始まり
――――……
――……
もたらされた大敗の一報。その場にいた誰もが理解できず、天幕の内を束の間の沈黙が覆う。
「今……何と言った……?」
かろうじてパリスが聞き返すが、伝令の言葉は変わらなかった。
「我が軍は大敗です! 第一陣、第二陣共に撤退、砦も放棄しました! 戦線は既に総崩れです!」
パリスでさえ予期していなかった展開。いや、一体世界中の誰が、六万対数千の戦闘で敗北を考えなどするというのか。しかもトゥルヴィアは万全の用意まで整えていた。その圧倒的な数字の差は、戦略や戦術で覆せる域を優に越えている。
「どういうことだ? 何があった?!」
「あ、あれは……あれは……」
恐怖で言葉がつかえてしまうのか、伝令は蒼白な唇を震わせる。それでもやっとの思いで見てきたものを口にした。
「魔王――あれは、魔王です! 魔王が現れたのです!」
その言葉にヘクトルはすぐさま反応した。
「馬鹿な、魔王はとうに死んだ。瘴気なしで生きられる魔物もいないはずだ」
「わ、私にも、何がなんだかわかりません……し、しかし、あれは間違いなく魔王でした! そうでなければ、説明がつきません……!」
そう訴える伝令の表情は真剣そのもの。とても虚偽や見間違いだとは思えない。
「我々トゥルヴィア軍は、布告した通りの時間にミュケネス側と対峙しました。数は圧倒的に我が軍の優勢。奴らは開戦早々撤退を始め、我が軍は追撃戦に移りました。けれど、ヘスペリディアの丘まで追い込んだその時、突然敵軍の前におぞましい異形の怪物が現れたのです! 脚の一振りで大地が裂け、腕の一振りで森が吹き飛びました……! あんなもの、とても人間に太刀打ちできるものじゃない……もしもあれが王都までやってきたら……トゥルヴィアはもう……!」
当時の恐怖まで思い出してしまったらしく、瞳孔は開き、呼吸が不自然に早くなる。そんな伝令の両肩に、ヘクトルはしっかりと両手を添えた。
「……落ち着いて、深く呼吸をしろ」
大地の如く分厚い掌。そのがっしりとした感触のお陰で、伝令はどうにか平静を取り戻す。
「死傷者はいるのか? みな撤退を終えたか?」
「い、今のところは……魔王が現れた時点で指揮系統は乱れ、全員そのまま散り散りに撤退しましたので……」
「戦わずして逃げ出すとは……ふん、腰抜け共が」
「いや、それでいい。正しい判断だ」
統率の乱れた部隊に勝機などないことを、ヘクトルは経験上知っている。中途半端に抵抗するよりは、戦意を喪失して逃げ出す方がずっと被害が少ない。魔物と戦ったことのない新兵ばかりだったことが逆に幸いしたのだ。
「魔物は突然現れたと言ったな? 本当に何の予兆もなかったのか?」
「関係あるのかはわかりませんが……我が軍の魔導師が、大規模な魔術行使の反応を二度感知したと……」
その答えに対して、パリスは妙に喰い付いた。
「二度だと?! それは確かか?」
「え、ええ……戦略攻性魔法を警戒し、魔術師たちによりすぐに魔術防壁が展開されたのですが、結局何も起こらず……そのすぐ後に、あの魔王が……」
二度の魔力反応……どうにも不可解な情報だった。直接に魔王の出現と結びつくとは思えない。
だが唯一パリスだけは、その情報の意味に気付いたようだ。
「……くくく……はははははは! そうか、そういうことか……! トロイオン、お前は『また』この私を……! やってくれるじゃないか……!」
トゥルヴィアが窮地に立たされたこの状況で、パリスは何がおかしいのか笑い始める。いつの間にか、その口調はがらりと変わっていた。もはやおどけた演技は欠片も見られない。
「まだ理解できないのか、ヘクトル?! 我々と同じさ。人間は勝ち目のない魔王を倒すために何をした? お前なら、よくよく覚えているだろう?」
「――勇者、召喚……?」
パリスの言わんとしていることはわかる。だが、あまりにも状況が違いすぎるではないか。
「あの召喚術は世界に一本しかない神樹を犠牲にして初めて成功したものだ! あれほどの魔力を秘めた供物が、一体どこにあると――いや、まさか……!」
ヘクトルはそこでようやく理解した。この世には、神樹と双璧を成しうるものがもう一つだけ存在していることに。
「そうだ、あるんだよ! もう一つだけな! 千年もの間、人類を見守り続けた神樹と同等の力を持つ遺物――千年もの間、人類を苦しめ続けたものがな!」
その答えをヘクトルはある意味で誰よりもよく知っている。
なにせそれは、彼が生涯をかけて追い求めていたものなのだから。
「‘魔王の遺骸’か……!」
「これは喜劇だ、ヘクトル! それもすこぶる上等の! 人類が勇者召喚によって魔王を倒したように、今度はミュケネスが魔王召喚によって我々を討つわけだ! こいつは最高のシナリオではないか!」
パリスはまるで劇でも見ているかのように歓喜する。限度を遥かに超えたその高揚は、ほとんど狂気と紙一重であった。
「ま、待て……魔王は勇者とは違う! たとえ異世界から魔王を召喚したとしても、その後どうやって制御するというのだ!?」
「おいおいヘクトル、冗談は大概にしてくれ。あそこはミュケネスだぞ? あの事件……『九七団長事件』にて、コウニアは何を開発した? ――そうさ、‘隷属魔術’だよ! 他者の意思を縛り、己の傀儡として従わせる禁忌の呪法さ!」
「だがそれには、人間用に開発された呪術を魔物用に改良せねばならぬ! 稀代の魔術師であったコウニア団長でさえ困難だったことを、一体誰が……」
「おあつらえ向きの奴がいるじゃないか! んん? あんたもよーく知っているだろう? トロイオンの血を引く、あの女を」
そう、魔術の開発・改良には膨大な魔力と才能が必要。だがヘクトルは、それだけの才覚を持つ少女を一人だけ知っている。
「エピウ……トロイオン……?」
とうとう結論に至ったヘクトルを見て、パリスはいよいよ満足気に頷いた。
「私も……そしてお前も、一杯喰わされたというわけだな、あの小娘に!」
そしてパリスは、狂気じみた高笑いと共に伝令へ問いかける。
「それで? ミュケネス側の要求は? そのぐらいは知らされて来たんだろう?」
指揮官の異様な様子に戸惑いながらも、伝令は簡潔に答えた。
「そ、総司令官であるパリス様の出頭と、即時調停を!」
「ああ、そうだろう、そうだろう! 一体どれだけぶんどるつもりか!」
パリスはわくわくと身を乗り出す。
「で、調印式の日時は何と言っている?」
「ば、場所はヘスペリディアの丘、刻限は……本日夕刻です!」
「あっはっはっは! 随分と性急なことだな! 魔王を飼いならすのも骨が折れるようだ。いいだろう、どちらにせよ俺も待ちきれん! 予備戦力を招集しろ! それから俺の馬だ! おっと、ヘクトルの分も忘れるなよ?」
命じたパリスは、狂喜の微笑をヘクトルに向けるのだった。
「良かったじゃないか。ヘクトル、あんたの出番だ。――これでようやく、望みが叶うな」




