愛する人と共に2
お砂糖ドバァァァァァァァ
「ファ、ファルト様!」
「うん?」
意を決し、アリアはぐるっと体を回転させてファルトに向き直る。ファルトはアリアが全力で抱擁を振りほどいてこちらを向いてきたことで最初驚いたようだったが、その真剣な気持ちを汲んでくれたのか、目つきを和らげて首を傾げた。
「……どうしたのかな?」
「……わ、私、あなたに謝らないといけません」
そう切り出したのはいいものの、なかなか最初の言葉が思いつかない。
アリアは時間を稼ぐようにしゃがんでアグネスの聖書を拾い、それを胸に抱きしめて立ち上がった。
ファルトは変わらず、穏やかな眼差しでアリアを見下ろしてきている。
(……言わないと)
聖書をきつく抱きしめ、アリアはぽつぽつと話し始めた。
ブランシュに呼び出され、夜中に礼拝室へ向かったこと。
ブランシュから聖女になるよう頼まれたが、ファルトと結婚したいからと断ったこと。
するとブランシュは豹変し、アリアが大切に身につけていたネックレスを奪って踏み砕いてしまったこと。
(あの後ハインに連れられて脱出したから、残骸がどうなったか分からないけど……きっと、捨てられているわよね)
話し終えたアリアは、いつの間にか顔を伏せてしまっていた。顔を上げる勇気はない。
「す、すみませんでした。ファルト様が贈ってくださったのに、私は……」
「謝らないで、アリア。それは致し方ないことだった」
「でも――」
「俺も白状する。……俺も、あのネックレスはなくしてしまったんだ」
「……え?」
「本当は、俺の方から告白するつもりだったんだけどね」
アリアは顔を上げる。
ファルトは苦笑し、別のネックレスで飾られたアリアの首のラインを指先でなぞりながら言う。
「ランスレイで帝国軍に捕まった時に、金目になりそうなものは全部没収されてね。ネックレスや剣はもちろん、カフスボタンやネクタイピン、襟に付けていたバッジも全部もぎ取られてしまったんだ」
「……そんな」
「連合軍によって帝国軍が撃退された後も、少ない時間の中で探したんだ。でも、俺から金品を奪った兵の顔なんて覚えていない。大きくて目立つ剣は発見されたけれど、その他の服飾品は、どれも見つからなかった」
「……そう、だったのですか」
「うん、だから……俺の方こそ、ごめん」
とたんファルトは泣きそうな顔になり、先ほどのアリアのように頭を垂れてしまった。
「……他のものは諦められても、君と揃いで買ったネックレスだけは取り返したかった。それなのに――申し訳ない」
「ファルト様……いいんです。ファルト様だって、致し方ない状況だったのでしょう」
アリアはファルトの肩にそっと触れ、その顔を覗き込んだ。
「今はもうなくなってしまったけれど、ファルト様が私にネックレスを贈ってくださったという思い出が消えることはありません。あなたがくださった百合のネックレス……今でもちゃんと、私の胸に残っていますよ」
「アリア……」
ファルトの目が潤んでいる。
彼は顔を上げ、こつんとアリアの額に自分の額を押しつけてきた。
「ありがとう、アリア。……今は貴金属を買うのも難しい状況だけど、戦争が終わったら買い直すよ」
「い、え、いいんです、そんな! あのネックレスだって、すごい高値で……」
正確な値段は覚えていないが、店で値札をちらっと見た時、すさまじい桁の数字が並んでいたのは思い出せた。
慌てるアリアを見て、ファルトはくくっと笑った。
「いいや、俺に用意させてほしいんだ。それに、揃いのアクセサリーは本番でも必要になるから」
「本番?」
「結婚式だよ」
「……あ」
ランスレイでは、新郎新婦が揃いのアクセサリーを身につける習わしになっている。となれば、揃いのアクセサリーは近い未来必要となるのだ。
「……私、ファルト様と結婚できるのですね」
ついつい失言を零してしまったため、ファルトは盛大に悲しそうな顔になった。
「……えっと、もしかして俺、遠距離恋愛中にフられちゃった?」
「そ、そういうわけじゃありません! ただ、春から夏の間に色々ありましたし――」
「確かに色々あったけれど、俺とアリアが婚約したという書類はちゃんとランスレイに残っている。当の本人たちにその意志がないのなら、婚約破棄する必要ないんだけど……」
「わ、分かってます! ……その、帝国軍との戦いが終わったら――結婚してくれるんですよね?」
確認を兼ねて問う。
しつこい、と言われるかと内心びくびくしていたが、ファルトはとたんにふわっと顔面に笑みを広げ、正面からアリアを抱きしめた。
「もちろんだ! ああ、アリア。俺だけのシスター」
「は、はい!」
「愛しているよ。離ればなれになってからも、ずっと君のことだけを想っていた。君と再会するという願いが、俺の生きる理由になったんだ」
ファルトの熱烈な言葉に、アリアの胸が高鳴る。
(一緒だ……)
アリアも、ファルトとの再会を願っていた。
彼と再会したいから、戦場でも踏ん張ってこられた。
ここまで生き延びることができた。
アリアはおずおずと、ファルトの背中に手を回した。
細身に見えても男性だけあって彼の胸板は厚く、抱きしめるというよりも彼の肩胛骨付近に手を添えるという形にしかならなかったが。
「私も……です」
「え?」
「私も、あなたに会いたいから――あなたの花嫁になりたいから、頑張ってこられたのです」
ブランシュに裏切られ。
国民からは反逆者とののしられ。
戦場では無惨な負傷をした者たちの姿を目にし。
ユイレ解放戦が終わってからも、慣れない仕事に奔走し。
(全部、あなたに会いたいという想いが原動力になった)
ファルトは暫し黙っていた。黙っているというより、言葉を失っている状態のようだ。
やがて彼は「んぐっ」と喉がつっかえた時のような声を上げ、至近距離でアリアを見つめてきた。
「……そういえば」
「はい」
「まだ、やっていなかった」
「え、何を?」
「キス」
「きす」
「そう」
言うが早いか、アリアが「キス」の意味を脳内で処理するのに時間を要している間に、唇がふさがれた。
ちゅ、ちゅ、と微かな音を立てて口づけられ――口を重ねるというよりも、「吸われている」とアリアは感じた。
角度を変えて、強さを変えて、時には柔く下唇を噛まれたり、舌の先で唇のラインをなぞられたりし、ついついアリアの喉からはしたない声が溢れてしまう。
「あっ……ファルトさまっ!」
「……あ、今の声、すっごくいい……」
「ま、待って! なんだか体が――ひゃっ!?」
「うん、それはすごくいいことなんだよ」
アリアの「待って」もお構いなしに、ファルトは執拗に唇を求めてくる。
今やアリアの膝からは完全に力が抜け、支えを失った体がカーペットに倒れてしまう――前に、ファルトが両腕でアリアを抱き起こし、覆い被さるようにさらなるキスを求めてくる。
「足りない、全然足りない」
「まっ……! や、ちょっと、まって……!」
「ごめん、可愛い君のお願いでも……今はちょっと、きついかも」
そう囁く声は優しいのに、アリアを見下ろすファルトの目には炎が灯っており、自分の唇の端を舐める仕草がなんとも扇情的だ。
「大丈夫。結婚するまでは、女神様の天誅を食らわないようにするから。でも……ちょっとだけ、甘えさせてくれてもいいかな?」
はっ、とアリアの唇から声にならない吐息が漏れる。
ここでアリアを組み敷くなんて、騎士であるファルトにとってはたやすいことだろう。
でも、彼はそれをしない。「結婚するまでは、女神の僕として清らかな身を保つ」という、ユイレ大聖堂に仕えるシスターのルールを守らせてくれるというのだ。
ついさっきまでは声にならなかった息が整い、アリアはふふっと笑ってファルトを見上げる。
「はい。……あの、私も頑張ったので、少しだけ――甘えさせてくれませんか?」
「っ……ああ、もちろんだよ。俺の未来の奥さん」
そう熱っぽく囁いたファルトは両腕でアリアを抱き上げ、その体を軽々と抱えてソファへ移動する。
「え? あの、ファルト様……」
「床に押し倒してしまって、ごめん。せっかくきれいな服を着ているんだし、続きはこっちでしよう」
「ね?」と笑顔で尋ねられると、アリアには「はい」しか選択肢はない。
――アリアの手から奪われていた聖書はいつの間にかソファの前のテーブルに移動しており、寄り添う恋人たちを静かに見守っていた。




