急報
――――……
――……
ミュケネスを出発してから数日後。
早馬を飛ばして王都テウクロイに戻ってきたヘクトルは、人相を隠しながら門を抜けた。
たった数日だけのはずが、随分と長い間離れていた気がする。
だが、そんな郷愁もすぐに吹き飛んでしまった。街の異変に気が付いたのだ。
(何か……不自然だ)
つい先日テウクロイを訪れた時、街を包んでいたのはお祭りじみた雰囲気だった。魔物の脅威からの解放と、開拓地資源による空前の好景気。そうなるのはある意味自然な流れと言える。
けれど今、街にはピリピリと肌を差す嫌な空気が漂っていた。そして何よりヘクトルの胸をざわつかせるのは、その雰囲気に覚えがあることだ。そう、この塞ぎ込んだ空気感は、まるで――
(魔王が存命だった頃を、思い出すな……)
ヘクトルは胸騒ぎを抑えながらも、一路メガリア城へと向かう。
その途中で差しかかった広場にて、ヘクトルは怪訝な顔で足を止めた。大きな人だかりができている。その中央に据えられたのは、巨大な公示用の掲示板だ。集まった群衆は先を争ってその内容に目を走らせているらしい。
王城へ向かうのは急務だが、これだけの騒ぎを素通りするわけにもいかない。
「……失礼、一体何事ですか?」
「おわっ、びっくりした……何って、あんたよお、知らねえのかい! 宣戦布告だよ、宣戦布告! ミュケネスに送り付けた文書の写しなんだと!」
声をかけられた中年の男は興奮気味に掲示を指差す。
貼り付けられているのは、確かにトゥルヴィア議会公用の文書だ。やたら長々と綴られているが、その内容を把握するには最初の三行だけで十分だった。
『宣戦布告通告
勇猛果敢なるトゥルヴィア臣民へ通達す
我々トゥルヴィア王国はここに、ミュケネス共和国への宣戦を布告す』
「これは……なぜ急に……?」
記されていたのは、思わず我が目を疑う内容。文面の末尾には、議会のしきたりに従って責任者の署名と血判が押されている。それが誰の名前であるかは、もはや口にする間でもなかった。
「『トゥルヴィア王国副宰相 パリス=ロア=ヴァレングルシア』――!?」
「なあ、俺もびっくらこいちまったよ。聞いた話によると、昨日の夜中に張り出されたんだと。んでそれから大騒ぎよ。ついに戦争だー、ってな」
「昨晩……ということは、半日前か……」
ヘクトルは周囲へ視線を巡らせる。この急報に驚いている人々の中には、兵士の姿も混じっていた。どうやら軍関係者にさえ伝えられていなかったらしい。
そして広場から離れかけたヘクトルの元へ、歩み寄ってくる者がいた。
「――ヘクトル団長」
「テレジアか……」
その姿を認めた途端、ヘクトルはすぐさま問いただす。
「一体何があったというのだ?」
「ご覧になられた通りです。……昨晩、パリスがミュケネスへ宣戦布告をした旨の掲示がなされました。恐らくは、ミュケネス側にはもう布告状が届いている頃でしょう」
「議会の承認は?」
「無論、通されていません。議会は今、大混乱に陥っています。パリス派だったはずの者たちも、誰一人今回の件を知らされていなかったそうです」
「独断というわけか……」
「パリス本人については、昨日の昼ごろに街を離れて以来足取りがつかめていません。既に開拓地へ向かったものと思われます」
「この掲示は時間稼ぎ……ならば、即刻ミュケネスへ使者を送り撤回せよ。同時に開拓地へも使いを出し、兵たちを止めるのだ」
ヘクトルはすかさず次善の手を提案するが、その程度のことはテレジアもわかっている。
「各方面へは既に、女王陛下の名前で伝令を出発させました。……が、時間的に間に合うかどうか。そもそも、意味があるのかが疑問です。宣戦がパリスの独断だと言ったところで、ミュケネスが聞き入れるとは思えませんし、開拓地への使者も恐らくは同様かと。パリスの妨害が予想される以上、途中で捕縛されるか、万一たどりつけたところで、パリスであれば幾らでも開拓地の兵士を言いくるめることができるでしょう。彼らにとっては、ずっと指揮を執っていたパリスがすべてですから。一介の伝令が書状を持って行ったところで、まず無意味ですね」
つまるところ、八方ふさがりなのである。というより、パリスはそれがわかっていたからこそ行動を起こしたのだ。
「ならばきちんと軍を整えて開拓地へ向かわせるしか……」
「それも今やっています。現在議会では、もっぱらパリス捕縛のための軍編成についての討議を行っています。……が、はっきり言ってこれも望み薄ですね。これだけ混乱した議会で、まとまった結論が出るとは思えません。トゥルヴィアという国家としては、もはや打つ手がないのです」
意味深なもの言いに、ヘクトルは彼女が言わんとしていることを理解した。
「――わかった、私が出向こう」
今すぐに動くことができて、開拓地の兵士たちにも認知度があり、なおかつ予想されるパリスの妨害をすべて撥ね退けられる人物。それに該当するのは、ヘクトルをおいて他にいなかった。
「……申し訳ありません、ヘクトル団長」
テレジアは僅かに目を伏せる。
彼女にはわかっていた。あんな話をすれば、ヘクトルが必ず戦地へ向かおうとすることを。それがわかっていて誘導したのだ。
実際、彼女の判断は正しい。この状況下においてヘクトル以上の適役はいないだろう。だがそれは、老兵をたった一人でパリスの待ち受ける戦地へ送り出すも同義。場合によっては、ヘクトルは両国の戦闘に巻き込まれかねない。
『氷血女帝』などとふざけて呼ばれていた彼女は、確かに理智的な合理主義者だった。理にかなっていると判断すれば、どんなことでも実行する。けれどそれは、テレジアに心が無いからではない。心の痛みを堪えられるだけの胆力と覚悟があったからだ。残酷な決定を下す時、彼女の胸の奥はいつだってじくじくと血を流していた。
そしてそれを、ヘクトルは誰よりもよく知っている。
「顔を上げよ、テレジア」
いつになくしおらしくなった元部下に、ヘクトルは力強く声をかける。
「お前が何も言わずとも、私は元よりパリスと直接会うつもりでここへ戻った。何も気にすることはない」
「ですが……」
「なあに、こんな老体でも、喧嘩の仲裁ぐらいはできるさ」
あまり上手くないたとえを持ち出して、ヘクトルは優しく微笑んだ。
『笑顔ほど団長に似合わないものはない』――兵団時代の部下たちはみな口を揃えて言っていた。けれど本当は誰もが、ぎこちないヘクトルの笑顔が好きだったのだ。
「――そうですね……あなたはそういう人だ」
再び顔を上げたテレジアは、いつもの『氷血女帝』に戻っていた。
「それでは団長、こちらをお持ちください」
立ち直るや否や、テレジアの懐から取り出されたのは一通の書状。封蝋にはトゥルヴィア王国の正式な印が使用されている。
「議会から暫定的に発行されたパリスへの召喚要請です。正式な逮捕状はまだですが、とりあえずはこれでパリスの疑義を知らしめることはできるでしょう。ただ、先ほど申し上げたように、開拓地の兵士たちは全員パリスに取り込まれていると考えておくのが妥当です。正式な書状を携えてもまだ、そう簡単に信じさせることはできないでしょう。けれど僅かの混乱を引き起こすだけで構いません。とにかく時間を稼いでください」
先ほどの弱った様子はどこへやら、元気づいたテレジアは普段通り淡々と指示を飛ばす。そしてその最後に付け加えた。
「……それから、私はやはり『無名』を用意して参ります」
だが、ヘクトルはすぐに拒絶する。
「いいや、その必要はない。あれは魔物と戦うためのものだ。人間相手には無用の長物。第一、私は戦いに行くのではない」
こんな時でも変わらない強情ぶり。テレジアの溜め息をよそに、ヘクトルは話を戻す。
「それよりも知りたいのは、パリスの動機だ。……なぜ、奴はこんな強引な手を使ったのだ? 慎重な男なのであろう?」
「それは……私にもわかりかねます。こちら側から攻撃を仕掛けるなど、後々の問題回避のための大義名分を放棄している。これは大きく国益を損ねるばかりか、パリス自身も事態の責任者として議会追放……いえ、国家転覆罪による実刑は免れないでしょう。正直に申し上げて、私には奴の考えがわかりません……」
テレジアは苦々しげに顔を歪めた。
予想外の行動により先手を取られたせいもあるが、何よりその一手の意味が未だ腑に落ちていないのだ。
その一方で、ヘクトルの切り替えは早かった。
「そうか……だとしたら、目的が別にあったのだろう。それだけのことだ」
あれこれ考えるよりも、まずは眼前の問題に注力する。ヘクトル生来の気質である。ただ、もう一つの要因として、ヘクトルには最初からパリスという人間が見えていなかった。
変幻自在の霞のような男。たとえるならば、どんな役でも演じることができる舞台役者――それが、ヘクトルが唯一パリスに対して抱く印象だ。故に、今回の行動は不可解ではあるものの、そのわからない不気味さを受け入れることができたのだ。
「そうですね……団長の言う通り、私はパリスを読み違えたのかも知れません。だが、本物の彼がどんな人物であったとしても、この戦争を見過ごすわけにはいかない。――団長、どうかお願いします。みなの命を救ってください」
テレジアは縋るように懇願する。
その姿が数日前に見たエピウのそれと重なって、ヘクトルは固く唇を引き結んだ。
「馬の用意はできているな?」
「当然です。団長のカサントスほどではありませんが、良い馬ですよ」
「そうか……では、行くとしよう」
そうしてヘクトルは歩を向けた。再びあの魔王領へと。




