決裂
「――会議中失礼。エギルセンです。……オデュッセウス議長、火急の用件でお話が」
荘厳な扉をノックして待つこと数十秒。「入ってくだされ」という老人の声が返って来た。
ドアを開けると、中では六、七人の文官と共に、丸眼鏡をかけた小柄な老人が円卓を囲んでいる。――彼こそが魔術国家ミュケネスを束ねる議長・オデュッセウス=イザークだ。
老人と共に卓についているのは全員ミュケネスの高官らしく、ヘクトルの方へ揃って訝しげな眼を向けている。その中で唯一違う反応を見せたのは、奥に座っていた女性だった。
「ヘクトル……団長……!?」
立ち上がった女性は、まだ少女と呼べるほどに若い。利発そうな蒼い瞳と花も恥じらう美貌を兼ね備えた少女は、まるで童話に出てくる姫君のよう。
エピウ=トロイオン――最年少にして最強の魔導師と名高い、かつてのヘクトルの腹心である。……ただ、美しく整った少女の頬には深い疲労の影が差していた。
「なるほど……これは確かに火急ですな」
ヘクトルの顔を見るなり、落ち着いた声で呟くオデュッセウス。そしてすぐさま他の面々に尋ねた。
「みな、すまぬが外してくれますかな?」
怪訝な顔こそすれ、全員が言われた通り円卓を立つ。よほどの信頼を受けているのだろう。ガルシアやエギルセンも含め、その場にいた全員が部屋を離れるまで誰一人として口を開かなかった。
「――さて、これで気兼ねなく話せますな。……遠路はるばるよう参られた、ヘクトル殿。顔を合わせるのは戦勝パーティ以来ですな。不作法なもてなしを許してくだされ」
挨拶しながらも、オデュッセウスは優しく手錠を外す。
「いえ、非はすべてこちらにあります。お許しください」
手が自由になるや否や、ヘクトルは深々と頭を下げた。……けれど本題に入るその前に、オデュッセウスがもう一度声を上げた。
「外していただくようお願いしたはずだが? ……エピウ殿?」
会議室の扉近くでは、未だにもたついているエピウの姿。というよりも、少女は退室を拒んでいるらしい。
「オデュッセウス議長! どうか、私も同席させてください!」
エピウは居直って懇願するが、議長の答えは頑なだった。
「はて、困りますな。あなたは無理なわがままを言わない方だと思っていたのですが?」
「お願いします! どのような案件かは予想がつきます! 是非、私も一緒に……!」
なおも縋りつくエピウは、それから少し含みを持たせた口調で言った。
「……それに……私には……‘当事者’として聞く権利が」
巧妙に隠されてはいるが、少女の言葉に籠められているのは微かな脅迫。そしてそれは、正確にオデュッセウスへ伝わったらしい。
数秒の奇妙な沈黙の後、ついにオデュッセウスが折れた。
「……いいでしょう。エピウ魔術騎士団長、同席を許可します」
「あ、ありがとうございます!」
そうして今度こそ場が整ったところで、オデュッセウスは本題へ移った。
「して、何用ですかな? 前置きも遠慮も不要ですぞ。要点だけをお願い致します」
一国の首長に対しアポイントメントもなくおしかけた無礼を咎めようとはしない。その配慮に応えて、ヘクトルは単刀直入に切り出した。
「トゥルヴィアとミュケネスによる魔王領開拓地問題についてです」
八割がた予想はついていたのだろう。オデュッセウスはさして驚きもせずに頷く。だからヘクトルも、背景などを端折ってこれまで知り得た限りの話を始めた。
トゥルヴィアの現状。パリスの台頭。開拓地での仕組まれた争い。そして、これらの先に待っている戦争について。
自国の内情を洗いざらい打ち明けるなど、売国と罵られても文句は言えない行為。それでもヘクトルは、世界のために話をする。きっと平和を願う心が、眼前のオデュッセウスにも伝わると信じていたのだ。……聞き終えた後で老人が発した、意外な一言を耳にするまでは。
「なるほど、内容は理解しました。――それで、我々にその話をして何をさせようと?」
「な、何を……?」
一瞬、ヘクトルは言葉に詰まる。
彼が兵団時代から知るオデュッセウスという人物は、聡明で決断力に満ちた賢者だ。どんな難題が立ちはだかろうと、たちどころに妙案を生み出す彼の頭脳には何度も助けられた。
そんなオデュッセウスがこの件に関してはあまりに無関心すぎる。話がきちんと聞こえていなかったのではないかとさえ考えてしまうほどだ。
「で、ですから、戦争を狙うパリスの策略にはまらないよう警告を……」
「そのために、具体的に我々はどうしたらよいのですかな? もしや、あらゆる揉め事においてトゥルヴィア側に譲歩せよ、とでも?」
「違います! 挑発行為に乗らないよう注意をすれば――」
「その‘挑発行為’の中に、我が国の利権を脅かすものが多分に含まれているとしても、ですかな?」
オデュッセウスの眼が険しく光る。そこでようやく、ヘクトルは理解した。自分が話したことなど、彼はすべて知っていたのだ。
「意図的に火種を作ろうとしている動きには、我々とて気づいております。だがそれらの挑発は常に、開拓における優先権の主張や土地への侵犯という形で実行されている。争いを避けたいがために譲るばかりでは、こちらの利権が削られていく一方なのですよ。……無論、我々とて単なる感情で国を動かそうとはしておりませぬ。無益な争いを望まぬのは、私とて同じこと。……ただ、あなたの言うそれは強国側の理屈なのです」
そう言われてはもう返す言葉などなかった。
「ヘクトル殿、あなたはあまりに実直すぎる。それはあのパリス殿を相手にするには致命的なのです。……率直に言って、彼は危険だ。彼にとってはあなたの行動を予見することぐらいわけはないでしょう。もしかすると、今この状況がそうなのやも知れない」
「どういう意味ですか……?!」
「力で脅し、譲歩を迫る。――交渉における基本ですな。戦力を消耗せず利権を勝ち取ることができれば、それ以上の戦果がありましょうか? 我々に顔が利くあなたは、図らずも今、その交渉役を担っていると見ることもできる」
「そんな、そんなはずは……」
ない、と言おうとして、ヘクトルは口をつぐんだ。事実としてそうなっている現状がすべてなのだ。
「議長! 少し言い過ぎではありませんか!? ヘクトル様は、ただ私たちのことを案じて……」
黙してしまったヘクトルの横で、エピウが咄嗟に擁護する。が、オデュッセウスは冷徹にそれを遮った。
「エピウ殿、同席は許可したが発言を許した覚えはありませんぞ。自重していただきたい。これは高度に政治的な問題なのです」
「ですが!」
「……よい、エピウ」
なおも食い下がろうとする少女をヘクトルが遮る。エピウの立場を悪くしたくはなかったのだ。
制止を受けたエピウが押し黙った後、オデュッセウスは何事もなかったかのように続けた。
「よいですかな、ヘクトル殿。もはや魔王は死に、兵団は解体された。今は時代が違うのです。人々が共闘していた時代は、もう終わったですよ。……辺境にいたあなたにはわからないでしょう。ミュケネスがどれだけの苦境に立たされているか。小国であるのはもちろん、かの『九七団長事件』が未だ尾を引いております。我が国きっての魔術大家であったトロイオン家出身の団長が引き起こしたあの事件以来、我が国の名誉と信頼は地に堕ちました。もしここで魔王領の開発競争から手を引いたら、衰退以外の道はありませぬ。余力のある大国とは状況が違うのです」
『九七団長事件』での辛酸はヘクトルも良く知っている。多くの人生を狂わせたあの凶事の余波が、ここにも押し寄せてきていたのだ。
「しかし、信頼はきっと取り戻せます! ここに座るエピウこそ、その生き証人ではないですか!トロイオンの一族に生まれ、迫害されながらも、自らの手で己の居場所を掴み取った! それにあなた自身も同じではないですか! 兵団の支援者として長きに渡り人々を支えてくださった! あなたの導くミュケネスならば、きっと……!」
だがそんな励ましにも、オデュッセウスは疲れたように首を振るだけだった。
「……兵団に協力していたのは、それがミュケネス国民にとって最善だったからにすぎませぬ。しかしもう状況が変わった。魔王の影が失せた今、各国が戦うべき相手は他国になったのです。『ミュケネスは発言力が低いままの方が都合がいい』……そう思っているのはトゥルヴィアだけではありませぬ。他の九国へは散々開拓地紛争の仲裁役を頼みに回りました。けれど、どこも首を縦には振ってくれなんだ。我が身に火の粉がかからぬよう、トゥルヴィアの横暴は見て見ぬ振り。ミュケネスの開拓地をトゥルヴィアへ差し出す形で足並みを揃えているようですな」
「まさか、そのような……信じられません……」
「私とてできることなら嘘だと思いたかった。……だが、私は他国を責めるためにこの話をしたのではありませんぞ。大国トゥルヴィアと揉めたくないのはどこの国も同じこと。もし私が他国の立場だったなら、きっと同じことをするでしょう。つまるところ私が言いたいのは、国とは本質的にそういう生き物なのだということですな」
ヘクトルはその事実に顔を歪める。
国家という存在が他者を犠牲にせずして生きられないのなら、それはあまりに悲しすぎるではないか。
「フム……そのお顔はまだ納得しておられぬようですな。いやはや、表情に出るのは変わりませぬな。……ならば問いましょう。あなたは現在、魔王の死骸がどうなっているか知っておられますかな?」
唐突に課された意図の知れぬ質問。
ヘクトルは戸惑いながらも答える。
「魔王の死骸ならば……ここから西方の不毛地帯、山脈の中腹で封印されています。万一死骸から発生している瘴気が漏れ出せば、人体に有害なばかりかまた魔物が生まれるかも知れません。各国の魔術師で構成された特務部隊が厳重に管理しております」
死してなお魔王の死骸が有する魔力は膨大無比。既存の魔法では完全に処分することが不可能だったために、苦肉の策として封印がなされた。その指揮を執ったのが解体間近であった兵団なのだから、知っていて当然だ。
「流石は元兵団長ですな。……ならば、もう一つ。その特務部隊の八割が、現在ミュケネスの魔術師で構成されているということは、知っていましたか?」
「そんな馬鹿な話が!」
問われた途端、ヘクトルは無意識に立ち上がっていた。
「封印術の維持はそう簡単なものではない! 一国に任せれば負担が大きすぎる! だからこそ、持ち回りで管理するよう決定したはずです!」
「兵団統括時代の暫定的決定ではそうでしたな。……しかし兵団解体後、各国での会談の中で徐々に変わって行ったのです。戦中における大罪の負債は戦後に償えという理屈らしい。無論、反対はしましたぞ。だが両隣を大国に挟まれ、大した産業もなく魔術師のみで支えられてきたこの小国に何ができようか? ……おわかりかな? これが我々の置かれている現状なのです」
「一国に負担させるなど、断じてあってはならぬ……まさかそんなことになっていようとは……これは私の不手際だ……」
「顔を上げてくだされ、ヘクトル殿。あなたを責めているわけではない。私とてパリス殿のやり方はよく理解しております。本来であれば重用すべき経験豊富な兵団出身者を、ことごとく政から隔離していたのですから。国政に関われぬ立場にあった以上、私はあなたに責任があるとは思っておりませぬぞ」
オデュッセウスは優しく励ますような言葉を口にする。だが、そこにはまだ続きがあった。
「ただし……といってはなんですがの、私はあなたに責任を求めない代わりに、口出しも認めませぬぞ。あなたはもう、国政とは関係のない部外者。これはミュケネスとトゥルヴィアの問題なのだ」
オデュッセウスは突き放すように断言する。
老人の言葉はヘクトルの胸に深々と突き刺さった。なぜならヘクトル自身が、そのことを痛感しているところだったから。
だがそれでも、ヘクトルは言い返さずにはいられなかった。
「……国の問題、なのでしょうか? 私にはわかりかねます。‘国’に実態はない。人が勝手に地図を区切っただけのものだ。『ミュケネス』も『トゥルヴィア』も、結局はつけられた名前が違うだけ。ならばこれは‘国’の問題などではなく、現実に生きる‘民’の問題なのではないですか?」
大胆にも一国の長に対して問うヘクトル。穴だらけの理屈ではあるが、オデュッセウスは頭から否定しようとはしなかった。
「人民あっての国、と。そうですな、確かにその通りでしょう。……だが、その人民の生活を保障するために国家が必要なのです。ヘクトル殿、あなたはとても強い方だ。幾万の死線をくぐり抜けて来た天賦の戦士。今もこうして、単身で敵国の中央に乗り込むほどに。
けれど、それ故にあなたには理解できないのだ……人間の弱さというものが。誰しもがあなたやあなたの部下たちのように強いわけではない。そんな彼らの日常を守るためには、盾となる国家が必要なのです。か弱き彼らは、ここで生まれてここで死ぬ。一生をこの地に根を張って過ごすのです。
あなたにとってそれは不自由に見えるやも知れませぬ。だが、力なき人間には足場が必要なのだ。たとえ一人でも、このミュケネスを故郷と思うものがいる限り、それを全力で守るのが我々の役目。……かつて、兵団が人類の盾となったように、我々もまた国民を守る盾であらねばならぬのです」
ヘクトルとは考え方そのものが根本から違う。ただ、民のことを思う部分では通底していると、ヘクトルは勝手に思っていた。そしてだからこそ、不可解でもあったのだ。
「……その結果として、本当に戦争になってもですか? トゥルヴィアは大国です。パリス指揮の元、開拓地では戦争の準備が進められている。脅しではなく、これは客観的事実。もしも、もしも戦えば――」
「――我々の敗戦は必至、ですかな。そうですな、確かに現状は絶望的だ」
オデュッセウスはヘクトルが言い淀んだ言葉の続きを引き取る。しかしその先で口にしたのは、にわかには信じられないような台詞だった。
「……しかし、ことによると神の救いがあるかも知れませぬ。追い詰められた人類に勇者様が現れたのと同じように」
「な、それは……本気でおっしゃって……?!」
投げ遣りとも思えるその言葉。聡明な議長らしからぬ無責任な態度に、ヘクトルは思わず拳を握りしめていた。
「あなたほどの方が、なんと他力本願な物言いか! よもや、自国の領民の命を神に委ねるなどと! 国家の長たる者の言葉ではありまぬ!」
「ほほほ、まったく……その通りですな」
激昂するヘクトルを前にして、オデュッセウスはただ微笑むばかり。それを見た瞬間、ヘクトルは完全に諦めた。
「……どうあっても、戦争を避けるおつもりはないようですね……」
オデュッセウスは何も答えない。
「……議長、私はあなたのことを大切な盟友だと思っております。前線か後方かの違いはあれど、共に魔王と戦った真の戦友だと。……私にだけは、本心を教えてはいただけませぬか?」
悲哀を通り越して憔悴の色を浮かべるヘクトルは、いつになく年老いて見える。そんな老兵を目の当たりにして、オデュッセウスはようやく口を開いた。
「……今もなお、そう思ってくださるのか。いや、そうでしょうな。あなたはそういう御人だ。だが、だからこそ、あなたはこんな醜い戦争に関わるべきではないのだ」
「どういう意味なのですか?! あなたの言わんとすることがわかりかねます! オデュッセウス殿、きちんと聞かせてください!」
オデュッセウスの老いた頬に浮かぶのは、ヘクトルが未だかつて見たことのない表情だった。
それが敗北するとわかっている戦いへ赴く人間の顔なのか、それとももっと別の何かなのかは、今のヘクトルには到底判断がつかないのであった。
「もう一度言います、ヘクトル殿。時代が変わった。もはや魔王も勇者もいないのですよ。英雄の時代は終わったのです。――さあ、どうぞお引き取りを」
ヘクトルは何か言いかけてから口をつぐんだ。もう二度と本心を聞かせてくれることはないだろう。
「……本日はお話できてよかった。失礼いたします」
ヘクトルは静かに席を立つ。
その傍らで蒼白な顔色をしたエピウも立ち上がった。言いつけに従いずっと黙してはいたが、彼女にも何か感ずるものがあったようだ。
「議長、私がお見送りをいたします」
「エピウ殿、勝手な真似は……」
と言いかけて、オデュッセウスは首を振った。
「……出口まで、ですぞ」
「ありがとうございます!」
そうして元部下の少女に伴われ退室する間際、ヘクトルは肩越しにオデュッセウスへ視線を遣った。
壁の方を向き無言で佇む旧友の背中からは、何の感情も読み取れなかった。
「……ごめんなさい、団長。議長にも悪気があったわけではないんです……」
廊下に出るや否や、エピウは深く頭を下げる。ヘクトルはすぐさまそれを遮った。
「よい。私が浅はかであった。話を聞いていただけただけでも、感謝しなければ」
親子ほども年の離れた二人は、無人の回廊を並んで歩く。
三年ぶりの再会。話したいことは山ほどある。けれど二人はもう、互いの立場が決定的に断絶していることを知ってしまった。だから口を突くのは、他愛もない会話だけ。
「……団長、みなさんは元気ですか? テレジア様やエリオス様、それからチコちゃんも」
「ああ、チコは元気すぎるぐらいだ。他の者も……変わりない」
ヘクトルは嘘をついた。少女のか細い双肩に、これ以上の重石を背負わせるわけにはいかない。
「そうですか、良かったぁ……」
エピウは心底安堵した様子で微笑んだ。思えば、それが三年ぶりに見る少女の笑顔だった。
敵国の人間であれ憂う優しい心根。それは間近に迫った巨大な戦火を前にすれば、儚すぎる灯だ。
「……お前はどうだ、エピウ? 少しやつれたように見えるが……」
「えへへ……忙しいので、少しだけ」
「……お前は昔から根を詰め過ぎる」
ヘクトルにはそれだけしか言えなかった。苦悩する部下を前に、ほんの少しの慰めを与えることも出来ぬ歯がゆさ。どんな恐怖や激痛も乗り越えて来たヘクトルが、この無力感にだけは耐えられなかった。
城門までの曖昧な数分は瞬く間に過ぎ去り、二人はすぐに約束の扉へとたどり着いてしまった。向こう側では、ガルシアら衛兵たちが待機しているだろう。
その扉の手前で、エピウがはたと歩みを止めた。
「……あの、団長……家族は、できましたか?」
口をついて出たのは不思議な質問。だが少女の思いつめたような表情を見て、ヘクトルは疑問を差し挟むことなく答えた。
「いいや、お前も知っての通り、親兄弟はとうに死んでいる。生憎剣の扱い以外知らぬもので、浮いた話もない。……だが、私にはみながいる。この世に住まうすべての者が、私にとっては等しく守るべき家族だ」
虚偽も虚飾もなく、ヘクトルは大真面目に言い切った。
「えへへ、やっぱり変わりませんね、団長は」
微笑むエピウの頬には、どこか暗い影が差している。
「……ですが、団長。私にはこの国に家族がいます。母と、父と、二人の妹。下の妹は、最近魔術学校に通い始めたばかりです。……私は、この国が大好きなんです」
「……辛い思い出があっても、か?」
エピウ=トロイオン――普段はおくびにも出さないが、彼女もまた忌み嫌われる‘トロイオン’の血を引く者。民衆の狂気じみたトロイオン一族への反感は、『九七団長事件』の頃にはまだ生まれてさえいなかった少女の身にも降りかかったのだ。
「そうですね……あの事件のせいで、辛い思いをしたこともあります。でも、それは仕方のないことだと思いますし、何より私には支えてくれる家族がいましたから」
少女の苦闘がどれほどのものだったのか、ヘクトルは良く知っている。
ミュケネス一の魔術の大家から、一転して不名誉の象徴への没落。事件当時、トロイオン姓を持つ家は末端の末端まで調べられ、多くの者が迫害された。戸籍上の遠縁にあたるエピウの家系もその一つだ。トロイオン一族の中には、名前を変え、消息を絶ち、他国へ逃げ出した者も少なくはないという。それでも少女の家はじっとミュケネスで耐え忍んでいたのである。
「だから……私にとって、家族がいるこの国が一番大切なんです。私は団長のようにすべてを等しく愛することはできない。すべてを守ることはできないんです。団長みたいに強くないから……弱い私は、何かを捨ててでも選ばなきゃいけないから……」
少女の声は一言ごとに萎んでいく。明らかに様子がおかしい。顔色は蒼白、瞳には涙がたまり、体の震えが抑えられていない。まるで魔物を前にした新兵のように、エピウはただ怯えていた。
「……だから、団長。どうか……どうか、私たちを……私を責めないで――」
「エピウ、一体――」
「――助けて……ヘクトル団長」
少女の壊れかけの瞳が、万感の祈りを以て哀願していた。
ヘクトルは震える少女の肩へ手を伸ばす。だが、触れることは叶わなかった。折悪く扉が開き、ガルシア含む武装した兵士たちが現れたのだ。どうやら二人の話し声に気付いてやってきたらしい。
その瞬間、エピウは踵を返して駆け出す。ヘクトルの胸に痛みだけを残して――
「……団長、これからどうするおつもりで?」
市外まで連行される最中、ガルシアが小声で尋ねた。
ヘクトルは少しの黙考の後、答えを口にする。
その脳裏にはまだ、少女の悲壮な表情がこびりついていた。
「……私は、いかに自分が無力かを痛感した。やはり私は剣を振る以外能のない男だ。――だからこそ、私は私のやり方でこの悲劇を止めなくては」




