ミュケネスへ
「……私はミュケネスへ向かおう」
「――おとなしく……は? 今、なんと?」
突然の宣言に、テレジアは束の間硬直する。無理もない。ヘクトルの言葉は、どう考えてもこの状況で出てくるはずのないものだったのだから。
だが、当のヘクトル自身はなんてことなさそうにもう一度繰り返すだけだった。
「私はミュケネスへ向かう。議会を荒らすのであれば、お前の証言と目録だけで十分であろう」
テレジアの顔に浮かぶ唖然の表情。呆れて声もでないとばかりに口をぱくぱくさせた後、烈火の如く怒り始めた。
「何を言っているのですか!? 我々の告発に対してパリス側は当然、あなたが国を裏切り野盗についたと証言するはずです! 事実、パリスの私兵に対しあなたは攻撃を仕掛けた! 国命に背いて反逆したことになる! その時あなたが議論の場にいなければ、『逃げた』と判断されるのは必然でしょう! それではパリス側の虚言に説得力を与えてしまう!」
「そのあたりはお前に任せよう。大丈夫だ。お前ならば必ずや上手くやりとげるさ」
ヘクトルは無責任にも無理難題を押し付ける。
「これはエリオスが言っていたことだが……開拓地にてミュケネスとの火種を作る理由は戦争のための名分作り。だとすれば、向こうから攻撃されない限りはこちらからは手を出さないということでもある。……違うか?」
「ええ、それはその通りです。単なる侵略戦争では、後々トゥルヴィアにとってもパリスにとっても不利益を被る結果になるのは明白。だから先に手を出させることで『防衛戦争』という名目を欲しているのです」
テレジアはすらすら答えた後で問い返す。
「……それが一体なぜ、ミュケネス行きにつながるのですか?」
「簡単な話だ。私が直接ミュケネスにパリスの思惑を伝える。こちらの挑発に乗らないよう注意を促してしまえば、パリスらとて戦争の口実を失うだろう。これならば、我々がパリスを失墜させることに失敗しても戦争は起こらない」
まるで当然だろうとばかりに言うが、テレジアはぶんぶんと首を振った。
「一体何が『簡単な話』なのですか!? 戦争を抜きにしても、トゥルヴィアとミュケネスは開拓地を奪い合う競争相手! あなたの行動は一般市民から見ても売国行為として映ります! そうでなくとも、パリス側にどんな風評を流されるかわからないというのに! ……第一、ミュケネスが簡単にあなたを受け入れると思っているのですか? 敵国最強の兵士を、わざわざ自分の懐に? あなたの名誉が地に堕ちるどころか、最悪の場合、両国から命を狙われるようなことにもなりかねませんよ! 確かに『命を賭けろ』と申し上げたのは私ですが、『命を捨てろ』と言った覚えはありません!」
テレジアは怒涛の如く捲し立てる。が、ヘクトルは頑として動かなかった。
「それでも構わぬ。戦争を止めることができるのならば安いものだ。大丈夫、ミュケネスのオデュッセウス議長は話のわかる御仁。兵団時代からの付き合いも長い。エピウだっているのだ。お前の恐れているようなことにはならんさ。……何より、今、最も苦しんでいるのはこのトゥルヴィアではない。大国の脅威に怯えるミュケネスの方だ。もしもこの老体を慕う者が少しでもいるのならば、私はか弱き者の力になりたい」
勝手なことを言って譲らないヘクトルの態度が、だいぶ頭に来たのだろう、
「チッ……この石頭」
と、テレジアは正面から悪口をぶつける。
「はっきり言っておきますよ。人と人との関係というのは立場によって変わるものです。あなたは今やトゥルヴィアの人間。そしてオデュッセウス議長やエピウはミュケネスの人間です。昔と同じように話せるとは思わないでください」
「ああ、それは重々わかって――」
「嘘です。あなたはわかっていません」
間髪入れずに断言され、ヘクトルは困り顔で頭を掻く。
「ですが……まあ、私はわかりました。ええ、いつものことです。結局は私が折れるしかないのでしょう? ふんっ、男というのは、どいつもこいつも……」
意識してか無意識か、テレジアの手は鞭の辺りを彷徨っている。
けれどどうにか怒気を鎮めた結果、テレジアは平静に最後の警告をした。
「先ほど私が申し上げたこと、きちんと肝に銘じてください。昔とは時代が違うのです。あなたはそう思わなくても。……いいですね? くれぐれも、心してください」
「相、わかった」
ヘクトルが確かに頷くのを見てから、テレジアは踵を返す。
その背中に、ヘクトルはふと問いかけた。
「――テレジア。お前も……魔王を倒したかったか?」
「……平和であればそれでいい……というのは、やはり建前ですね」
ゆっくりと振り返ったテレジアは、逆に尋ねる。
「団長、最初に剣をとった時のことを覚えておいでですか?」
「……もう忘れたよ」
答える前の僅かな間。元兵団員なら皆知っている。この朴訥な老人が嘘をつく時の癖だ。けれどテレジアはあえて騙されたふりをした。
「そうですか……私は覚えていますよ。人々を守るために戦いたい。私は最初にそう願いました。けれど、それは先ほどの言葉と同じ……建前です。その先にもう一つの夢がありました。できれば、できることならば……この手で魔王を討ちとり、英雄になりたい、と」
ヘクトルは内心微かな驚きを見せる。
それは、この現実主義者な部下の口から初めて聞く夢だった。
「兵団に入ってからも、それは変わりませんでした。けれど、同時に現実も思い知りました。無尽蔵に湧き出る魔物、腕の中で死んでいく仲間、そして、やっとの思いで強さを手に入れた先に待ち受けていた、圧倒的な魔王の力。あれには決して敵わない。本能で感じました。きっとあの自信過剰なエリオスでさえ……いえ、他のすべての兵たちもそうだったと思います。英雄を夢見て剣を取り、魔王の前で膝を屈する……皆、たどった道は同じだったでしょう」
テレジアは確信を持ってそう告げる。それから、真っ直ぐにヘクトルを見つめた。
「だけど……あなたは違う。あなたの眼だけは、一度たりとも曇ってはいなかった。私たちが失ってしまった英雄への夢を、いつまでも持ち続けていた。だからあなたは、老いてなお誰よりも強い。あなたの剣ならばきっと、あの魔王へも届いたはずです。誰が否定しようとも、一番側にいた我々だけはわかっています」
「……買いかぶりだ。決してそんなことは――」
ヘクトルはすぐさま否定しようとする。だが、テレジアはそれを遮った。
「言わないで、団長。あなたは兵団全員の夢なんです。身勝手な願いだとはわかっていました。けれど……私も、エリオスも、そしてすべての兵士たちも――あなたが魔王を討つその背中が見たかったんですよ」
期待、信頼、夢。
かつては自分も口にしていた言葉。しかし、老いたヘクトルの肩にはただただ重くて――知らず知らずのうちに目を逸らしていた。
「……兵団の任務は魔王の討伐。誰が討つかなど関係ないはずだ。我々の悲願が果たされ、人の世に平和が訪れた。団長として、私は何も言うことなどない」
「はあ、どうやら勘違いしているようですね。私たちはあなたが団長だからついていったわけではありませんよ」
その台詞を聞くのは今日で二度目だ。
「……同じことを、エリオスからも言われた」
「でしょうね」
テレジアはぴしゃりと頷く。
「まあ、これは私たちが勝手に思っていたことです。第一、あなたの言う通りこれはもう終わったことですしね。この話はこれっきりにしておきましょう。……それでは、私は戻ります。くれぐれもお気をつけて」
それだけ言うと、テレジアは踵を返す。そして、今度こそ振り返らずに去って行った。
取り残されたヘクトルはしばらくの間じっと佇んでいた。それから、木の根元に寝かせておいたチコの元へ向かうと、気絶……というより寝こけている少女の肩を揺り起こす。
「んあ……ぁんですかあ……あれえ? ヘクトル団長だあ……」
「チコ、怪我はないか?」
「けが……? ふわぁ……何の話ですかぁ?」
と、チコは呑気に大あくび。きっと気絶させられたこと自体気づいていないのだろう。
「そうか……いや、大した話ではないさ」
ヘクトルは安堵に頬を緩ます。それから少しのためらいの後、急に真面目な顔になって告げた。
「……チコよ、お前に命じる」
唐突な宣言に眼をぱちくりさせるチコ。そんな従者へ、ヘクトルは何事か命令を囁いた。
説明するヘクトルの顔は真剣そのもの。よほど重要な指令と見える。だが、下された指示に対してチコは……
「え~、嫌ですけど?」
と、普通に断った。
「ムウ……」
困り果てたヘクトルだが、ふと妙案を思いついたらしい。懐をごそごそと探り始める。そして取り出されたのは、盾の紋章が刺繍された旗――兵団の象徴だ。先ほどエリオスが落としていったものである。
「チコよ、お前にこれを預ける。見事任務を遂行した暁には、一人前の従者として認めよう」
「一人前……!」
「ああ。それから、任務にはカサントスを連れて行くといい」
「カサントスちゃんと……!」
「大事な任務であるからな、旅費は好きなだけ使ってもよろしい」
「お金使い放題……!」
次々と提示される豪華な特典。心の天秤が揺れ通しのチコは、更に尋ねる。
「団長! 質問です! 一人前になったらお給料は増えますかっ?」
「……そうだな、善処しよう」
その一押しで腹は決まったらしい。
チコは似合わぬ敬礼をすると、にへへ、と笑った。
「チコ=フワンパフ――この命に代えても! ……ですっ!」
そうして愛馬と共に駆けていく少女を見送った後、ヘクトルは独り踵を返す。
その視線の向く先は西方――魔術師の国・ミュケネス共和国だった。




