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カーテンコールのその後に  作者: 紺野千昭
第二幕 ――咎人の嘆き――
10/22

交渉

――――……

――……


「――ああ、ご無事でしたかヘクトル殿。いやあ、お疲れ様でした。もしやお怪我でもなさって動けないのかと心配していたのですが……杞憂きゆうでございましたね。拘束した賊は既に護送を始めました。ささ、我々も参りましょう」


 現れたセルマは、いつもの微笑を浮かべたまま促した。

 エリオスの出頭後、いつまで経っても帰って来ないヘクトルを案じ、一人で砦まで迎えに来たのだ。


「…………」


 けれどヘクトルは答えない。かつての右腕だった男が最後に放った言葉。それがまだ、耳の奥で渦を巻いていた。


「ヘクトル殿? いかがなさいました? もしや、どこかしら負傷でも……」

「……いえ、心配には及びません。参りましょうか」


 そうしてヘクトルは、後ろからついてくるセルマを伴って歩き出す。


「いやー、しかし天晴あっぱれなお手前でございます。あの逆賊エリオスめをこうもあっさりと。出来ることならば、是非とも近くで拝見したかった。娘への良い土産話になったでしょうに」

「身内の恥です。見せるようなものではありません」

「なるほどなるほど、流石はヘクトル殿。己の武勇におごらぬその姿勢、是非とも見習わせていただきたいものですね」


 通路を闊歩かっぽしながら、中身のない言葉を垂れ流すセルマ。


 だがそんな無意味な会話に紛れて、セルマの右手が奇妙な動きを見せた。――何の前触れもなく、袖口からするりと小さなナイフが滑り出たのだ。


「あなたのような方が我が国にいるというのは、いやーまったく心強い限りで――」


 なおもくだらない話を続ける一方で、セルマは徐々にヘクトルとの間合いを詰めていく。


 まるで口と体が別々に動いているかと錯覚させるほどに、セルマの口調にはよどみがない。巧みな話術で油断させ、音も気配もなく命を刈る――鍛え抜かれた暗殺の技術だ。


 そして必殺の間合いに入った瞬間、セルマは老兵の首筋目掛けてナイフを振るう。


 が――


「なっ――!?」


 その手首を、ヘクトルは背面のままで掴み止めた。


「チッ、こいつ――!?」


 咄嗟に距離をとろうとするセルマ。しかし、ヘクトルの指は拘束具のようにその手首を締め付けて離さない。


 そしてヘクトルは、ほんの少し力を籠めて手首を返す。たったそれだけの動作で、セルマは大きく一回転して固い地面に叩きつけられた。


 沈黙したセルマに一瞥いちべつもくれることなく、ヘクトルは砦を抜ける。その先に待っていたのは、砦を包囲していた憲兵隊。放たれる幾重もの殺気は出迎えのものではない。


「……意外だな。セルマは失敗したか。魔物相手しか知らぬ力馬鹿の貴様に、暗殺術の対処は無理だと思っていたのだが」

「暗殺術、か……殺しに大層な名前を付けているようでは無理だろうな。我々が戦ってきた魔物にとって、殺しとは生きることと同義だった。闇に殺すにしては、貴様らの技術はうるさすぎる」

「これは御高説いたみいる。暗殺はお気に召さない、と。……ならば、こういう趣向はどうだ?」


 不敵に笑った憲兵隊長は、背後の部下に合図を送る。それに応じて運ばれて来たのは、ぐったりと気を失った一人の少女――チコだ。


「安心しろ。眠っているだけだ」


 昏睡したチコの首筋にナイフをあてがいながら、憲兵隊長はしれっと言ってのける。


「……ただし、お前の行動いかんによっては、眼を醒ますことはなくなるがな」


 絶対的優位に裏打ちされた余裕の微笑み。

 誰よりも責任感が強く、部下を重んじるヘクトルならば、これでどうじぬはずがない。


 だがそんな思惑を裏切って、ヘクトルは堂々と近づいてくる。憲兵隊長は内心の微かな動揺を覆い隠し、もう一度警告した。


「じょ、状況がわかっていないようだな! 足を止めろ、ヘクトル=アーバンカイン! さもなくば……小娘の安全は保障しない!」


 それでもヘクトルの足は止まらない。無言のまま、ゆっくりと包囲の輪に向けて歩いてくる。


 そして隠しようのない不安が憲兵隊に広がった頃に、ヘクトルはようやく口を開いた。


「……生憎あいにく、私は交渉というものが不得手でな」


 決して大きな声というわけではない。けれどヘクトルの声は、全員の鼓膜をびりびりと震わせる。そこには、どこまでも静かな怒りが込められていた。


「貴様の言うように、魔物しか相手にしてこなかった身。そして残念ながら、奴らと交渉のテーブルに着くことはついぞ叶わなかった。私が奴らの口から聞いたことがあるとしたら……それは断末魔だけだ」

「な、ならばわかりやすく言ってやろう! こいつの命が惜しければ、大人しく投降しろ!」

「なるほど、それが交渉というものか」


 感心したように頷いた後、ヘクトルはぼそりと呟いた。


「……ならばこの際、老人の手習いとして私もやってみようか」

「な、なんだと……?」


 ヘクトルの意図が掴み切れず、憲兵隊長は思わず聞き返す。


 だが返って来た答えは、更なる予想外の言葉だった。


「お前の命が惜しければ、その子をきちんと抱えていることだな」

「は……? な……何を、馬鹿げたことを――?!」


 隊長が狼狽ろうばいしたその隙をついて、ヘクトルが動いた。


 二メートルを越す巨躯からは想像もつかぬ、獅子の如き俊敏さ。誰一人身動きするどころか、眼で追うことすらかなわない。


 ――気づけばヘクトルは、包囲網のど真ん中……すなわち憲兵隊長の眼前に立っていた。


「き、貴様……!?」


 無意識に後ずさった隊長は、束の間、判断に迷う。

 警告を無視した見せしめとして、腕の中の少女を殺すことは容易。だが、人質というカードは使わないことで初めて意味を持つもの。ヘクトルに対する唯一の切り札である少女を失えば、それこそ手が付けられなくなる――


 そんな逡巡しゅんじゅんを見透かしたかのように、ヘクトルは静かに囁いた。


「そうだ。それでいい。チコを傷つけないのならば、私もお前を殺しはしない。だからそうして大事に持っていろ。――その子を貴様の心の臓と思うことだ」


 ヘクトルの眼光にすくめられたその瞬間、憲兵隊長の鼓動が止まった。さながら蛇に睨まれた蛙。絶対強者を前にして、あらゆる機能が停止する。


 無論、彼とて部隊長を任せられるほどの手練れ。種々の戦闘技能は元より、精神の頑強さにおいても常人の追随を許さぬレベルにある。だが、彼がおさめたのはあくまで対人用の技術。ヘクトルと対峙するのならば、対魔物用の技能が必要だったのだ。


 故に、彼は動けなかった。


 ヘクトルが悪鬼の如く暴れる間も、ねじ伏せられた部下たちが逃げ惑う間も、憲兵隊長は少女の首筋にナイフをあてたまま、蝋人形のように固まっていた。


 そしてようやく体が自由になったのは、すべてが沈黙した後のことだった。


「――ご苦労だったな。もうよいぞ」


 少女の体が力づくで奪われる。抱えていた重さがなくなった途端、憲兵隊長の体を縛っていた見えない威圧感がふっと和らいだ。気づけば股倉がじっとり濡れている。


 もちろんそんなことを気にしている余裕もない憲兵隊長は、情けない悲鳴を上げながらなりふり構わず遁走とんそうを始めた。……ただ、彼の受難はまだ終わっていない。


「――あらあら、粗相そそうですか。まあ、恥じることはありませんよ。初めて`魔物’と戦う新兵は、誰でもそうなりますから」


 木々の合間から響く妖艶な声。と同時に、どこからか伸び出した長大な鞭が憲兵隊長の足首を絡め取り、瞬きする暇もなくその体を大地に叩きつけたのだった。


「……もう少し早く出てきてもよかったのではないか――テレジア」

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