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カーテンコールのその後に  作者: 紺野千昭
第五幕 ――『カーテンコールのその後に』――
21/22

老兵たちのカーテンコール

 すべてが終わった後、ヘクトルは静かに歩き出す。向かう先に横たわるのはエピウ=トロイオン。召喚者である彼女は、魔王が絶命すると同時に倒れ伏したのだ。


 少女の傍らに膝をつき、ヘクトルはその安否あんぴを確認する。

 微かだが、確かに感じる呼吸。……どうやら気を失っているだけのようだ。


 ヘクトルはほっと安堵の吐息をこぼし――その場に倒れ込んだ。


「「団長!!!」」


 エリオスとテレジアが同時に駆け寄る。

 どれが致命傷かもわからぬほど大量の傷。完全に精神力だけで戦っていたらしい。


 だがそれでもなお意識がある頑強さに、二人は一周まわって呆れてしまった。


「あんたな……これで気絶でもしてくれりゃ、ちったあ可愛げがあるのによ……」

「今、傷の手当てをします」


 テレジアはすぐさま治癒魔術の準備を始める。けれど、ヘクトルはそれをさえぎった。


「……よい。それよりも……両国の兵たちの……動揺を……しずめるのが先決せんけつだ……」


 召喚されし魔王の圧倒的な威容いよう。それは両国の新兵たちに多大な衝撃を与えた。今はまだショックが大きすぎて呆然としている段階だが、それが過ぎた後、錯乱した兵士たちの取る行動には予測がつかない。ヘクトルの判断は妥当なものであり、何より一度言い出したら曲げぬ老人だ。二人はやむを得ずそれぞれの軍へ向かおうとする。


 ――まさにそこへ、場違いな拍手が響いて来た。


「お見事っ! いやー、お見事なお手前でしたよ、アーバンカイン殿!」


 パリス=ロア=ヴァレングルシア――すべての元凶たるこの男は、未だ動けぬ兵たちを置き去りにして、単身ヘクトルの元へとやってきたのだ。その顔には道化の仮面が張り付いている。


「いやあ、素晴らしい見世物でしたねえ! 戦場まで出張った甲斐があったというものです!」

「てめえ、このおよんでよく笑ってられんな」

「わかっているとは思いますが……あなたは罪人ですよ? 逃げなくてよいのですか?」


 エリオスとテレジアがヘクトルを庇うようにして両脇に立つ。

 だがパリスは、そんな二人に向けて冷ややかな一瞥いちべつをくれるだけだった。


退け、三下共さんしたども。お前らに用はない」


 それから一転、パリスは笑顔でヘクトルを見下ろす。


「おめでとう! ヘクトル=アーバンカイン! これであなたは真の英雄になった! 魔王殺しの勇者に! ……そう、かねてからの望み通り、ね」


 パリスは意味深に微笑した。まるで魔王が蘇生したこの戦いを、ヘクトルが喜んでいたと言わんばかりに。


「戦わずして役目を終えた元兵団長が、数年の時を経て蘇った魔王を討ち果たす! これぞハッピーエンド! 素晴らしい結末だ! もしもこれが舞台だったなら、観客の大歓声が沸き起こったことでしょう! そして最後には万雷ばんらいの拍手を浴びながら堂々の幕引き! 後に残るは僅かな熱気の残滓ざんしだけ、といったところでしょうか?」


 ぺらぺらと上機嫌に喋るパリス。再び道化を演じ始めたこの男の考えが、ヘクトルにはまるで読めない。だがそれはすぐに、最も悪い形で明らかになった。


「……しかし、真に残念ながら、ここは現実だ。カーテンコールなどないのですよ。あなたも良くご存じのようにね。――英雄の時間が終わった今、次に来るのは、我々醜い人間の時間ですよ」


 不敵に笑うパリスは止める間もなく踵を返した。その先に居並ぶのは、指示を待つ幾万の兵士たち。


「トゥルヴィアの勇猛なる兵士諸君よ! ミュケネスの非道ひどうを見たか!? 異界より魔王を召喚したばかりか、奴らはトロイオンの禁術までも蘇らせた! もしもこの場にヘクトル殿がおられなかったら、我々の国はあの醜悪な魔王によって蹂躙じゅうりんされていただろう! これがミュケネスの本性だ! 自国のためならば魔王すら利用し、赤子さえ殺す外道の者達! このまま野放しにしておけば、必ずや再び魔王を召喚するに違いない! 諸君、今ぞ戦う時だ! 国を、家族を、人類の未来を守るために、我々が正義の鉄槌を下さねばならぬ! さあ、剣を取れ! 魔物に魂を売った外道を打ち倒すのだ! 後の世に語られる英雄となろうぞ!」


 痩身そうしんからは想像もできない大声が、戦場中に朗々(ろうろう)ととどろく。それは混乱していた若い兵士たちを鼓舞こぶするのには、十分すぎるほど効果的だった。


「こいつ……!」


 パリスの目論見もくろみに気付き、首を斬り落とさんと間合いを詰めるエリオス。だがそれを、テレジアが阻んだ。


「止めるんじゃねえ、テレジア! こいつさえ殺せば――!」

「やめなさい、エリオス! 責任者がいなくなれば、戦争の終息に時間がかかる! 短絡的に動かないで!」

「ククク……その通りだよ、脳たりん」


 そんな二人を、パリスは見下すように眺める。自分に手が出せないことなど百も承知。だからここまでやってきたのだ。


「……それに、いずれにせよ――もう遅い」


 発奮はっぷんした兵士たちの雄叫びが、辺り一帯に轟いた。


 極度に高まった興奮や緊張から来る、一種の恐慌きょうこう状態。パリスは兵たちの異常心理さえ平然と利用したのだ。魔王への恐怖と動揺をミュケネス軍への憎しみに転嫁てんかさせられた新兵たちに、もはや言葉は届かない。教本通りの隊列を編成し、怒涛の勢いで進軍を始める。


 他方、ミュケネス側でも動きがあった。トゥルヴィア軍に呼応するように陣形を組み直す。だが、状況はあまりにも多勢に無勢。トゥルヴィアの大軍団の前では、大海に浮ぶ小舟のようなものだ。一度衝突が起これば、ひとたまりもなく飲み込まれてしまうだろう。


 ヘスペリディアの丘は今まさに、鮮血で真っ赤に染まろうとしていた。


「くそっ、馬鹿どもが……!」

「エリオス、食い止めますよ!」


「一人も殺さずに、か? お互い得意じゃねェだろ、そういうのよォ!」

「やるしかないでしょう!」


 動けないヘクトルに代わり、二人は大軍に立ち向かう。

 万の軍勢とはいえ、相手は新兵。殺すだけなら造作もない。けれど新兵ゆえに、錯乱した彼らは死ぬまでひくことはないだろう。それを殺さずに無力化しようとすれば、いかに二人とて無事では済まない。


 不吉な軍靴ぐんかの音。禍々(まがまが)しい穂先ほさきの煌めき。むせ返る殺意の匂いと、パリスの狂気じみた笑い声。戦乱を告げる凶兆が、ヘスペリディアの丘を埋め尽くす。


 まるで悪夢だ。


 ヘクトルは身を起こそうとして懸命にもがく。けれど、疲弊しきった体は言うことを聞いてくれない。


 こんな大事な時に、結局は見ていることしかできないのだろうか。歯がゆさに噛んだ唇から一筋の血が流れ、無力感が視界を覆う。


 そんな時――丘の向こうから奇妙な音楽が聞こえてきた。


 騒乱の合間に響く、独特の重低音。……それは普通の楽器ではない、軍隊用の角笛の音色。ただ、角笛本来の厳めしい音とは少し違う。軽快なリズムで奏でられる、やたらとひょうきんな調しらべ。それも単なる独奏ではない。寄り添うようにもう一つ、少しだけつたない旋律が伴奏ばんそうをつとめている。


 そんな二層の音楽が近づくにつれ、他の雑多な音も届くようになって来た。おびただしい馬蹄ばていの響きから、鎧や武具ががちゃつく騒音。更にはぺちゃくちゃという喋り声まで。しかも、その数が半端ではない。行進する無数の足踏みによって、地面がびりびりと震動している。


 両軍の兵士たちも流石にこの異変には気付いたらしい。今まさに衝突せんとしていたところで、兵たちの足が止まった。動揺とざわめきが拡散していく。


 そしてついに、丘陵きゅうりょうの向こうに音の根源が見えて来た。


 真っ先に眼に入ったのは、高々と掲げられた旗。そこに刺繍されていたのは、ヘクトルが何より良く知る紋章。――千年前から変わらない、人間を守る盾の印。連合兵団の旗印だ。


 そして風にたなびく旗の下、彼らは次々に姿を現す。


 先頭を進むのは、騎乗しながら器用に角笛を吹く老人。かなりの高齢のようだが、易々(やすやす)と馬を乗りこなし、心底楽しげに笛を吹いている。続いて現れたもう一人の奏者は、栗毛色の髪をした少女だった。自分よりもはるかに大きい黒馬にまたがり、弾むような音色を奏でている。戦場の様子など眼に入っていないらしく、すっかり角笛に熱中している様子だ。


 そんな二人の後について、珍妙な格好の大軍勢がわらわらと行進してきた。


 いずれの面々も、どこの国の装備でもない独自の武装に身を包んでいる。鎧を着ている者、着ていない者。フルプレートのものもあれば、皮キレをつなぎあわせたものもある。携えた武器もまちまちで、巨大な弓やら曲がりくねった槍やら、各々が思い思いの得物えものを手にしていた。そこに統一性などという文字は欠片も見られない。僅かに共通しているのは、随所に掲げられる盾の描かれた旗と、軍隊にしてはやたらと高齢者が多いことぐらいだ。


 そうして際限なく数を増していく謎の集団は、丘の中心……すなわちヘクトルの元へと集う。その中から真っ先に飛び出したのは、角笛を吹く少女だった。


「――あっ、いた! おーい、ヘクトル団長~!」


 ヘクトルの姿を見つけた瞬間、演奏も隊列もぶっちぎって駆けて来る少女。それは、ヘクトルにとって誰よりも身近な人物――


「――チコ……なぜここに?」

「え~? ヘクトル団長が言ったんじゃないですか~。みんなを集めろって。忘れちゃったんですかあ~?」


「い、いや……あの時は、良からぬ機運きうんが高まっていることを警告するよう頼んだだけなのだが……招集をかけろなどは一言も……」

「あれえ~? そうでしたっけ? ……もしかして私、間違えちゃいましたあ?」


 そういえば、とヘクトルは思い出す。

 あの時のチコは気絶から目覚めたばかり。ただでさえ普段から寝起きの悪いチコのこと。まともに聞いているはずがないではないか。


 と、己の失態を嘆いていたヘクトルの元に、もう一人の吹き手である老人が追い付いてきた。


「お~ぅ、ヘクター坊。久しぶりだなあ~」

「ディディ殿……」


 ヘクトルの先輩にしてチコの祖父にあたるその老人は、孫そっくりの人懐っこい笑顔を浮かべていた。


「た~まに孫娘が帰って来たと思ったらよぉ、緊急事態だって言うじゃねえかい。おまけにカサントスに乗ってるしよ、こ~りゃ何かあったってんで、すっとんできちまったよ。俺だけじゃねえぞぉ、み~んながな」


 丁度その時、集まった兵士たちの中から数人が進み出て来た。

 いずれも巨大な武具をたずさえ、一癖も二癖ありそうな面構えをしている。

 子供のような若々しさと古兵の風格を兼ね備えた彼らは、ヘクトルの前に並び立つと、一斉に敬礼した。


「連合兵団第一分師団隊長・ペルティレア=ネイザーム、及び旗下五千六百二十七名。これより団長指揮下に入ります。……お久しぶりです、ヘクトル団長。団長の窮地と聞いて、僭越せんえつながら助力に参りました」


「連合兵団第二分師団隊長・クリュセール=メムニア、及び旗下五千七十一名。同じく合流します。……いやー、チコちゃんが報せに来た時はびっくりしましたよ。伝言自体は曖昧だったんすけどね、団長が俺らを頼るなんて、こりゃ一大事だと。すっとんで来た次第です」


「連合兵団第三分師団隊長・アレイオス=アーヴズ、並びに旗下四千九百八十名。右に同じ。……老いぼればかりですが、こんな老体共でよければどうぞいかようにも使ってくだせえ」


「連合兵団第四分師団隊長・ラーグリーズ=ラバストゥラ、旗下四千四百八名、右に同じ。……いやはや、こんな大所帯になるとは思いもしませんでした。みな途中で合流してきたんです。同窓会みたいで、なんだか楽しいものですね」


「連合兵団第五分師団隊長・フラネスカ=アリストラ、旗下四千三百七十名。右に同じ。……なんでもやりますよ、団長! あなたのためならば!」


 皆次々とヘクトルの前にやって来ては、敬意と親愛を以てひざまずく。


 そう、ここに集結した総勢十万もの軍隊は、かつてヘクトルの元で戦っていた元兵団員たち。チコの報せを受けて、遠い異邦の地まで馳せ参じたのだ。


 兵団解体を機に兵士をやめたはずの者や、とうに隠居していたはずの老骨、他国にて現職についているはずの現役兵までもが、このヘスペリディアの丘に集まっている。格好は不揃ふぞろい。所属も別々。年齢だってばらばらだ。けれど、盾の旗印の下に束ねられた彼らの意志は、いつだって一つだけ。


 並び立つすべての者が、指示を仰ぐようにヘクトルを見つめる。そして、全員を代表するかのように、チコが敬礼した。


「団長! なんなりとご命令をっ!」


 膝をついていたヘクトルが、ゆっくりと体を持ち上げる。応急手当すらほどこされていない、満身創痍の老体だ。到底動ける状態ではないはず。


 だというのに、ヘクトルは静かに立ち上がった。自分でも不思議なくらい、とめどなく力が満ち溢れてくる。きっと今なら、もう一度魔王とだって戦える。ヘクトルはそう確信した。


「皆の者、傾聴けいちょうせよ」


 ヘクトルの大声が轟く。兵団員たちは背筋を正して耳を傾ける。それは、傍で聞いているミュケネスやトゥルヴィアの兵士たちも同じだった。


 突如出現した圧倒的軍勢を有する第三勢力。ヘクトルの言葉如何(いかん)では、自分たちの身に危険が及ぶかも知れない。両国の兵士からすれば、恐れるのは当然だ。


 誰もが老兵の口から出る次の言葉に全霊を傾ける。


 そんな緊張感の中、ヘクトルは堂々と言い放った。


「総員――武装解除。……我々の戦いは終わった。ここにはもう、刃を向けるべき敵などいない」


 ヘクトルの声が大空を駆ける。

 両国の兵士たちは我が耳を疑った。戦場の真っただ中で発せられる命令として、とても信じられるものではない。


 だが彼を良く知る元団員たちだけは、ニヤリと笑い合った。そして微塵の躊躇ちゅうちょもなく各々の武器を手放すと、統率された動作で横一列に整列を始める。それも、両軍の間をわかつかの如く、ひたすら真っ直ぐに。


 ヘスペリディアの丘を横断するかつての戦士たち。その様相ようそうはまさしくひとつながりの長大な壁。そしてその壁には顔がある。


 無数に刻まれたしわ。縦横に走る古傷。体の一部がない者まで。


 そう、彼らは名もなき兵士たち。英雄にはなれなかった、歴史に名を刻むこともなかった、その他大勢の脇役だ。団長として名を残したヘクトルとは違い、あと百年もすれば、彼らが生存していた痕跡は欠片もなくなっているだろう。


 だがそれでも、彼らは確かにここにいる。


 大切なものを守るため、生涯を賭して戦い抜いてきた。それぞれの物語を、必死で生きてきた。語られることのない伝説が、描かれることのない英雄譚が、今、ここに、この瞬間、確かに大地を踏みしめ立っている。


 ――それはまるで、魔物と人間との長き戦いの終わりを告げる、長い長いカーテンコールのようだった。


「何をしている、お前たち! 丸腰の老兵など薙ぎ倒して進め! 戦うのだ! 悪しきミュケネスは目の前だぞ! 正義を執行せよ! いいのか?! 英雄になれる好機だぞ!!?」


 声を荒げてパリスが吠えた。その頬には、いつにない焦りの色が浮かんでいる。魔王復活の際でさえ、楽しみこそすれ取り乱すことはなかったというのに。だがそれもそのはず。今パリスが目の当たりにしているのは、彼が最も恐れるもの――国境すらも越えた人々の団結なのだから。


 兵士たちは誰一人動かない。


 いかにパリスに心酔していても、無抵抗な老兵たちに刃を向けることなどできなかった。彼らは皆、心の奥底で理解したのだ。本当に人類を守って来た者たちが、今ここにいることを。


 そしてヘクトルは、一歩踏み出す。


「……パリスよ、もう終わりにしよう」

「終わり、だと……?」


 パリスの視線がぎょろぎょろと周囲を走る。

 新兵たちの眼からは、とうに狂気が抜け落ちていた。彼らはもう、安易な扇動せんどうに操られはしないだろう。


 もはやパリスの舞台上には誰もいない。――彼は今、独りきりだった。


「……なるほど、確かにこれで幕のようだ」


 すべてを察したパリスは、不気味なほどあっさりと敗北を認める。しかしそこには、これまで以上に狂気じみた微笑が浮かんでいた。


「――だがな、ヘクトル。この勝利は無意味だ。魔王が死んだあの日から、人と人とが殺し合う未来は避けられない。何故かわかるか? 世界は小さすぎるのだよ。人間の底無しの欲望を受け入れるには、あまりにもな」


 そうしてパリスは、最後の独り舞台を演じ始めた。


「これから先、魔王領資源は大きな恩恵をもたらすだろう。だがすべてを開拓し終えた、その後は?」


 パリスは問う。それはヘクトルに向けての問いかけだった。


「遠からぬ未来、人類は海の向こうの新天地へとたどり着くだろう。だが新天地すべてを征服した、その後は?」 


 パリスは再び問う。それはこの場にいる全員に向けての問いかけだった。


「そして人類は、いつの日か夜空にまたたく星々さえも手に入れるだろう! だがあまねく空を満たした、その後は?!!」


 パリスは三度みたび問う。――それは、人間という存在すべてに向けられた問いかけだった。


「我々の欲望を留めていた魔王はもういない。くびきから解放された人類は、これまで以上に欲深く生きるだろう。世界はいつまで、人間のわがままを受け入れてくれるかな? ――そう、世界が人間の欲望についていけなくなった時、それが本当の幕開けだ! えすぎた人間が、肥大ひだいしすぎた欲望が、生存をかけて互いに互いを喰らい合う時代が来る! そこには悪もなければ罪もない。正義と愛情だけの、どこまでも高潔で、どこまでも無為な戦争。それゆえに、誰も彼らを止められず、誰も彼らをさばけない。きっとその頃には、英雄が殺した人間の数で語られているに違いないさ! 実に楽しみではないか? 己のためならば、異界の魔王すら引き摺り出す我々人間が、遠い未来、どんな方法で殺し合うのか」


 パリスの瞳には既に、遠い未来での惨劇が映っている。


「わかるか、ヘクトル? その時初めて、人々は気づき、ただうらやむのだ。人間の悪意を引き受け、限りなき欲望の抑止となる存在――魔王という絶対悪が君臨していたこの時代こそが、真の平和だったのだ、と」


 負け惜しみの方便などではない。パリスは絶対的な確信を持って言い切った。


「……あるいは、そうなのやも知れぬ」


 ヘクトルは静かに肯定する。


 現にこのヘスペリディアの丘は、人と人とが争う戦場になりかけた。

 魔王を倒せば世界が平和になる――それが他愛のない幻想であったことはもう知った。これから先も想像を越えた苦難が待ち受けていることだろう。


 けれど、そうだとしてもヘクトルは――


「……私は、人々が手を取り合う未来を――人間の可能性を、信じている」


 老人が未来を信じ、若者が未来を否定した。

 二人の違いはどこにあるのか。

 歩んできた道のりの違いか、それとも――


「……まるで餓鬼がきの戯言だな」


 パリスは呆れたように鼻を鳴らした。


「……が、まあいいだろ。いずれあの世で、お前は知ることになる。今日この日、自分が何を終わらせ、何を始めたのかを。そしてその時こそ、王城でわしたあの約束を果たそうじゃないか。――一緒に劇を観よう、ヘクトル。人間同士が殺し合う、終わりのない喜劇を!」


 そうしてパリスは、大仰に両手を広げる。


「舞台は未来! 演じるは全人類! 観客は我々二人だけ! 屍の客席に座し、断末魔のオーケストラを聞きながら、真っ赤な血で乾杯だ! 人間という哀れな道化たちに! ……タイトルは、そうだな――」


 少し考えるような間の後、パリスはある一つの言葉を口にした。


「――『カーテンコールのその後に』――なんて、いかがかな?」


「――その‘警告’、肝に銘じよう」


 ヘクトルが応じ、パリスがわらう。

 二人の視線が紡ぐのは、果ての無い平行線。


 パリスはもう、何も喋ろうとはしなかった。言うべきことはすべて言い終えたのだろう。


「もう十分ですね? パリス=ロア=ヴァレングルシア」


 まるで幕を引くかのように、進み出たテレジアが書状を取り出す。議会の承認を得た公文書だ。


「王妃及びトゥルヴィア議会の代理として、ここに宣告します。今この時を以て、パリス=ロア=ヴァレングルシアの全権を剥奪はくだつ。並びに、贈収賄罪、公文書偽造罪、内乱罪他多数の余罪で身柄を拘束します。……連れて行きなさい」


 命じられたトゥルヴィア兵たちは、おずおずとパリスに駆け寄る、だが、パリスはその手を振り払うと、自分の足で堂々と歩いて行った。その背中には、敗北者としての忌憚きたんなど微塵もない。すべてを演じきって舞台を降りる役者の足取りだった。


「……お前たちは、どう思う?」


 そうしてパリスが去った後、老兵はぽつりと問う。

 彼ののこした言葉は、罪人の戯言と斬り捨てるにはあまりに重かった。


「さあな、俺は自分がくたばった後の世界なんて興味ねえよ。……だが、まあ、どんな時代にも、あんたみたいな石頭の馬鹿はいるだろ。あとはそいつを上手く支えてやれる馬鹿がいくらかいれば、どうにかなるんじゃないのかねえ」


「私も楽観視はしません。彼の言う戦乱は、そう遠くない未来必ず起こるでしょう。……しかし、だからといって今回戦争を止めたことが無駄なわけではないはずです。確かに我々は、自分たちの中に眠る底無しの悪意を知りました。けれどそれを止めることができたのもまた事実。この経験は、いつかきっと大きな意味を持つ。私はそう思います」


 二人の答えを聞きながら、ヘクトルはパリスの言う未来へ思いをはせていた。


 本当に終わりのない地獄が来るのだろうか? いくら考えても答えは出ない。唯一確かなのは、予言が現実になる時、自分はそこにいないだろうということ。だからこそ思う。未来の若人のために剣を振るえないのならば、せめて人を信じる心だけは残そう、と。


 召喚されし異界の魔王――醜悪なあの異形は、人々の疑心が産んだ鬼なのだ。それは各人の胸にいつも潜んでいて、いつの時代にも現れ得る。パリスという男が証明したように。


 そして悪鬼から人々を守れる唯一の盾こそが、信頼という眼には見えないつながりなのだ。


「ヘクトル団長~!」


 古兵たちの列を抜け、ふらふらとチコが駆け寄ってくる。

 ヘクトルはふと我に返った。


「あのですね、団長~。私、お腹空いてきちゃいました~。だから、早く帰りましょうよ~」


 と、相変わらずマイペースなチコ。

 少女は気づいていないらしい。自らの果たした大きな役割に。


 ヘスペリディアの丘に並ぶ数十万の兵士たち。それを集めたのは、このたった一人の少女なのだ。それも、ヘクトルと別れた後の十日に満たない時間の中で。ほとんど食事も睡眠もとらずに全国を駆け回ったのだろう。そうでなければ、これだけの人数は揃えられまい。


 人々を繋ぐ紐帯ちゅうたいとなった少女――もしかしたら彼女こそが、本当の勇者なのかも知れない。


 その小さな英雄に、ヘクトルはそっと微笑みかけた。


「そうだな――帰ろうか」

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