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女神は何処に

鬱回

 礼拝室が、居心地の悪い静寂に包まれる。


 アリアの涙は一瞬で引っ込み、潤む視界の向こうで微笑むブランシュをぽかんと見やるしかできない。


(……今、何――?)


「ブ、ブラン――」

「役立たず。これまであれだけ可愛がってやったのに。最後の最後でわたくしを裏切る、おまえは役立たずのゴミよ」


 いつも、澄んだ声で聖書を読み上げる唇が。

 アリアを褒めてくれる唇が。

 いつだって国民のことを考え、慈愛に満ちた言葉を掛ける唇が。


 今発しているのは、憎悪に満ちた言葉。


「ねえ、どうしてここで『はい』と言ってくれないの? おまえが『はい』とさえ言えば、丸く収まったのよ? 誰も傷つくことなく、わたくしは幸せになれたのよ?」


 そう囁くブランシュは、いつもと変わりなく美しい。

 女神のように甘く、それでいて殺人鬼のように狂気に満ちた眼差しで、アリアを見つめてきている。


「ジャンヌもジャンヌよ。あっさり頷いてくれれば痛い思いをせずに済んだのに、意地を張るから――かわいそうな、馬鹿な従妹ね」

「あ、なた……ジャンヌ、様を……?」

「あら、人の心配ばかりしている場合?」


 頭に触れていたブランシュの手が滑り、アリアの両肩を掴む。

 それは、決して強い力ではないのに。全力で抗えば逃げられたのに。


 動けなかった。

 狂った優しい笑みを浮かべるブランシュから、その手から、逃げられなかった。


「ねえ、お馬鹿なアリアに教えてあげましょうか? おまえも意地を張るものだから、罪のない人を殺してしまったのよ?」

「え――」

「そうでしょう? ランスレイで脅迫されたのに、どうしてあんな島に留まろうとしたの? どうして大人しく尻尾を巻いて戻ってこなかったの? どうして逃げて帰ってきて、『結婚なんてしたくない、聖堂で暮らしたい』って言わなかったの……?」


 既にまともな言葉も言えなくなったアリアは、目を見開く。


 アリアに贈られてきた、血みどろの人形事件。

 どうして、それをブランシュが?

 あれは、ランスレイの人間の仕業ではなかったのか?


 どうして――


「おまえが泣いて戻ってこれば、わたくしはあなたを心から出迎えてあげたのに。大聖堂の聖女に据えて、争いとは無縁の生活を送れるようにしてあげたのに。どうして戻ってこなかったの? ねえ、どうして?」

「……わた、私……」

「……ああ、なんでわたくしがそのことを知っているのか、不思議に思っているのね?」


 ふふ、とブランシュは笑う。


(やめて、言わないで――)


 今からブランシュが言おうとしていることに予想が付き、アリアは唇を噛みしめてふるふると首を横に振るしかできない。


「やめ――」

「それはね、わたくしがおまえを脅すよう命じたからよ。かわいそうなアリアが、ランスレイから逃げて帰るように。わたくしの代わりに、聖女になるようにね!」


(どうして、)


 既に涙は乾いていたはずなのに、つうっと頬を温かいものが伝う。


 信じていたのに。

 敬愛していたのに。


 ショックで震えるアリアに、ブランシュは容赦しない。彼女はくすくす笑い、とどめの攻撃を放ってくる。


「おまえがランスレイから離れたがるように、わたくしの下僕に命じたのよ。……ねえ、役立たずのアリア。下僕の名前、教えてあげましょうか?」

「っ……や、嫌……!」


 嫌だ、聞きたくない。

 なぜなら、予想が付いてしまうから。


 ブランシュの命令で動いていた人。

 アリアへの贈り物の中にあの箱を混ぜ、適切なタイミングでアリアが開封できるように仕組める人。

 アリアの側にいて、その行動を観察できる人。

 アリアに「ユイレに帰りたくないのか」と不自然でないように囁ける人。


(嫌だ――!)


 そして女神は、残酷に囁く。


「……サンドラ・オーランシュ。おまえに血みどろの贈り物を準備したのは、サンドラよ」

「……ぁ」


 ――ぱりん、と心の奥底で何かが砕ける。


「かわいそうなアリア、かわいそうなサンドラ! おまえがユイレに戻らないと言うものだから、サンドラはわたくしの命令を遂行できなかった! だから、プレゼントしてあげたのよ! オーランシュ子爵家の連中の首をね!」


 アリアの瞳から、すうっと生気が抜ける。


『家族にも会いに行く予定なのです』


 青白い顔のサンドラが、そう言う。


『……アリア様はもう、ユイレに戻られるつもりもないのですね』


 サンドラが、どこか悲しそうに問うてくる。


『……アリア様のおっしゃるとおりに』


 恭しくお辞儀をして、サンドラが言う。


 サンドラ。

 サンドラ。


(サンドラ、脅されていたの――?)


 アリアを脅迫して、ユイレに戻りたいと思わせるようにしろと。

 失敗したなら、家族の命はないと。


 ガクガク身を震わせるアリアを見下ろし、ブランシュが狂ったようにあはははは、と哄笑する。


「ええ、そうよ! おまえは人殺し。おまえが屈しなかったから、サンドラは家族を失った! ねえ、今頃サンドラは大切な家族の首と感動のご対面をしているのよ? サンドラにそんな思いをさせたのは、おまえよ、可愛いアリア?」

「……ゃっ……!」

「おまえよ! おまえがオーランシュ子爵家の連中を殺したのよ!」

「……嫌ぁ! 違う、違う……!」

「違わないわ!」


 ブランシュの目がすっと細くなり、床に突っ伏すアリアの首筋に触れる。

 ほっそりとした指が持ち上げたのは、繊細な銀のネックレス。


「……そう、これなのね? こんなものがあるから、お利口で清らかだったアリアは狂ってしまったのね!」

「っ! やめて……!」


 プツン――と、留め金が外れる。


 アリアの首筋から引き剥がされたネックレスはそのまま宙を舞い、冷え切った床に叩きつけられた後、ブランシュの靴に踏みつぶされた。

 繊細な百合の細工が粉々に砕ける音が、鼓膜を震わせた。


「あっ……」

「ふふ……そう、こんなものなのね。わたくしが手塩に掛けて育てたあなたが、ランスレイの男なんかに傾倒するようになったのは」

「っ……違う! それは、ファルト様との約束の――」

「お黙り!」


 ぴしゃっと叩きつけられた言葉に、アリアは息を呑む。

 慈愛の笑みを浮かべていたはずのブランシュの顔に、今は笑顔の欠片も残っていない。


 そこにあるのは――怒りと、嫉妬と、欲望にまみれた女の顔だった。


「わたくしは、こんな薄汚い場所に押し込められていたのに――おまえは、恋をして、結婚して、子どもを産む権利が与えられるのは、どうして――!?」

「……ブランシュ――」

「どうして、おまえもジャンヌも幸せになれるの!? わたくしはお父様に命じられて、一生を独身で過ごさなければならないと言われたのに! どうして、おまえたちは愛に生きることができるの!? わたくしだって! 愛されて、結婚して、子どもを産みたい! 聖女なんてカビ臭いものに縛られず、自由に生きたいのに!」


『……アリア。わたくし、あなたが羨ましいわ』


(……ブランシュ様は、私たちが羨ましかった――)


 政略結婚とはいえ、結婚できるアリアたちが。

 一人の男性に愛され、子どもを産むことのできるアリアたちが。


「ねえ、そうでしょう!? わたくしだって、自由に生きる権利があるわよね! ねえ、アリア。テオドール様はね、わたくしに自由をくださるのよ。こんな湿気た場所から連れ出してくれて、あの方の妃にしてくださると、そうおっしゃったの」


 そう語るブランシュはほんの少しだけ勢いを緩め、うっとりした眼差しをしている。

 それは――恋をする少女の目だ。

 ブランシュは、テオドール皇子に恋をしているのだ。


「なんて素敵なの。わたくしは皇子の妃としてここから出られる。愛し愛されて、子どもを産んで、自由に暮らせるの。聖女? 馬鹿みたい。そんなものに価値なんて……ない。ない、ないっ、何もないのよ!」


 さっきまでは最低限の理性を保っていたブランシュは、今はもう感情のみで動く生き物となっていた。

 ブランシュの手が伸び、床に座り込むアリアの喉に手を掛けた。


「ぐっ――!?」

「聖女、女神、信仰、清楚、おつとめ――ああ、馬鹿みたい。馬鹿みたい! いくら祈っても、女神は何も答えない! わたくしの願いを叶えてくれない! 女神は、何処にいるの? わたくしを助け、導き、幸せにしてくれる女神は何処にいるの!?」

「ま、って……!」

「……さようなら、可愛いアリア。わたくしはあなたの分も幸せになるからね」


 アリアの耳元で囁かれた声は、昔のブランシュと同じ、優しくて慈愛に満ちていて。


(……私は――)


 ほっそりとした手にぎりぎりと首を絞められ、アリアの喉からゼイゼイと苦しい息が漏れる。


(……ファルト様――)


 会いたかった。


(あなたの待っているあの島に、戻りたかった――)


 周りの音がすうっと遠のき、アリアの意識が闇の中にとけ込む、その直前――


 ――頭上から、すさまじい轟音が立った。


 はっとしたブランシュが手を放し、アリアの体が床に転がる。直後、粉々になったステンドグラスの破片が辺りに飛び散り、ブランシュは悲鳴を上げて後じさった。


「な、何――?」

「話は聞かせてもらったぞ、女神の仮面を被った鬼畜お姉さん」


 どこからか、声がする。聞いたことのない、若い男の子の声。


 息も絶え絶えで床に突っ伏すアリアには分からないが、ぱりんぱりんとあちこちでガラスが踏まれる音がしていた。少し離れたところで、ブランシュが悲鳴を上げた。


「なっ! 神聖なる礼拝室に、何を――!」

「あんたがそれ言うの? さっきからさんざんそこのシスターに毒を吐いていたくせに」

「っ! お黙り――!」

「やだね。あ、それとこのシスター、もらっていくから」

「……え?」


 ぼんやりする意識の中、アリアの体がふわりと宙に浮く。それまで鼻の先にあったタイルの床が離れ、離れ、どんどん離れ――


「くっ……! 狼藉者め 待てっ!」

「はいはい、それじゃまたね、鬼畜お姉さーん」


 間延びした声と共に、アリアの体がついに窓枠を跳び越えて夜空に放り出された。ブランシュの絶叫が遠のき、駆けつけてきた護衛騎士たちの声が途切れる。


(……外?)


 ぱちくり瞬きするアリアの腰に、頑丈なロープが巻かれる。そうしてアリアの体は宙を飛び、大公館の屋根を移動し、やがて柔らかな草地へと横たえられた。


「お姉さん、よく頑張ったな。疲れただろうから、寝てていいよ」


 さっきブランシュを煽っていた少年の声がする。

 とたん、どっと疲れが押し寄せてきて瞼が重くなった。


(だめ……まだ、分かっていないことが――)


「……ジャンヌ様、サンドラ――」

「……ああ、公女さんとボインな姉ちゃんだね? 大丈夫。二人とも、ちゃーんと保護してるから」


 保護している。

 その言葉を聞いたとたん、アリアの体から全ての力が抜けた。












 ――暦七〇八年、初春の某日。


 ユイレ大公国の港から一斉に船が出航し、ランスレイに向かった。

 夜の闇と共に現れた艦隊に、ランスレイは応戦した。結果、帆船二隻を沈没させたものの、五隻の船の上陸を許してしまった。


 ランスレイ王家が投降し、国王夫妻と王太子並びに王太子の従弟が拘束されたのは、デューミオン軍上陸二日後の朝のことであった。

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