幸せの在処
最終話
お砂糖ドッバァァァァァァァR15
夜になった。
アリアはガラスの扉を押し開け、ベランダに出た。
秋の夜風は寒すぎず心地よく、優しくアリアの肌を撫でてゆく。
(星が、きれい)
手すりに両手を乗せて夜空を見上げると、あまたの星が輝いていた。
大小様々、色も青っぽかったり赤っぽかったりと個性豊かな星たちが、緊張で身を固くするアリアを見下ろしている。
(もうすぐ、ファルト様が来られる)
昼間、アリアとファルトの結婚式が執り行われた。
花束を落とすこともトレーンの裾を踏んづけることもなく式は無事に終わり、皆の拍手の中大聖堂を出た後は、盛大なガーデンパーティーへと移った。
普段は酒を飲まないアリアも、今日くらいはとアルコール弱めの果実酒をいただいた。隣に座っていたファルトは案外酒豪らしく、アリアが飲んでいるものよりずっとアルコール度数の高い酒をかなり大量に飲んでいたが、最後まで酔いつぶれることなくけろっとしていた。
夕方になってパーティーはお開きとなり、参列者からの贈り物や手紙などを受け取った二人は、王都にあるマクスウェル侯爵家の屋敷まで移動したのだ。
この屋敷は結婚準備のために何度か訪れているとはいえ、これから約一年間の住まいになるのだと思うと不思議と緊張してしまい、「せっかくだから」とファルトに抱き上げられてドアをくぐったものだ。何が「せっかくだから」なのかは、教えてくれなかったが。
使用人たちに出迎えられて入った屋敷の中も、あちこちからの贈り物でいっぱいだった。ほとんどのものは既に使用人たちが整理してくれていたが、それでも部屋一つを占領するくらい集まっていた。
使用人からは、返事を急ぐべきだろう相手――サンクセリアのヴィルヘルム王や聖魔道士団長のフィーネなど――からの手紙だけを受け取り、後は後日時間を掛けて片づけていくことになった。
そうして、あっという間に夜が訪れた。
ファルトが子どもの頃からマクスウェル家に仕えているという恰幅のいい中年侍女は、アリアを手早く脱がせ、問答無用で体を磨き、「ぼっちゃまお好みに仕立てしますね」と、服を着せ化粧までしてくれた。
ぼっちゃまお好み。
つまり、ファルトが気に入るように化粧してくれたのだ。
なぜなら今夜、アリアは初めてファルトと床を共にするのだから。
(覚悟はしていたわ。でも……)
寝間着代わりのローブの上に羽織ったショールをかき寄せ、アリアは頭を垂れた。
「……女神様。どうか、どうか……ファルト様と幸福な夜を迎えられるよう、祝福してくださいませ」
結婚し、シスターでなくなって初めての祈りである。
実のところ、多くの元シスターたちはアリアと同じ不安を胸に初夜を迎えるため、人妻になって初めて女神に祈る内容は皆似たり寄ったりなのであった。
これからどのように振る舞えばいいのかは、ここ半月間ほどで習ってきた。
シスター時代に習った知識はほんの初級に過ぎず、ランスレイの貴婦人によって語られる内容に、何度アリアの脳みそが爆発しそうになったことだろうか。
(不安……だけど、ファルト様だもの。きっと大丈夫)
彼はシスターとして育ったアリアのことを分かっているから、恋愛事などに疎いことも理解している。それに、一見軽そうに見えるが彼は紳士だ。アリアが嫌がることは絶対にしない。
「……アリア?」
ドアが開く音。
愛しい人の声。
(来られた……!)
振り返って彼を迎えなければならないのに、臆病な自分はなかなか行動に移せない。まごまごしているうちに、ファルトの方が寝室を横切ってベランダに出てきた。
「こんな所にいて、寒くないのかい?」
耳に心地よい彼の声がしたかと思うと、アリアは背後から長い腕に抱きしめられていた。
ふんわりと漂うのは、石けんの香りだろうか。
「え、えっと……」
「ああ、恥ずかしいなら無理してこっちを向かなくていいよ」
くすっと笑う声が、つむじを擽る。
アリアは厚意に甘え、ファルトに背中を向けたまま首を捻り、彼の首筋に頬を寄せた。そうすると、彼の体から漂う石けんの香りがより強くなる。
(私が使った石けんとは、ちょっと匂いが違うな……)
そう思って彼の首筋をなんとなく嗅いでいると、堪えきれなかったといわんばかりにファルトが噴き出した。
「今のアリア、なんかすごく可愛い」
「えっ……あ、す、すみません」
「いいよ。それに、俺もアリアのいい匂いを嗅いでいたんだし、お互い様さ」
「いい匂いがしますか?」
「うん、甘くて優しくて……なんかこう、ドキドキしてくる匂い」
最後の一言はわざとなのか、ふうっと耳に吐息を吹き付けるように囁かれ、びくっとアリアの体が跳ねた。
(ドキドキしてくる、なんて……)
そう言いながらもファルトは余裕そうだ。対するアリアの方はもう既に、彼が後ろから支えてくれなければ倒れそうなくらいフラフラだというのに。
「……余裕、あるんですね」
「えっ、あるわけないだろう」
「えっ」
「ずっとずっと好きだった子と結婚できたんだよ? それに、やっと君と一緒に眠れる。これでドキドキせず余裕をかませるほど、俺は大人じゃないよ」
ほら、と彼の左手がアリアの腹部から離れ、アリアの右手を取ったかと思うと彼の左胸に導いてきた。
体を少し捻るような形になったが、シャツ越しに感じる彼の胸は確かに、アリアに負けず劣らずの速度で脈動している。
「……わっ、速い」
「だろう? ……そう言うアリアは?」
「えっと、私も……速い、です」
「そっか……それ、直接確かめたらだめ?」
「だっ、だめですっ!」
思わず声を上げて彼の抱擁から逃げるように体を捻ったため、自然とアリアは彼と向き合う形になった。
アリアがあまりにも必死だからか、ファルトはククッと笑っておもしろがるようにアリアを見つめてくる。
「そっか……それは残念」
「す、すみません。あの、嫌ではないのです」
「分かってるよ。俺の方こそ、意地悪してごめん」
そう言うとファルトは身をかがめ、今度は正面からアリアを抱き寄せた。
彼の右腕がアリアの腰を引き寄せ、左手で顎に触れてアリアの顔を上向かせる。
「……仲直りのキス、してもいい?」
「えっ……」
「だめ?」
「……その」
「うん」
歯切れの悪いアリアの反応にも、ファルトはきちんと返事をして待ってくれている。
さりげない動作の会間に見える彼の優しさと思いやりに、アリアの胸が熱くときめく。
(……やっぱり私、ファルト様が好き)
好きだから、彼が差しだしてくれる愛に応えたい。
「……な、仲直りのためっていう理由がなくても……キスしたいです。その、たくさん」
「えっ」
「えっ?」
「何なのそれ、すっげぇ嬉しい」
早口で呟かれた直後、アリアの唇は彼にふさがれた。先ほどまで顎を支えていた彼の左手が後頭部に回り、ぐっと引き寄せてくる。
最初は唇の上をなぞるだけだったが、すぐに彼の舌がアリアの唇を割り、歯の隙間から口内へと侵入してくる。
「可愛い。すっごく可愛い、アリア」
「ん、んんっ……!?」
「好き、大好き、愛している。ずっとずっと……この日を待っていたんだ」
激しい口づけの合間に愛を囁かれるが、アリアには返事をする余裕がない。むしろ、口づけのさなかに口説けるファルトがすごいと思う。
至近距離でアリアを見つめるファルトの杏色の目は、濡れたように光っている。
小さなリップ音を立てて唇が吸われ、その感触と音に抗うようにアリアは震える両手でファルトの肩に爪を立てた。
「とろんとしてる顔も可愛い……もっともっとでろっでろに溶かしてあげたくなる……ねえ、アリア。俺にもっと、君のいろんな顔を見せてくれる?」
「ふっ……え?」
「今の君、すごく色っぽくて、可愛い」
掠れた声に続き、ちゅうっと音を立ててファルトがアリアの首筋に吸い付いてくる。
「ひっ……!?」
ぞくぞくっとした快感が体中を駆けめぐり、情けない悲鳴を上げたアリアは熱っぽい瞳でファルトを見上げた。
「ファルト……さま」
「アリア、俺だけのシスター。君の全部を、俺にくれる?」
はっ、とアリアは甘ったるい吐息を漏らす。もう既に両脚はほとんど使いものになっておらず、覆い被さってくるファルトに全体重を支えてもらっている状態だ。
「君の全部、ちょうだい」
ファルトの囁きに、アリアの胸から熱いものがこみあげた。
ファルトに求められていることに、アリアの体が、心が、全てが、喜んでいる。
自分の一生を捧げる相手は、女神しかいないと思っていたというのに。
(私を、求めてくれている――)
「……あげます。全部あげます、だから――」
「うん」
「……あなたの全部も、私にください」
そう告げたとたん、再び深い口づけが降ってきた。
彼に口内を貪られると頭の中がふわふわとしてきて、物事を考えるのも億劫になってしまう。
「もちろんだよ、俺の奥さん。俺の全部をあげるよ。君のことが大好きだって、教えてあげる」
「はい……教えてください、私の……旦那様」
ファルトの体が傾ぎ、両腕がアリアの膝の裏と背中に回る。そのまま彼は楽々とアリアを抱き上げ、壊れ物でも運んでいるかのように丁寧にアリアを室内へ連れて行く。
アリアを抱き上げる手つきはとても優しいのに、足でガラス戸を閉める仕草はやや雑だ。そんな一面にも、きゅんっと胸がときめいた。
「愛しているよ、アリア。一緒に幸せになろう」
「はい、私も愛しています、ファルト様」
新婚夫婦は微笑みあい、どちらからともなくキスを求めた。
女神様。
私、幸せになります。
辛いこともたくさんありました。
でも、私は一生を捧げたいと思える方に出会うことができたのです。
お父さん、お母さん、パメラ、ブランシュ様。
私、幸せになります。
ファルト様と一緒に、ずっとずっと――
これにて完結です
ここまでお読みくださり、ありがとうございました




