますので」
魔王の遺骸管理をミュケネス一国に押し付けていたこと。トゥルヴィアの横暴を黙認したこと。再三要求された仲裁の嘆願を無視したこと。魔王召喚の責任を厳密に追及すれば、最終的にはすべての国が責を負うことになる。それがわかっているからこそ、誰も藪をつついて蛇を出そうとは思わない。そのあたりの込み入った事情まで斟酌した結果、事実上パリス一人に全責任を押し付ける形でまとまったのだ。エピウへの寛大すぎる恩赦は、その体裁を整えるための副産物である。
ただし、エピウの犯した罪は大きい。それだけは変わらぬ事実。魔王召喚及び隷属魔術の行使は、簡単に許されて良い咎ではない。彼女にはこれから先、長い長い獄中生活が待ち受けている。
ただそれは、本人が望んだことでもあった。少女には罰が必要なのだ。そうでなければ、彼女はきっと、自ら命を絶っていただろう。
これは何人も立ち入れぬエピウ個人の心の領域。故に、ヘクトルにできることは何もない。
もしも唯一してやれることがあるとすれば、いつの日か彼女が戻って来るその日のために、少しでも世界を良くしていくことだけなのだ。
それからテレジアは、最後に残った一つを告げる。ただその口ぶりは、今までとはまるで違っていた。
「もう一つは……もしかしたら、聞かない方が良いかも知れません。いかがしますか?」
ヘクトルの顔つきが変わった。
テレジアという女は、普段ならこんな前置きをおくようなことはしない。それだけ重要なのだろう。だとしたら、なおさら聞かないわけにはいかなかった。
「よい、聞かせてくれ」
「……わかりました」
と頷いて、テレジアはつらつらと話し始めた。
「話の情報源は二つあります。一人目は匿名。年齢は二十八ですから、丁度『九七団長事件』の年生まれ、ミュケネスのルネスエルク学園魔術学園の既卒者です。この情報提供者の同級生にはトロイオン姓を持つ少年がいました。コウニア=トロイオンの血を引く彼は、当時の御多分に洩れずひどく迫害されていたそうです。九七団長事件を直接には知らない子供たちも、親世代の狂気じみたトロイオンへの忌避を見て育っている。無理もないことです。それも学園という閉鎖空間でのことですから、少年の受けたいじめはさぞ凄まじいものだったでしょう」
「エピウと同じ、か……」
よくある話、と言うにはあまりに残酷。だが事実として、同様の事例は多かった。エピウがその一例だ。トロイオン家に生まれた人間は、事件当時まだ生まれていなかった者でさえ迫害の対象となったのである。
「ただ、そんな少年にも唯一心を許せる学友がいました。トゥルヴィアからミュケネスへ留学に来ていた同級生の少女です。迫害を受けながらも少女を心の拠り所とし、トップの成績で卒業。その後少女と結婚し、彼女の生家へ婿養子として入ったそうです」
一人でも理解者がいたとすれば、話に登場する少年はまだ幸運といえる。迫害を受けたトロイオン筋の者の中には、誰にも助けて貰えないまま、自ら命を絶った者も少なくはないのだ。
ただ、その話が一体何につながる情報なのか、ヘクトルにはまだわからなかった。テレジアが彼らの名前を口にするまでは。
「少女の名はイライザ=ヴァレングルシア。ロア=ヴァレングルシア伯爵の一人娘です。そして少年の名はヴェルギア。ヴェルギア=トロイオン。後にトゥルヴィアの地にて――‘パリス’と名乗ることになる男です」
「あの男が、トロイオンの一族だったと……?!」
束の間の驚愕。そしてすべてがつながった。
『人間は敵を求めるもの。仲間だけでは安心できない。唯一信頼できるのが、安心して攻撃できる相手だけ。それが無力であれば、なお良い』
『――ヘクトル、お前は人間の残酷さを知らない』
『トロイオン、お前はまたこの私を……!』
『私の理由があなたの理由にはなりませんから。強いて述べるなら……あの頃と同じですよ。――私が私であるから、ただそれだけの話です』
あの時、前線基地で投げかけられた不可解な言葉の数々。ヘクトルは今ようやく、その意味を理解した。
トロイオンの血を引く――たったそれだけの理由で迫害された日々。どんなに理不尽を訴えても、どんなに抜け出そうともがこうとも、己に流れる血は変えられない。
少年だったパリスの眼に、人間という存在はどのように映っていたのだろうか?
「……奥方は、知っていたのか?」
「……ええ。なにしろ、もう一人の情報提供者が奥様ご自身でしたから。彼女は知っていましたよ。‘すべて’をね」
その言い方で、ヘクトルは悟る。
パリスは妻にだけはすべてを打ち明けていたのだろう。
イライザとの結婚は、新しい経歴と名前を手に入れるための手段などではなかった。パリスは本当にイライザを愛していたのだ。
それは恐らく、不正を犯してまでパリスの素性を隠したロア伯爵も同じ。今回の計略こそ知らねど、娘の見込んだ男を過去から解放するためにとった行動だったのだろう。
きっとすべては善意から。――それ故に、この結末は悲劇だった。
「奴は……パリスは、知っていたのだな。人の善意も、愛情も。それでも、選んだのはこの道だったのか……」
もしもパリスが、人の善なる部分を知らずに人間を憎んでいたのなら、哀れではあるがまだ諦めもつく。だがパリスは知っていた。愛される気持ちも、愛する気持ちも。そして過去を斬り捨て生きる選択肢を与えられてなお、パリスは復讐の道を選んだのだ。
もしかすると、彼の道化の演技は、他人ではなく自分を騙すためのものだったのかも知れない。
そう、パリスという架空の男は、結局は異界の魔王と同じ。人の悪意が産んだ歪なる鬼だったのだ。
ヘクトルは深い吐息をついた。
人の胸に巣食う闇とは、光よりも強いものなのだろうか。
いくら考えても、ヘクトルにはわからない。彼はずっと支えられて生きてきた。輝く善意の真ん中だけを歩いてきた。パリスの心境を理解するには、あまりにも無知すぎる。
それでもヘクトルは思ってしまう。
でも、理解できなくとも、せめて――
「――せめて、もっと早くに出会っていれば……」
「……どうにかできたと、お思いですか?」
テレジアは鋭く尋ねる。
出自を理由に忌み嫌われる者の苦悩。ヘクトル一人がどうこうできるほど単純なはずがない。何かしてやれたかも知れない、などと考えること自体が傲慢というものだ。
だが、それを承知でヘクトルは呟いた。
「この老体にも、話を聞くことぐらいはできたかも知れぬ……」
「……相変わらずですね、あなたは」
テレジアはふう、と溜め息をつく。
「人の悪意は確かに底なしですが……あなたの実直さもいい勝負みたいです」
褒めているのか貶しているのか、ヘクトルには良くわからなかった。
ただ一つはっきりしているのは、まだまだ問題は山積みということだけだ。
学ぶべき課題。越えるべき壁。理想の未来への道は、ひどく険しい。
だがそれでも、ヘクトルは信じたい。
きっと乗り越えて行ける、と。――そうでなければ、またパリスに笑われてしまう。
ヘクトルは窓から外を見上げた。
果てのない空が、どこまでも続いている。
――カーテンコールは、まだ遠い――
これにて完結となります。
ご拝読ありがとうございました!!!




