おつとめの後で1
角砂糖
ランスレイ王城の朝は、早い。
まだ夜空に星が輝いている時刻には早番の使用人たちが起き出し、日が昇る前までに城内の清掃、朝食の下ごしらえなどを完了させる。だんだんと空が明るみ始め、夜勤の騎士たちが交代の時間を迎え、のそのそと宿舎に向かっていく。
東の海の彼方から朝日が昇り始める頃。
客室のドアがそっと開き、シスターの衣服を纏った娘が出てきた。
黒の修道服に同色の頭巾姿の彼女は後ろ手にドアを閉め、そそっと小走りに廊下を移動する。肩から提げた大きめのバッグは、中身がごつごつしているからか妙な形にふくれあがっていた。
彼女は足音を忍ばせて廊下を歩き、すれ違った侍女からは会釈を受け、廊下の突き当たりにある小部屋にたどり着いた。修道服のポケットから取り出した鍵で解錠し、素早く入室する。
そこは、元々リネン室として設計されていた小部屋だった。奥行きのある長方形の部屋で、大きめの窓から控えめな朝日が差し込んでくる。
窓辺に正方形のテーブルが据えられただけの味気ない小部屋だが、彼女はわくわくとテーブルに歩み寄ると、鞄の中に入っていたものを広げて準備を始めた。
まず取り出したのはは、手編みのマット。正直なところ手芸や裁縫はあまり得意ではないので、あちこち縫い目は飛んでいるし解れた糸が飛び出しているのだが、使用するのには問題ない。出来映えの美しさよりも、丁寧に仕上げることに意味があるのだ。
その上に据えたのは、全長二十センチメートル程度の手製の女神像。礼拝室に据えられていたものをまねて木を彫って作ったのだが、お手本にしたものよりもかなりのっぺりした顔になってしまった。それでも見れば女神像だと分かる程度には完成したため、アリアは普段からこのミニサイズの女神像を聖堂の自室に置いていたのだ。
そして、女神像の前に神具一式を並べる。燭台、聖書、女神への供え物を載せるためのトレイ、花瓶など。形式に則った通りの配置を行うとアリアは満足そうに息をつき、女神像の前で跪いた。
「……女神様。今日も一日、わたくしどもにお恵みをお与えくださいませ」
そうして、昨日の出来事を語る。いつもなら夜のおつとめで一日の報告、朝のおつとめで一日の抱負などを語るのだが、昨晩はばたばたしていたため落ち着いておつとめすることができなかったのだ。
ユイレ大聖堂のシスターは、朝と晩に女神像の前で祈りを捧げる。この習慣は既に身に染みついているので、周りに何も言われない限りランスレイでも続けていくつもりである。昨日のうちにエルバート王子に許可を取って快く了承してもらえただけでなく、「この空き部屋を好きにアレンジしていいよ」とリネン室に使うはずだった空き部屋の使用を許可してくれたのだ。
「昨日は、婚約者のファルト様と見えました。とても見目麗しいお方で、わたくしは緊張してしまってちゃんと受け答えすることができませんでした」
昨日、ファルトから熱烈な歓迎を受けた後。
フリーズ状態が解除されたアリアは、ジャンヌに問うてみたのだ。「ランスレイの男性は皆、王子やファルトのように愛情表現が激しいのか」と。
それに対し、ジャンヌはものすごく微妙そうな顔になった。渋る彼女が最終的に教えてくれたことを要約すると、「エルバート王子は王族だからあんなもの。ファルトは、手慣れているだけ」とのことだった。
(手慣れている……つまり、女性経験が豊富だということね)
なるほどそのためか、とアリアはやけに冷静な頭で納得する。あれだけ目立つ美貌を持つ彼なのだから、今まで女性との関わりがゼロだと言われた方が不思議だろう。
彼にとって、アリアは何人目の女なのか。
それを考えるとさすがに胸の奥がチクチク痛んだ。
「……ファルト様を責めるつもりはございません。むしろ、ファルト様は無理矢理押しつけられた婚約者であるわたくしに対して、あれほど真心を込めて応対してくださいました。ファルト様のお心を疑うことのないようにいたします」
そう、これからアリアはファルトの一時の遊び相手ではなく、妻になるのだ。
元孤児、色気のないシスター、地味平凡、そしてあがり性で世間知らず。
そんな自分を迎え入れてくれるファルトの優しさに報いるべきであり、疑うことがあってはならない。
女神は、結婚によって聖堂を去るシスターたちに、「夫を疑わず、共に幸福であるように」と祝福をしてくれるのだ。ファルトを疑うことは、女神の教えにも反する。
「これからファルト様とお話をして一緒に行動することで、ファルト様のことを知ろうと思います。そして、ファルト様のよき妻となれるよう、精進いたします」
そうして、ジャンヌやサンドラのこと、ブランシュのことなどを報告し、最後に亡き両親の冥福と、生き別れになった妹の無事を祈っておつとめ終了だ。
おつとめをしている間に、日はかなり高い位置まで上ってきていた。
アリアは立ち上がり、小部屋を見渡す。
アリアがこの部屋を使うのは、最長でも自分がファルトと結婚し、マクスウェル侯爵家の屋敷に移るまで。それでもやはり、女神へ祈りを捧げる礼拝室はきちんと整えておきたい。足りない装飾などはエルバートたちに頼んで準備してもらおうと心に決めた。
女神像に退室の挨拶をしてから、アリアは礼拝室を出た。鍵を掛け、一旦自室に戻ろうときびすを返すと――
「……おや、朝からおつとめご苦労様」
優しい男性の声に、アリアの足が止まった。
(このお声は……)
「……ファルト様?」
「おはよう、アリア嬢。シスターの装いも素敵ですよ」
「お、おはようございます」
廊下を歩いてくるのは、さらさらの金髪に杏色の目の美男子ファルトだった。昨日と同じ濃紺の制服姿の彼は片手を挙げてアリアの元まで来ると、その場に跪いた。
「え?」
「朝のご挨拶をしてもよろしいでしょうか」
「あ、はい……」
おずおずと右手を差し出すと、手の甲にキスを落とされた。あまりにも自然な動作に、アリアの耳が熱くなる。
(うっ……女神様、毎朝こうして挨拶を受けなければならないのでしょうか……)
彼の薄い唇の感触が、皮膚に残る。これで二度目だというのに、アリアの心臓は昨日と同じくらい激しく鳴り響いていた。毎日されていれば、いつか慣れるものなのだろうか。
立ち上がったファルトは、右手を庇うように胸元に寄せて視線を彷徨わせるアリアを見、ふふっと小さく笑った。
「何というか……そういう格好も、すごく魅力的ですね」
「……そう、でしょうか?」
話題が変わったことに安堵したアリアは修道服の裾を摘み、首をひねった。
喉から足の先、手首までしっかり覆う修道服。レースやリボンなどもなく、スカート部分にわずかにタックが入っているのみ。色も黒一色だし、魅力的だとはとうてい思えないが。
だがファルトは自分の姿を点検するアリアを見、ククッと低く笑った。
「そうですよ。何かこう……いけないことをしている気になります」
「いけないこと、ですか?」
「そう。つまり――」
微笑んでいたファルトがふっと真面目な表情になり、アリアに身を寄せてきた。ぽかんと立ちつくすアリアの頬にファルトの頬が触れ、首筋に吐息が掛かる。
(……え?)
気が付いた時には、アリアはファルトに緩く抱き寄せられていた。アリアの肩口に顎を埋めたファルトがふうっと憂いたため息をつき、うなじにぴりっとした衝撃が走り耳に熱が生じる。
「あ、あの……」
「……この小部屋は、礼拝室でしょう? シスターとして朝のおつとめを終えたばかりのあなたにこうして触れていると――背徳的な感じがします」