ブランシュの懇願
いつぞやブランシュと共に語り合った荘厳な礼拝室は、大聖堂の西側にある。室内は天井が高く部屋自体が円錐形になっており、年代物のステンドグラスが張り巡らされているため日中は、日光を浴びて室内が七色に光り輝くのだ。
両開きのドアを押すと、きしんだ音を立てて開いた。今は夜なので、天井のステンドグラスから透けて見える空も、濃紺色をしている。雲の隙間から月光が差し込み、しんとした礼拝室内を淡く慎ましげに照らしていた。
待ち人は、もう既にそこにいた。
祈祷用の長いすに座っていた淑女が振り返り、ため息のような声を上げる。
「アリア……来てくれたのね」
「はい、ブランシュ様のお願いとあらば」
アリアは胸の前に手を当てて礼をした後、礼拝室に足を踏み入れた。
アリアとおそろいの黒い修道服姿のブランシュは、青白い頬に月光を浴びてよりいっそう儚い印象を与えている。冬に別れを告げたときよりも窶れているように見えるのは、気のせいではないはずだ。
ブランシュはアリアの手を引いて、女神像の前まで誘った。大理石の女神像は何も言うことなく、修道服姿のシスター二人を静かに見下ろしている。
「ブランシュ様……私、ブランシュ様やジャンヌ様がどうなさるのか、とても不安に思っておりました」
アリアは急いてブランシュに話しかける。ブランシュは頷き、震えを堪えるように胸から下げたロザリオをぎゅっと握った。
「わたくしもよ。……どういう道を選んでも、誰かが犠牲になる。それが耐えられなくて――本当ならば、一度ランスレイに渡ったジャンヌを呼び戻るのも道理に反しているのかもしれない。それでも、一人では決められなくて……」
「お気に病まれないでください。迷うのも当然のことです」
アリアは力強くブランシュを励ます。
しっかり者のブランシュといえど、アリアより一つ年上なだけの若い娘だ。父を亡くし、帝国からは圧力を受け、驚き戸惑うのも仕方ない。ジャンヌだって、そんな従姉のために駆けつけてきたのだから。
ブランシュは空色の目を潤ませ、「あのね」と切り出す。
「あなたも司祭から話は聞いたでしょうけど――わたくしは今、帝国から要望を出されているの」
アリアは何も言わず頷くことで同意を示し、先を促す。
「ユイレ侵略部隊の隊長としてやってきたのは、デューミオン帝国のテオドール皇子。彼が出した条件は、ユイレの全権の譲渡と港の開放」
「……はい」
司祭が語った予想通りである。
「でも――同時に皇子は一つの折衷案を出したの。帝国は、ユイレの抱える航海技術を欲しているのはもちろん、女神信仰の総本山であるこの大聖堂の所有も申し出ているのよ」
「……え?」
ここまでは司祭からも聞いていなくて、アリアは目を瞬かせてブランシュを見る。
ブランシュは疲れたように微笑み、「本当よ」と付け加える。
「大聖堂の頂点に立つ、聖女。今はアグネス様がお就きになってらっしゃるけれど、アグネス様ももうご高齢。それに、お父様が亡くなったことですっかりお元気もなくされている。でも、大聖堂の聖女は大公と同等の発言力を有する。――帝国は、アグネス様に代わる新しい聖女を立て、デューミオンの配下にすることを要求しているのよ」
「な、なんてことを――!」
アリアは真っ青になってうめいた。
ユイレに大聖堂があるのはひとえに、過去の大公が女神の恩恵を授かったという伝説があるからだ。そんな歴史深い大聖堂を、デューミオンに下げ渡せと言うなんて。
(いくらデューミオンにそれほど女神信仰が浸透していないとはいえ、なんて罰当たり――無礼なことを!)
デューミオンはともかく、国によっては女神信仰が広く伝わっているところもある。そういったところを制圧するためにも、帝国がユイレ大聖堂を支配することに意義があるのだろう。
うんうん唸るアリアを見、ブランシュは静かに言った。
「……アリア。わたくしのかけがえのない友。わたくしはね、きっともう長くはないの」
「――え?」
己の思考に嵌っていたアリアは、ブランシュの言葉で我に返る。
長くはない――?
「ブランシュ様、それは一体――」
「テオドール皇子は、わたくしの身を要求している。お父様の実子であるわたくしを帝国に留置し、ジャンヌを始末するつもりなのよ」
「何を――!」
「ええ、わたくしも何度も反論したわ。わたくしが帝国に連れて行かれるのならまだしも、ジャンヌを見殺しになんてできないもの」
だから、とブランシュは目尻に涙の粒を浮かべ、そっと言った。
「アリアにお願いがあるの。どうか――この聖堂の聖女として、わたくしの代わりにこの国を守ってください」
人間、驚きのあまり呼吸を忘れることもあるのだと、アリアは今知った。
月光の差し込む礼拝室で、アリアは呆然とブランシュを見つめていた。
(……今、何と――?)
徐々にブランシュの発言が頭の中で理解できて、元々青白かったアリアの頬がついに紙のように真っ白になる。
「そっ……ブ、ブランシュ様! 何を仰せに――」
「それがテオドール皇子の出した条件なの。わたくしやジャンヌがどうあがこうと、ユイレは帝国には勝てない。それなら、少しでも無辜の国民たちへの被害を抑えたいというのが、わたくしたちの出した共通の結果」
そっと、ブランシュの手がアリアの手を握る。恐ろしく冷たい手のひらだ。
「わたくしは人質としてデューミオンに渡る。あなたは聖女として、女神信仰の地位を守る。ジャンヌはランスレイに戻ってエルバート殿下の妃となる。――いずれジャンヌが子どもを産めば、その子は大公家の血を継ぐ唯一の子になる。デューミオンは反抗する王族には容赦ないけれど、支配地となった国には温情をくださるとのことよ。そうすれば、帝国も大公家のジャンヌやその子、エルバート殿下に手ひどいことはなさらないはず」
「……で、でも――」
「……それしかないの。一人でも被害者を減らすには、それしか――」
ぽつん、とブランシュの黒い修道服に涙の粒が落ちる。
(私が……聖女?)
まさか、そんな、無理だ、と頭の中でぐるぐると言葉が駆けめぐる。
現在の聖女であるアグネスは確かに高齢だが、朝晩のおつとめや祭事にも欠かさず出席し、誰よりも徳の高い敬虔な信者であると国民から尊敬されている。
確かに、アグネスに代わる次期聖女はアリアかブランシュだと言われていた。そんな中、ブランシュが帝国に連れて行かれるならば、残る候補はアリアだけ。
(でも、そうしたら結婚は――ファルト様は――)
聖女は、結婚できない。
純潔の清らかな身のままで、女神に一生を捧げるのだ。
そうなると、アリアはファルトと結婚できない。
「……私には、婚約者が――」
掠れるアリアの声に、ブランシュは緩く首を横に振ることで答える。
「……破棄するしかないわ。あなたが断ればそれこそ、あなたの婚約者殿は帝国の攻撃の対象となる」
「そんな……」
ふらふらとその場に頽れるアリア。かがんだ姿勢になったため、ちゃりんと音を立てて修道服の襟元から銀のチェーンが覗いた。
(ファルト様――)
そっと、アリアは鎖を引き寄せる。
白百合を模した宝石細工。今アリアの首筋に触れているプレートには、ファルトから贈られた愛の言葉が記されている。
(捨てないといけないの? ファルト様の誓いも、約束も――?)
約束した。
夏になったら花嫁にしてくれると。守ってくれると。
(私の方から、ファルト様との約束を破棄しないといけないの――!?)
気がつけば、アリアの修道服にもぽたぽたと涙のしずくがこぼれていた。ブランシュが目を見開き、「あなた……」と掠れた声を上げる。
「悲しいの? ……婚約破棄するのが、辛い――?」
「っ……はい、辛い……とっても、辛いです……!」
こぼれる涙を拭おうともせず、アリアは声を絞り出す。
「ユイレを、守りたい――守りたいのに、捨てられない……!」
「アリア――」
「好きなんです……本当に、ファルト様のことが好き……!」
今になって言えるなんて。
優しく愛を告げてくれたファルトを待たせているというのに、今じゃないと言えないなんて。
一度堰を切ってしまうと、止めることなんてできなかった。
「愛してます……本当は、何を踏みにじってでも、ファルト様と結婚したいんです……! だめなのに……! シスターとして、ユイレの民として、すべきことはあるのに……!」
「アリア」
「私、どうすればいいか、分からないんです……! ランスレイで、辛いことがあっても――でも、ファルト様の側に、いたいんです! 結婚して、女神様の祝福をいただいて――あの人の、子どもを産んで……一緒に、暮らしたいんです……!」
「アリア、もういいわ」
思うままに言葉を紡ぐしかできないアリアの頭に、ブランシュの手のひらが載る。
「ブランシュ様――ごめんなさい、私……」
「ええ、分かったわ」
ブランシュはそっとアリアの顎に手を添え、女神もかくやと思うほど美しく微笑み――
「……この、役立たず」
天使の唇が、そう囁いた。




