おつとめの後で2
「はいとくてき……」
徐々にファルトの言葉の意味が脳に染みこんできて、耳に集まっていた熱が瞬時に顔全体にまで移っていく。
はいとくてき。
背徳的。
ファルトの言う「いけないこと」とは、つまりそういうこと。
彼の言わんとすることを察したアリアは、聖堂の鐘を鳴らす槌で頭を殴られたかのような衝撃を受けて裏返った声を上げた。
「ファ、ファルト様!?」
「こうして俺に触れられるのは、嫌?」
くすくすと笑われ、アリアはうぐっと品のない声を上げてしまう。
昨日、ファルトの一人称は「私」だったはず。いきなりフランクに「俺」なんて言われ、しかも敬語を取り払った親近感溢れる言葉遣いで囁かれ、脳みそが溶けてしまいそうだ。
「い、嫌ではございませんっ」
「そう? ……でも、体がちょっとだけ硬いかなぁ」
そう囁きながら、ファルトの手のひらがアリアの後頭部を撫でる。
腰とか腕とか、そういう場所を撫でられているわけでもない。修道服のフード越しなので彼の指が直に触れているわけでもないのに、ぞくっと未知の痺れが体中を駆けめぐってしまった。
「ほ、本当です! ただ……」
「ただ?」
「……廊下の真ん中は、恥ずかしいです……」
蚊の鳴くような声で、そう訴えた。
ファルトとの婚約は大聖堂の者たちも周知の事実であり、女神にも報告している。だからこういったやり取りは神の教えに反しているわけではないし、彼とスキンシップを取るのも嫌ではない。
(ただ、私にはハードルが高すぎる……!)
初心者には、彼の手慣れたスキンシップは強烈すぎる。ましてや、使用人たちも通る廊下の真ん中である。今も、侍女たちが無言で脇を通っていた。訓練された使用人たちがジロジロ見てきたりしないだけよかったが、恥ずかしいことには変わりない。
ファルトはアリアの言葉に目を瞬かせた。アリアの言葉が意外だったのか数秒間言葉を失っていたようだが、くすっと笑って腕を離してくれる。
「そうでしたね……失礼しました」
「い、いえ……」
「確かに、早朝とはいえ誰が通るか分からない場所でのふれあいはよろしくないですね」
ファルトが納得してくれたようで、アリアは安心してうんうん頷く。
「俺だけの清らかなシスターが恥じらう姿を皆に見せるのは、俺も納得いきません。次からは、誰もいない場所で二人っきり、ゆっくり愛を囁き合いましょうね」
……なんだか微妙に違う気もするし、とんでもないことを約束された気もするが。
「はい」とも「嫌です」とも言えず固まったアリアを見、ファルトはにっこりと笑うと彼女のアッシュグレーの髪を一房手に取り、静かに口づけた。
「朝の時間を邪魔してすみませんでした。また、後で」
「……は、はい」
硬直するアリアにウインクを飛ばし、ファルトは颯爽と歩み去っていく。
彼が廊下の角を曲がって姿を消すと、アリアはへたへたとその場に座り込んでしまった、
「まあ、アリア様!」
「大丈夫ですか!?」
すぐさま、侍女たちが飛んできてアリアの体を支えてくれた。二人とも昨夜ジャンヌの部屋で見た覚えがある。ファルトに絡まれるアリアをじっと見守っていて、彼がいなくなったタイミングで駆けつけてきてくれたのだろう。
「は、はい……ごめんなさい。ちょっと、力が抜けてしまって」
「無理をなさりませんように。……まったく、マクスウェル侯爵はやりすぎですわ」
「アリア様も、お気に掛かることがあれば遠慮なくマクスウェル様に進言なさってくださいね」
「そ、そこまででは……」
「まあ! 気になることや嫌なことがあれば報告するのが当然でしょう!」
「嫌だとお思いならば、我慢なさる必要はないのですよ。アリア様は侯爵の奥方になられるのですからね」
「わたくしたちが申し出てもマクスウェル様はどこ吹く風でしょうが、アリア様のお言葉ならば耳を傾けるはずですよ」
「……そうします」
侍女たちに支えられながら、アリアはふらふらと歩き出した。
(女神様……初心者への試練としては、厳しすぎるのではないでしょうか……)
朝のおつとめ後、部屋に戻ったアリアはサンドラに出迎えられた。彼女は早朝に特訓をした後、おつとめ後のアリアが部屋でくつろげるように準備をしてくれていたのだ。
「おかえりなさいませ……あら、顔が赤いですよ?」
「え?」
サンドラに指摘されたアリアは、慌てて自分の頬に手を当てる。確かに、ほんのりと熱い。
サンドラは何か言おうと口を開いたが、ふと思いついたように一旦口を閉ざした後、ほんの少し険悪な眼差しになった。
「……まさかとは思いますが。廊下でファルト殿と会ったりしましたか?」
「うっ……そ、そうです」
「まあっ! さては朝から、不埒なまねを!?」
「ふ、不埒ってほどじゃないです!」
「では何を!? ま、まさかアリア様が準備した礼拝室に押し入って、女神様の御前で――」
「ないっ! ないから剣をしまって、サンドラ!」
今にもファルトを斬り捨てに行きそうな勢いのサンドラをなだめ、アリアは真っ赤な顔のまま弁解する。
「その……ファルト様は朝の挨拶をなさっただけです!」
「えっ? 本当にそれだけですの?」
「は――」
い、と言いかけたアリアの脳裏に、先ほどファルトに囁かれた言葉が蘇る。
『いけないことをしている気になります』
『背徳的な感じがします』
『ゆっくり愛を囁き合いましょうね』
黙ってしまったアリアの顔を見つめていたサンドラが、徐々に鬼の形相になってゆく。美人の怒り顔ほど怖いものはないと、アリアは思った。
「……本っ当に! 大聖堂で育ったアリア様に対して、なんということをしでかしましたの!」
「うっ……」
「いいですか、アリア様。やっぱり嫌だ、国に帰りたい、など思うことがあればすぐさまわたくしに言うのですよ」
がっしりと肩を掴まれて大まじめな顔で言われるものだから、アリアはぎょっとして目を見開いてしまう。
「サンドラ! まさか、そんなこと……」
「ブランシュ様はこれを心配なさっていたのですよ! ……もちろん、あなたの意見を一番に優先させます。でも、ご自分一人で溜め込むのはだめですよ。不安に思うこと、嫌だと思うことがあればすぐにわたくしにお申し付けください。ジャンヌ様だって協力してくださることでしょうから、一人で抱え込まないこと。……いいですね?」
「……はい」
サンドラの言うことももっともなので、アリアは素直に頷く。
(とはいえ、このまま放っておいたらいつか、ファルト様がサンドラやジャンヌ様にちょん切られそう……)
何を、とまでは言わないが。