夏の間に起きたこと
春が終わり、夏がやって来る。
「よっす。お邪魔するよ、シスター」
換気のために開け放たれた窓から、ひょいっと小柄な少年が飛び込んでくる。
室内で書き物をしていたアリアは少年の姿を目にし、目を丸くした。
「……ハイン、いらっしゃい。でもここ、三階なんだけど」
「知ってるよ。俺にとっちゃ、一階も三階も同じようなものさ」
少年密偵ハインはからりと笑い、窓の桟に腰を下ろして「あちー」と服の襟を大きく広げた。
「ちょっと疲れたかもー」
「はいはい、冷たい飲み物を持ってくるわ」
「んじゃ、この前出してくれたレモン水よろしく! あれ、むちゃくちゃうまかった!」
「分かったわ」
「あー、あちー」と桟の上でごろごろするハインを見てくすりと笑い、アリアは立ち上がって廊下にいる使用人に飲み物の準備を頼む。
ランスレイ解放戦が始まってから、ハインはちょくちょくユイレに戻ってくるようになった。ユイレ解放戦と違ってランスレイ解放戦は短期決戦というわけにはいかないようで、かなりの時間を掛けて攻略に取り組んでいる。
ユイレと違い、ランスレイは王族を人質に取られている。彼らを確実に保護してから本格的な戦闘を始めるつもりだ――とハインが教えてくれた。
ハインは物資の補給も兼ねてちょくちょく報告に来てくれるのだが、彼の表情を見ればだいたいの戦況は分かる。
(ハインはかなり落ち着いた様子だった。ということは、連合軍やランスレイにとって不利な状況にはなっていないはず)
すぐに使用人がピッチャー入りのレモン水を持ってきてくれたので、礼を言って受け取り室内に戻る。
「お待たせ、ハイン」
「ありがと。……んー、そうそう、このキンっとくる酸っぱさがいいんだよ!」
ハインはとても嬉しそうにレモン水をごくごく飲んだ。外は日差しもきつく、かなり汗を掻いているのだろう。
「よかったら着替えでもしていく?」
「ありがとう、でも報告だけしたらすぐに港の補給部隊の所に戻るから大丈夫だよ」
「そう。……ランスレイの戦況は?」
ハインが空になったカップを向けて「おかわり」と言うので注いでやりつつ、アリアは問うた。戦況は良好だろうと予想していてもドキドキする。
(戦況は今までにも何度も聞いているけれど、ファルト様のことはいまいちよく分かっていないわ)
密偵のハインも、ランスレイの全ての人間の状況を把握できているわけではない。エルバートたち王族ならともかく、ファルトは侯爵であって王族ではない。いち国民に過ぎない彼の動向を掴むのは難しいのだそうだ。
アリアの言葉に、ハインは「おっ」と声を上げて手を打った。
「そうだそうだ。レモン水のうまさに気を取られて忘れるところだった」
「な、何を?」
「ファルトだっけ? シスターの婚約者」
ハインが口にした名前に、どくん――とアリアの心臓が大きく脈打つ。
(ファルト様の消息が分かった――?)
「え、ええ! ファルト様はご無事なの!?」
「おっと、そんなに迫ってこないでよ! 落ちるだろう!」
やれやれ、と桟に座り直したハインは優しく微笑んだ。
「結論から言うと、無事。ランスレイ王家に近しい者と判断されてみたいで、王族とは別の場所に捕まっているそうだけど健康だってさ」
「……! ……あ、ああ……!」
とたん、アリアの膝から力が抜けてその場にへたり込んでしまった。
(ファルト様が、ご無事でいらっしゃった――!)
きっと無事だと信じていた。
でも、それは「きっと」という希望的観測に過ぎなかった。
それが今、ハインの提供した確かな情報としてアリアの元に届いてきたのだ。
(女神様! ファルト様をお守りくださり、ありがとうございます!)
震える両手を重ねて女神に祈りを捧げるアリア。その向かいでハインは手酌でレモン水をカップに注ぎ、アリアの邪魔をしないよう静かに飲んでくれているようだ。
「……どのタイミングになるかは分からないけど、彼らも救出して戦力に加えるつもりだよ。ルシアンとかいうでかくてごつい騎士もいるんだって」
「まあ、ルシアン様も!」
「そう。……ランスレイ解放戦の戦況は、割といい感じ。春にデューミオンの皇子がユイレから逃げたってのが、ランスレイにいた帝国軍にとっても相当ショックだったみたいでさ、中には早々に心折れてこっちに味方してくれる帝国兵もいるんだよ」
そういえば、ヴィルヘルムの方針は「敵だろうと、使える人間は遠慮なく使う」というものだった、とアリアは思い出す。
(ユイレ軍だけでなく、帝国軍まで本当に味方に付けてしまう――)
これがきっと、ヴィルヘルムにとって一番の魅力であり、同時に彼の強みであるのだろう。
「……連合軍の皆は、元気? フィーネ様は?」
「フィーネ様はお元気だよ。シスターの聖魔道を頼りにしていたみたいで、いなくなって寂しいとおっしゃっているよ」
「まあ……。それじゃあ、シェイリーも元気そう?」
「シェ……俺さあ、あいつ気に入らないんだよ!」
シェイリーの名を出したとたん、ハインは目を三角につり上げて窓の桟をばしばしと叩きだした。
「いっつも俺に突っかかってくるし、ぐちぐち説教してくるし! あいつ、俺よりひとつくらい年上なだけなのにえっらそーに小言を言ってくるんだぜ!」
「仲がいい証拠じゃないの」
「よくないっ! あー、もう、俺行くからな! シスターはこれを公女さんに渡しておいてくれよ!」
ハインはそう言ってアリアに書状を押しつけ、「じゃあな!」と飛び出していった。三階の窓から。
慌てて窓から身を乗り出すと、長いロープを回収したハインが身軽に裏庭を駆けていくところだった。彼とすれ違った聖堂騎士が、「ハイン!? おい、ちゃんとドアから出入りしろといつも言っているだろう!」と声を上げている。
やれやれと肩を落とした後、アリアは青く晴れた空を見上げた。
(ファルト様は……ご無事。ヴィルヘルム様はきっと、皆を助け出してくださる)
彼とは、たくさんしたいことがある。
謝りたいこともあるし、話したいこともある。
彼と再会できるその日まで。
(……私、頑張りますね)
書状をきゅっと握りしめ、アリアはきびすを返した。
ジャンヌのもとに書状を届けた帰り道。
「……シスター、少し話をしてもいいだろうか」
回廊を歩いていたアリアは、何の前触れもなしに声を掛けられて足を止めた。背後から聞こえたのでてっきり後ろから誰かが追いかけてきたのかと思いきや、辺りに人の姿はない。
(……空耳?)
「こちらだ、シスター」
今度は真横から聞こえる。ぎょっとして振り向くと、円柱形の柱の影に潜むように立派な体躯の男性の姿があった。
真夏だというのに上から下まで黒ずくめで、見ているだけで暑く――いや、その者の放つ凛とした気配に、ぞくっと背筋が冷たくなった。
「だ、誰ですか!?」
「あなたに危害を加えるつもりはない。武器も持っていない。どうか、話だけ聞いてほしい」
暗がりに立つ男性は、顔を伏せたまま静かに言う。胸の前で腕を組んでおり、すっぽり被ったフードで頭まで隠しているので、柱に寄りかかって居眠りでもしているかのような格好だ。
(話だけ……?)
警戒心を解くことなく、アリアは男性を注視する。だが、いくら見つめても彼が動じる様子はない。
彼から一定の距離を保つことを心に決め、アリアはそっと声を掛けた。
「……お話を伺うかどうかの返事は、あなたのお名前を聞いてからではいけませんか」
「すまない。名乗ることはできない」
「……そう、ですか」
「名乗れば、あなたが無用の争いに巻き込まれる可能性がある。……どうか、見知らぬただの男の戯れ言だと思って聞いてほしい。ただし、他言無用で頼む」
「……はあ」
男性の意図が分からず、アリアは顔をしかめる。
彼と関わればアリアに危険が及ぶかもしれないから、彼は名乗ろうとしない。
それでも、話は聞いてほしい。
ただし他人にはばらさないでほしい。
やけに注文の多い客だが、大聖堂勤務時代に住民から相談を受けたこともある。告解室はシスターと相手の間にカーテンが掛かっているのでお互いの顔が見えず、名乗らない、聞き知った内容を他言しないというルールがあった。あのようなものだと考えればいいだろう。
アリアは暫し逡巡した後、ふーっと息を吐き出した。
「……分かりました。手短に願います」
「感謝する、心優しいシスター」
フードの下から覗く唇が、ほんの少し笑みを象ったようだ。
その笑い方に不穏な気配はない。
「名乗ることはできないが……私は、帝国側の人間だ」
「っ……」
突如放たれた発言に、アリアは息を呑んだ。
このような怪しい風体をしているからにはただの人間ではないと思っていたし、ひょっとしたら敵の間者かもしれないという警戒も解いていなかったが。
(……変な人。わざわざ暴露する必要はないのに)
彼が自分の立場を打ち明けたことが、逆にアリアの心を落ち着かせた。
「……まあ確かに、ユイレや連合軍の人間ならば、そのような蒸し暑そうな格好で顔を隠したりはしませんものね」
「肝の据わったシスターだ」
「連合軍に加入している間に、だいぶたくましくなりましたので」
はっきりとしたアリアの返答が気に入ったのか、男性は低い声で笑った。
「……そう、か。ならば、ユイレの未来も明るいだろう。一安心だな」
「……はい?」
「シスター、私は決して、ユイレを壊滅させるつもりはない。ユイレは女神信仰の総本山で、強力な軍隊は持たないものの人々は根が優しく、正直で……敵国人である私が見ていてもヒヤヒヤさせる者ばかりだった」
確かに、ユイレ国民は信仰心が厚く正直者であるがために、人の嘘を見抜くということや疑うことに慣れていない者も多い。
先の戦いでブランシュの言葉を信じ、アリアやジャンヌを罵倒したのも、皆が大公家や大聖堂にただならぬ信頼を置いているからだったのだろう。
「ユイレはよいところだ。それに私とて、これでも女神信仰者だ。だから私も、侵略するにしても極力この国を傷つけないようにすべきだと進言した。そしていざユイレ・ランスレイを襲撃することになっても、できるなら穏便に事を進めたいとも思っていた。……あの公女がすがりついてこなければな」
「……ブランシュ様のことですか」
「ああ。邪魔な大公もいなくなったことだし、あの公女を丸め込むことにした。途中まではうまく進んだのだが、あそこまで暴走されるとはな……大公家の姫君なのだから何と口にしようと国民を想っているのだと思っていたのだが、私も目測を誤った。よって、夜間に撤退することにしたのだ」
男性の物言いに、徐々に不安な気持ちが沸き上がってくる。
(この言い方。まるで――)
アリアの動揺に気づいたのか、男性は体を起こしてフードを深く被り直した。
「……私はこれより、祖国に戻る。公女が原因だろうと何だろうと、ユイレから撤退したことには変わりない。皇帝陛下から罰を受けるだろうな。おおよそ、差し違えたとしてもヴィルヘルム王子を討て、とでも言われるのだろう」
「あの、あなたは――」
「シスター、私は皇帝の考えも、公女の考えも理解できない。侵略するにしても、もっと他のやり方があったのではと考えている。……私が第三子ではなく、長子だったならまた話は違ったのかもしれないな」
こつん、と男性のブーツが床を蹴って乾いた音を立てる。
「そろそろお暇しよう。――シスター、私はきっと、連合軍なら正しい道を選ぶと信じている。私も、公女も、父も考えられなかった――実現はたやすくないだろうが、叶った暁には誰もが満足するだろう道を見いだすと、な」
「あのっ……!」
「さらばだ。シスターやジャンヌ公女がいるならば――ユイレはきっと大丈夫だ。君たちの多幸を願っている」
そうして男性はアリアが呼び止めるのにもかかわらず、長身に見合わない俊敏な動きで廊下を駆け、大聖堂を囲む塀さえも軽々と跳び越えて行ってしまった。密偵であるハイン並の身体能力である。
残されたアリアは目を瞬かせ、男性が消えていった方を唖然として見やっていた。
「……あの方は」
呟いた後、アリアはきゅっと唇を引き結ぶ。
相手が誰だろうと、他言無用と頼まれたことを口外することはできない。彼はアリアがシスターだからこそ頼んできた。
(きっとさっきのは、あの方の懺悔――)
ユイレ・ランスレイを侵略したことへの。
皇帝に進言できなかったことへの。
理想を実現できなかったことへの。
しばらくその場に佇んで呼吸を整えた後、アリアはゆっくりと歩き出した。
真夏の太陽は、少しずつ西へと傾きつつあった。
――暦七〇八年、夏。
ランスレイ国内の砦に捕らわれていたランスレイ王族解放。
そして、晩夏。
ランスレイ侵略部隊指揮官の戦死によって、ランスレイ解放戦は幕を閉じた。




