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カーテンコールのその後に  作者: 紺野千昭
第五幕 ――『カーテンコールのその後に』――
20/22

彼の物語


 魔王領開拓地ミュケネス統轄とうかつ区北西――ヘスペリディアの丘。

 美しい草原が広がっていたはずのそこは、今や見る影もなかった。


 大地には縦横無尽に亀裂が走り、そこらじゅう穴ぼこだらけ。何か強大な力が目茶苦茶に暴れ回った後らしい。これではまるで天変地異だ。


 予備戦力から再編されたトゥルヴィア軍は、不安げにざわめいていた。


「なんという……」


 先頭に立つヘクトルもまた、眼前の惨状に言葉を失う。


 彼だからこそわかる。明らかに魔王クラスの力を持つ魔物の仕業しわざだ。


 その傍らで、パリスは歓喜かんきの声をあげていた。


「ハハハハ! 素晴らしい、想像以上だ! 奴らはとんでもないものを地獄の底から引っ張り出したようだな! これで私が策をこうじる必要もなくなった! 恐怖と不和が世界を覆うだろう!」


 ぎらついた視線の先には、平原をへだてた対岸で整列しているミュケネス軍。

 パリスが更に馬を進めようとしたところで、機先きせんを制してヘクトルが言った。


「私に行かせろ」


 パリスはただ嬉しそうに笑う。どうやら異論はないようだ。


「それでは、お手並み拝見といきましょうか?」


 パリスの声を背に受けて、ヘクトルはひとり平原を渡る。

 ミュケネス側はかすかにざわめくような動きを見せたが、攻撃はない。


 そしてミュケネス軍前線より百メートルほど手前で馬を降りると、ヘクトルはただ静かに待つ。するとほどなくして、応じるように一人の少女が進み出てきた。


「エピウ……」

「ヘクトル団長……」


 束の間、見つめ合う両者。

 少女の頬に刻み込まれた疲労の色が、ヘクトルの胸を締め付ける。

 アルゴスで再会した時とは比べ物にならないほどのやつれ具合。精神的なストレスに加えて、極端な魔力消費の兆候ちょうこうだ。その原因には十中八九予想がつく。だがそれでもヘクトルは、少女自身の口から確かめねばならなかった。


「これは……お前が、やったことか?」


 ヘクトルは静かに問う。


 願わくは『違う』と、そう言って欲しかった。――けれど、返答は無情であった。


「……そうですよ。魔王を召喚したのも、隷属魔術で操ったのも、すべて私がやりました」


 ヘクトルはぎゅっと目を瞑る。

 わかっていた。わかりきった答えだった。しかし、それはあまりに重すぎる事実だった。


「仕方ないじゃないですか……」


 エピウは弁明するように口を開く。


「……だって、トゥルヴィア軍はあんなにたくさんいて、みんなで私たちを攻めてきて……国を守るにはこれしかなかったんです。家族がいるんですよ……仕方ないじゃないですか……こうする他に、どうしろって言うんですか……」


 目を伏せたままのエピウは、ヘクトルの方を見ようともしない。その姿はまるで父親から叱られることを恐れる童女のようだった。


「……エピウよ、今からでもひいてはくれまいか。今回の件はパリスの独断だ。トゥルヴィアはすぐにでも、ミュケネスへの宣戦布告を撤回する構え。こんな戦いをする必要はないのだ。もしも今ここにいる兵がミュケネスを攻めるというのならば、必ずこの私が止めてみせよう。……どうか、頼む」

「……団長は優しいですね」


 エピウは顔を伏せたまま、小さく呟いた。


「昔からそうでしたよね。私が兵団に入ったばかりの頃、兵団の中でも私を厄介者扱いする人が一杯いました。私を支えてくれる家族もいなくって、毎日がすごく辛かった。……そんな時にかばってくれたのが、団長でしたね。きっと団長は、そんなの当たり前って言うでしょうけど、そのお陰でどれほど救われたことか……」


「ああ、案ずることはない。今度もまた、きっと私が守って見せよう。いや、私だけではない。エリオスやテレジアや、他の皆もお前の味方だ。だから――」


「――でも、もう遅いんです。自分のしたことはわかっています。私は千年に渡る人間の戦いすべてを無駄にしました。これで私は……ミュケネスは、世界中の敵になった。この選択をしてしまった時点で、私たちにはもう後戻りなんてできないんです」


 精神的に極度に追い詰められた者特有の表情。兵団時代幾度も眼にしたそれを、ヘクトルは震える少女の瞳に見た。――危険な兆候だ。


「エピウ、自暴自棄になるな! お前には今、周りが見えていない。まずは冷静に――」


 一歩踏み出しながら、説得を続けようとするヘクトル。だが少女の浮かべた場違いな表情に、思わず言葉を失った。


 微笑――そう、エピウは笑ったのだ。到底戦場にそぐわぬ美しい顔で、瞳の奥に悲哀ひあいを溢れさせながら。


「――ヘクトル団長、私、今になって思うんです。私たちは……人間は、勇者様に頼るべきではなかった。神の使者に任せては駄目だったんです。犠牲を払ってでも、人の手で平和を勝ち取るべきだったんです。必要なのは勇者様の綺麗な神話じゃなかった……血にまみれていても、私たち人間の歴史が必要だったんです。……そうでなくちゃ……簡単に忘れてしまうから……」


 少女は一歩後ずさる。


 まるで、ヘクトルの手の届かぬところへ、自ら身を投じるかのように。


「あなたを傷つけることだけは、耐えられません……だからお願い――逃げて、ヘクトル団長」


 エピウの影が、突如としてうごめいた。次の瞬間、人型の輪郭りんかくが崩壊し、影は大きく大きく広がっていく。こぼれた墨汁ぼくじゅうの如く際限なく拡散し、大地を黒で塗り潰した影。――その深淵の闇の底から、ずるりと異形の巨体が這いずり出て来た。


 らんらんと光る真っ赤な一つ目。骨の突き出た三枚の翼。捻じ曲がった腕が七本に、ゆがんだ脚が十三本。それらのパーツがすべて、でたらめな位置から伸びている。到底この世のものとは思えない醜悪しゅうあくな怪物。――それは、不和と混沌の具現者たる、おぞましき異形の王だった。


 き散らされるのは腐臭と絶望。とどろくのはあらゆる生物の断末魔を足し合わせたような咆哮。誰もが眼を背け、耳を覆い、鼻を塞いだ。それでもなお心をむしばむ汚濁の塊は、その大きな一つ目で足元に立つ老兵を見る。そしておもむろに腕の一本を上げたかと思うと、ヘクトル目掛けて振り下ろした。


 唐突な巨腕の一撃。ヘクトルは半ば無意識に剣を構える。だが強大すぎる力に耐え切れず刀身は即座に粉砕し、腕の勢いを弱めることすらできないまま、ヘクトルは大地に叩きつけられた。それは魔王にとってはハエをはたき落とす程度の動作。それだけで、平原に巨大なクレーターが出来上がる。


 その穴の中心で、ヘクトルが微かに身じろぎした。鍛え上げられた彼の肉体はなおも健在。けれどそこには決定的に欠けてしまったものがある。それは――戦う意志だった。


 ヘクトルの視界に映るのは、魔王の姿ではなく悲哀に満ちた少女の微笑。聞こえているのは、魔王の咆哮ではなくかつて耳にした少女の言葉。


 『――助けて、ヘクトル団長』


 ミュケネスで少女が呟いた小さな懇願こんがん。その本当の意味が、今ならわかる。


 トゥルヴィアから守って欲しかったのではない。パリスを阻んで欲しかったのでもない。少女は、他ならぬ自分自身を止めて欲しかったのだ。魔王召喚という大罪から救ってもらいたかったのだ。心優しい少女が恐れたのは、傷付くことではなく傷つけること――


 かつて自分たちの手で打倒しようとしていた魔王を召喚し、己の人生を狂わせたトロイオンの禁術を使用する。その苦渋くじゅうの決断に至るまでに、少女の心は一体どれほどの辛苦に苛まれたのだろうか。そして部下の苦しみに気付くことすらできなかった自分の不甲斐なさを、ヘクトルはただ悔やみ――罰を与えてくれる存在がここにいることに感謝した。


 再び轟く異形いぎょうの雄叫び。異界の魔王はすべての手足を使って、目茶苦茶にヘクトルを叩きつける。そこに殺意などない。それどころか、ヘクトルで遊んでいるようにさえ見える。無類の力を誇るこの魔王にとっては、自分の一撃で壊れない玩具がんぐを初めて目にしたのだろう。楽しげな嬌声きょうせいをあげながら、夢中になってヘクトルを殴打する。その度に大地は割れ、地鳴りが天へ轟いた。


 山すら砕くであろう暴力の嵐。幾百幾千の乱打を浴びてなお、ヘクトルは生きていた。けれどそれもかろうじて。今や半死半生はんしはんしょうの状態だ。

 全身からはおびただしい量の血が流れ、頭は朦朧もうろうとして働かない。走馬灯そうまとうのように思い出すのは、かつて救えなかった者たちの顔だった。


 敬愛する先達、共に鍛錬を重ねた同輩、自分をしたってくれた部下……おびただしい犠牲の末に辿り着いた結果が、この様か。


 ヘクトルは薄れゆく意識の中で自嘲する。


 魔王を討ち果たせもせず、戦争を止めるのも間に合わず、悩み傷付いた少女一人救うことすら叶わない。


 なんたる無能。なんたる無力。


 命をしてついてきてくれた部下たちに、なんと言って詫びればよいのか。守れなかった者が、果たせなかった約束が、あまりにも多すぎる。五十年間で積もりに積もった自責の重さで、ヘクトルはもう指の一本さえ動かせない。


 だがそれも、ここで終わる。終わらせてくれる者がいる。――覆いかぶさる魔王の異形を見上げながら、ヘクトルは全身の力を抜いた。


 異界の王がにわかにさざめき立つ。獲物が生を諦めた臭いを嗅ぎ取ったのだ。狂乱の慟哭どうこくと共に、死を告げるかぎづめが振り下ろされる。絶対的な終焉の影がヘクトルを包み込み――


「――うひょお、こりゃまたでけえな! やりがいがあるってもんだ!」

「――口よりも手を動かしなさい。出し惜しみはなしですよ」


 ヘクトルの頭上に差した影を、二対の閃光が切り裂いた。


 変幻自在に乱舞する長大鞭と、狂瀾怒濤の疾走を見せる大双剣。阿吽あうんの呼吸でかなでられる神速の連携は、不意を突かれた魔王の全身を余すとことなく切り刻む。時間にしてものの数秒で、魔王の巨体はミュケネス軍後方まで弾き飛ばされた。


 魔王とさえ渡り合える実力者。そんな人物を、ヘクトルは二人だけ知っている。


「エリオス……テレジア……」

「よお、団長。良い格好だな。杖いるか?」

「申し訳ありません、団長。遅れました」


 ヘクトルの傍らに降り立った二人は、いつもの調子で微笑んだ。


「なぜ、お前たちがここに……?」

「おかしいか? 兵士が戦場にいちゃあよ」

「我々はこれが仕事ですので」


 二人は平然と答える。死地へおもむく理由など、彼らにはそれで十分。兵団時代から何一つ変わっていない。


「それに……私の方は王妃様より預かった物がありましたので。あなた宛にね。……エリオス、荷物持ちご苦労でした」

「けっ、面倒なことは俺に押し付けやがって……あいっ変わらず無駄に重てえんだよな、これ」


 ぶつくさ文句を垂れながら、エリオスは背中に負っていた巨大な包みを降ろす。


 その中身は、ヘクトルにとって何より馴染みある物だった。


「これは……」


 刃渡り三メートルはあろうかという規格外の大剣――『無名むみょう』。


 エリオスがを上げるほどの重量を誇るその武器は、かつての主の眼前で静かにきらめいていた。


「それから、陛下より伝言が一つ――『存分に役目を果しなさい』と」


「しかし、私はもう団長では――」


 ヘクトルは頑なに首を振ろうとする。けれどそれを、二人が遮った。


「あー、ったく、面倒くせえジジイだな! 昔っからそうだった! あんたはいつでも団長ぶろうとしてたけどな、俺たちにゃ心底どうでも良かったんだよ、そんなもん! いい加減、みんなのためだの平和ならそれでいいだの、似合いもしねえ建前たてまえなんか捨てちまえ!」

「こればかりはエリオスに同意ですね。私たちはあなたが団長だったから命を捧げたのではありません。あなたがあなただったから――ヘクトル=アーバンカインだったから、ついていったんです。まだわかりませんか? 私が……私たちが言いたいのは――」


 共にヘクトルの片腕と呼ばれたエリオスとテレジア。普段は決して気の合う二人ではない。むしろ犬猿の中と揶揄やゆされることさえあった。


 だがそんな二人が、今この瞬間だけは、全く同じ台詞を口にした。


「――好きにやってこい」

「――お好きなようにやってください」


 それだけ言い残し、二人は魔王との戦いへ舞い戻る。

 既に体勢を立て直した異形の王は、完全に二人を外敵として認識していた。もう先ほどの不意打ちのようにはいかない。それでもなお二人が真正面から立ち向かう理由は一つ。老兵が苦悩する時間を稼ぐためだ。


 二人の死闘を耳にしながら、ヘクトルはまだ、深い穴の底で『無名』と向かい合っていた。


「私は……」


 ヘクトルは独り呟く。


 いつからだろうか?

 この肩がこんなにも重くなったのは。

 守るべきものが増える度に、身に負う責任は大きくなっていった。


「私は……」


 いつからだろうか?

 この腰がこんなにもにぶくなったのは。

 守るべきものを失う度に、果たさねばならぬ約束は増えて行った。


「私は……」


 『団長として』――そればかりを考えて生きて来た。託されたものはすべて背負い込んだ。不器用な彼には別の道など見つけられず、ゆえ愚直ぐちょくに貫き通した。


 その生き方は無類の力を授ける剣であると同時に、彼を束縛するかせでもあった。そして魔王が死んだその時から、彼に残されたのは枷だけだった。だからもう、動くことはできない。それが失くしたものたちにじゅんじる唯一の方法だと、そう思っていたから。


 けれど、もし、今この瞬間だけでも、かせを脱ぎ捨てることがゆるされるなら。もし、自由になった自分の背を、それでも押してくれるというのなら――


 きっとまだ、もう少しだけ――


 ――戦える。


「私は――」


 ヘクトルの足が、再び大地に屹立した。


 英雄への憧憬しょうけい

 仲間たちの復讐。

 消えない義憤ぎふん

 理不尽への絶望。


 そして、生物としての僅かな尊敬。


 執念、野望、哀悼あいとう、憤怒……五十年という年月で積もった魔王への感情は、到底一言で表せるものではない。


 だがその行き着く先は――


 誰もがかつて描いていた夢は――


 そして他でもない、自由になった自分自身の望む未来は――


 たった一つの純粋な願い。


「――私は、魔王を討ちたい。他の誰にも渡しはしない。あれは私の……()の獲物だ。――俺の手で、奴を葬る!!!」


 ずっと抑え込んでいた言葉を、ヘクトルはついに解き放った。


 その瞬間、あれだけ重かった全身が嘘のように軽くなる。

 まるで初めて剣を握った、あの少年時代に戻ったかのように。


 もはや一片の迷いもない。

 ヘクトルは『無名』に――散って行ったすべての者たちに呟いた。


「もう少しだけ、俺のわがままについてきてもらうぞ」


 ヘクトルの右手が、確かに『無名』のを掴んだ。

 八年の断絶の末に果たされた再会。まるで世界が祝福しているかのように、凄まじい突風が吹き荒れる。


 溢れ出る膨大な闘気が大地を震わせ、ただ魔王を畏怖いふするだけだった兵士たちも、全身を貫く力の奔流ほんりゅうを感じていた。この瞬間、誰もが理解したのだ。全盛期をとうに過ぎた、魔法も使えぬ一介いっかいの老兵が、‘歴代最強の兵団長’と呼ばれ続けていたその理由を。


「……へへ……やっと、かよ……」

「……ようやく……ですね……」


 ヘクトルの覇気は、今まさに魔王と交戦中の二人にも届いていた。


 彼らの全身は既にボロボロ。

 かつての連合兵団において、ヘクトルに次ぐ実力者として知られた二人。それだけの力量をもってしても、最初の不意打ち以降は防戦一方を余儀なくされていた。どうにか押し留めるのが精一杯だ。


 けれど、彼らは傷だらけの顔で笑う。老兵が再び剣を握った――ただそれだけで、世界のすべてが敵だったとしても、彼らは同じように笑うだろう。


 そして二人はそっと、ヘクトルのためだけに道を開けた。


「――行って来い」

「――ご武運を」


 その道を、ヘクトルは無言で歩いていく。


 最初はゆっくり。徐々に早く。一歩ごとに力強さを増しながら、ヘクトルは一直線に駆け抜ける。老兵が大地を踏みしめる度、地鳴りが天空まで轟いた。


 目指す先は異形の王。ろうすべき策など元より持ち合わせてはいない。彼にできるのは、ただ一途いちずに突き進むのみ。


 その軽率なまでの特攻は、異形の眼にただただ愚かしく映った。


 矮小わいしょうな人間との力比べなど、負ける余地なし。ほんの一撫ひとなでですれば肉片と散る。それだけの、糸屑の如き命。叩き潰すなど造作もない。生物としての‘格’というものが違うのだ。


 故に異界の王は、老兵の放つ一閃を至極しごくつまらなそうに受け止めて――


 ――次の瞬間、異形の巨腕が弾けるようにして四散した。


 辺りに響く苦痛の叫び。

 何が起きたかも理解できぬまま、異形は狂ったようにのた打ち回る。


 その間隙かんげきって、ヘクトルは再び剣を振るった。次は二本、その次は三本。大剣がひらめくたび、魔王の四肢が肉片となって飛び散る。


 種も仕掛けもありはしない。ヘクトルは力をめて剣を握るのみ。ただ、その力があまりにも強すぎるのだ。剣を介して叩きつけられる衝撃だけで、肉が根こそぎ吹き飛んでいるのである。


 振り上げ、降ろす。――兵士が一番初めに習う剣術の基礎。五十年に渡るたゆまぬ研鑽けんさんの果て、その基本動作が今、魔王をもおびやかす牙となる。


 だが混沌の王とて、それで終わりではなかった。

 絶たれたはずの肉体が、瞬く間に再生していく。それも、単なる治癒とは違う。生えてくるのは欠損したものよりもずっと強靭な手足。


 混沌の王は急速に進化しているのだ。――より多く、より強く、より醜悪に。生物としての進化過程を棄却ききゃくし、眼前の男を殺せる水準レベルに至るまで。


 誰の眼から見ても、老兵と魔王との相性は最悪だった。ヘクトルには一瞬で消滅させるような魔法もなければ、動きを封じるからもない。斬れば斬るほど強くなる敵を前にして、物理以外の攻撃手段を持たぬ老兵に勝ち目などどこにもない――はずだった。


 異界の魔王が再び苦悶の鳴き声を上げる。


 既に数千を越えて進化した全身は、今やオリハルコンをもゆうしのぐ強度。殺傷力とて山をも砕くほどに成長している。……だというのに、ヘクトルとの差がまるで埋まらない。剣の一振りで手足はもぎとられ、拳の一突きで体に風穴があく。


 ほんの数分前には、悠々と打倒したはずの相手。それがなぜ、たかが鉄の剣一つ手にしただけで、こうもがらりと変わるのか。異形のにごった頭では決して理解できないだろう。


 『無名』は確かに単なる鉄の塊だ。けれどそこには、目には見えないたくさんのものが込められている。歩んできた五十年間。その過程で出会った幾万の兵士たち。そして、彼らの中に流れる千年分の血潮。死んでいった者たちの願いが、生きようとしている者たちの祈りが、これから生まれてくる者たちの未来が、剣には託されている。


 その一振りが、その一閃が、その一撃が――軽くあるはずがない。


 そしてとうとう、異界の怪物はヘクトルに背を向けた。殺戮しか知らぬはずの異形が、この世界において初めて学んだのだ。‘恐怖’という感情を。


 無尽蔵に見えた再生は既にかげりを見せ、新たに生えた手足はひどく貧弱な出来損できそこない。その四肢を必死でばたつかせて、異形は闇雲に逃げ惑う。だがもう手遅れ。


 『無名』の剣閃けんせんが、綺麗な弧を描いた。黒い血をね散らせながら、異形のいびつな頭部が宙を舞う。なおもぎょろりと蠢くその眼球を、ヘクトルの拳が真っ直ぐ貫いた。


 四散する肉片。頭部を失った異形の巨体が、地鳴りを轟かせながら崩れ落ちる。異界より呼び出されし破壊と混沌の権化ごんげは、生まれ出でた死へとかえって行ったのだ。


 静まり返ったヘスペリディアの丘に、声を上げる者はいない。脅威は去った。これでようやく、すべてが終わった。


 ――かに思えた。


 刹那、地に伏していたはずの異形の死骸が、びくりと痙攣けいれんするような動きを見せる。これまでの再生とは違う。明らかに自分の意思ではない。


 真っ先に異変を察したヘクトルは、すぐさま『無名』を握り直す。何が起きようと関係ない。自分にできるのは、命果てるまで剣を振るうことのみ。


 だが、ヘクトルの足は途中で止まった。気づいてしまったのだ。異形の胎内たいないで蠢く、もう一つの強大な存在に。


 ずるり――としかばねの腹部を内側から突き破って、一本の雄々しいかぎづめが天をく。黒く美しいうろこに覆われたその腕は、崇高すうこうなる龍の前肢まえあし。続いて絢爛けんらんな両翼が、壮麗そうれいあぎとが、雄健ゆうけんな両脚が、まるで卵の殻を破るようにして、異形の胎内から姿を現した。


 ヘクトルはそれを良く知っている。この五十年間、片時たりとも忘れたことなどない怨敵おんてき。恋い焦がれる少女のように、幾度も夢に見た相手なのだから。


「そうか、お前も(・・・)……終われなかったのだな……」


 現れたのは優美なる漆黒の巨龍――人類が千年の間挑み続けた、この世界における真の魔王。供物くもつとして捧げられたはずの黒龍が、逆に異界の王をにえとして蘇ったのだ。


 静かに対峙する老兵と古龍。


 もはや言葉の介在する余地などない。兵士と魔王。その宿縁は、千年も前から決まっている。


 そうして、最後の死闘が幕を開けた。


 無慈悲で凄絶、それでいて優美――真なる魔王の力は絶大だった。異界の怪物のように雑然ざつぜんとした暴力とは違う。精緻せいち収斂しゅうれんした純粋なる力だ。


 山を砕きはしないが、挑み来る者を確実に打ち倒す力。

 天を裂きはしないが、侵し来る者を堅牢に跳ね返す力。


 それはすなわち、大自然の暴威。魔王とは人ならざる存在すべてを顕現けんげんする者――まがうことなき世界の代弁者なのだ。


 もはやミュケネスもトゥルヴィアも関係ない。新兵たちはただひたすらに戦慄した。世界の覇者たる魔王の脅威に。そして思い知る。人間という種族の矮小わいしょうさを。


 だが同時に、彼らは目にしていた。圧倒的な魔王の威容いように立ち向かう、ちっぽけな人間の姿。何度傷付こうと前を向き、何度跳ね返されようと立ち上がる。磨き上げた己の肉体と、鍛え上げた一振りの剣、そして、散って行った幾千幾万の同胞どうほうの願いを背負って戦う、老兵の背中を。


 両者の戦いは、不思議なバランスで拮抗きっこうしていた。

 奇跡にも近い均衡を保つ死闘。どんなに饒舌じょうぜつな詩人とて、この激戦を表す言葉など持ち合わせてはいないだろう。


 剣戟けんげきの音は蒼穹に響き、龍の咆哮が大地に轟く。それは遠く離れた人々の耳にも届いていた。


 広場で遊ぶ子供、農作業中の老夫、病床の少女、円卓につく王……誰もが手を止め、遠くの空を仰ぎ見る。皆どこかで感じていたのだ。今、この瞬間、どこかで誰かが戦っている、と。


 両者の激突は、すなわち人間と魔物の歴史。千年に及ぶ闘争の縮図。

 互いの命を削り合いながら、二つの魂はただひたらすらに刃を交わす。


 だが当事者たるヘクトルの頭には、そんな煩雑はんざつな感情などなかった。あるのは不思議な懐かしさだけ。ずっと前から、幾度もこうして戦っていた気がする。ひどく奇妙な感覚だ。


 ――それが、今、終わろうとしていた――


 死闘の狭間に訪れた、束の間の停滞。両者は再び対峙する。

 どちらも既に満身創痍。ヘクトルの左腕はもう使い物にならず、魔王の両翼は根元から絶たれている。共におびただしい量の血を流しながら、それでも静かに睨み合う。


 先に動いたのは魔王だった。


 生命を賭した咆哮と共に振り下ろされる鉤づめ。それを、ヘクトルは真正面から受け止め、全身全霊で弾き返す。そして最後の力を籠めて、黒龍の腹を縦一文字に斬り付けた。


 骨肉が切り裂かれ、鮮血がほとばしる。


 だが巨龍は倒れず――次の瞬間、『無名』の刀身が粉々に砕け散った。

 魔王との連戦によって酷使され続けた大剣は、とうとうその限界を迎えたのだ。


 力を使い果たし、武器さえも失ったヘクトルに、もう戦うすべは残っていない。それでも老兵は、眼を背けることなく堂々と魔王を見据えていた。


 人類は、またしても魔王に敗北したのだ。


 両国の兵士たちは、ついに決着を悟る。黒龍が爪を一薙ひとなぎすれば、老兵のくたびれた命などたちどころにちりと消えるだろう。だがその諦念ていねんの先で、彼らは信じられないものを眼にすることになる。


 錯覚だろうか――巨龍が微かにこうべを垂れたように見えたのだ。まるで、小さな戦友へ、心からの敬意を表するかのように。


 魔王の体が、ぐらりと傾いだ。そしてゆっくりと、黒龍は地面に崩れ落ちる。


 刹那、龍の瞳がヘクトルを見た。ヘクトルもまた、魔王の瞳を見つめ返した。


 消えかけた真紅の眼が語っていた。


 ――小さき者たちよ、よくぞここまでたどり着いた――と。


 世界に君臨せし最も古き存在。

 人間の歴史と共に生きた黒龍。

 常に彼らの敵で在り続けた魔王は、千年もの役目を終えて今、安寧の眠りへと落ちていった。


 戦場に一陣の風が吹く。


 砕け散った『無名』の欠片が、きらきらと瞬きながら舞い上がった。

 それはただ、ひたすらに美しかった。

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