海を渡るシスター
ユイレ大公国は南北に長いため、三つの国と国境を共にしていた。
西の国境を接するのは、大国サンクセリア。南の国境の一部はエルデ王国に接し、東の海を越えた先には島国ランスレイがある。
ブランシュの父であるユイレ大公が今年の夏に姪ジャンヌをランスレイ王太子の妃に宛った背景には、現在大陸を震撼させる国の存在が大きい。
西の帝国、デューミオン。
デューミオン帝国は元々軍事力に優れていたが、現皇帝の代になってからは積極的に他国に侵略戦争を持ちかけていた。
諸国はサンクセリア王国を主として、帝国の侵略に抗ってきた。軍事国家デューミオンと拮抗できる国は、サンクセリアくらいしかいなかったのだ。
だが――今年の秋、ついにサンクセリア王都が陥落した。夏には既にエルデも陥落しており、エルデに続きサンクセリアも、と主要な国家が次々に帝国の手に墜ちている。
次に帝国が手を伸ばすとしたら、女神信仰の国であるユイレ、そしてユイレの港を頼りにしているランスレイだろう。
デューミオンは陸上戦に優れているが、内陸国のため戦艦を持たない。よってランスレイ王国にとっては、ユイレなどと繋がる港をいかに守れるかが肝となっている。
ユイレ大公は、ランスレイのそういった状況を利用し、公女ジャンヌを嫁がせて港の安全を保証する代わりに、ランスレイから軍事力を引っ張り出しているのだろう。現にジャンヌがランスレイに向かってからの半年で、ユイレ国内でランスレイの騎士を見かけることが多くなっていた。
大公はランスレイと手を組むことで、帝国を退けようとしているのだ。
それがどれほど――勝率が絶望的に低い戦いになろうとも。
そしてジャンヌだけでなく、聖女候補として皆から慕われているアリアをもランスレイに送ることで、二国の繋がりを――ユイレの方が優勢ではあるが――強化しようと企んでいる。
大公が言ったように、アリアは「とどめ」なのだ。
それ以外の、何でもない。
大聖堂の司祭たちに挨拶をし、同僚のシスターたちとも別れを惜しんだ後。
出発の時間が迫る中、アリアは大聖堂の礼拝室に飛び込んだ。
先日ブランシュと二人きりで話をした、荘厳な礼拝室。
大理石の女神像の前に跪き、アリアは祈りを捧げる。
「……女神様。女神様の使徒として、ユイレの民として、この身を捧げる覚悟でございます。どうか、わたくしをお導きください」
祈りながら、アリアは思う。
結婚。
子どもの頃――両親が健在で、サンクセリアとの国境付近の村で暮らしていた頃は、大きくなったら素敵な男性と結婚するのだと漠然と思っていた。
戦火によって家族を失い、大聖堂に助けられた後シスターになってからは、一生を神に捧げるつもりだったので、結婚なんて夢にも見なくなった。
そんなアリアが結婚する。
アリアの結婚相手は、顔も見たことのない――ファルト・マクスウェル侯爵。大公はアリアにマクスウェル侯爵の情報を教えるつもりはなかったようで、アリアが聞き出せたのは彼の名前と、年齢がアリアより三つ上の二十一歳であることくらいである。
「……どうか、ファルト様との結婚生活が実り多きものになりますように」
アリアは祈る。
見上げるほど巨大な女神像は、常時と変わらぬ慈愛の笑みを浮かべるばかりだった。
冬の盛り。
アリアは船上の人となり、デッキで海原をぼんやりと眺めていた。
ユイレとランスレイの距離は船で一日程度といったところだが、山脈に沿うように領土の広がるユイレとほぼ盆地の島国ランスレイとでは気候も微妙に違う。ユイレ最大の港プレールを出発したとき、辺りはうっすら雪が積もっていたが、ランスレイは今頃もちらちら雪が舞っている程度らしい。
そうアリアに教えてくれたのは、アリアの護衛になった若い女性騎士だった。
「ランスレイ王国は、島の中央に休火山があるだけでユイレのような山脈がございません。ここらよりも一年間の気温も若干高めで、冬は雪も降りにくいのですよ」
「サンドラは、ランスレイにも行ったことがあるのですよね?」
アリアが感心して問うと、女性騎士――サンドラ・オーランシュは振り返ってにっこり笑う。
「はい。ジャンヌ様のご婚約の際に共に渡り、夏が終わる前に帰国しました。ランスレイは盆地であるため夏場はやや気温が高めですが、からりと晴れているため風通しのよい日陰などはとても過ごしやすかったですよ」
「そうなのですね」
滑らかに語るサンドラを、アリアは尊敬の眼差しで見上げた。
サンドラは、アリアの護衛としてランスレイに渡ることになった女性騎士である。
今年で二十歳になった彼女は、すらりと身の丈が高いながら、出るべき所はこれでもかというほどしっかり出ている。うねる髪は、日の当たり具合によって紫色にも淡い金色にも見える不思議な色合い。色っぽく細められた赤茶色の目やぷっくりとした唇が、同性であるアリアが見てもなんとも魅力的である。
オーランシュ子爵家の令嬢という彼女だが、なかなかの武闘派らしく護衛として非常に頼りになる。元々彼女は大聖堂の神官やシスターの身辺警備をする聖堂騎士であるため、アリアもシスター時代から親身にしていた。そのため、面識のある彼女が護衛に選ばれてほっとしたものだ。サンドラから聞いた話によると、どうやらアリアの行く先を案じていたブランシュが是非サンドラを護衛にと推してくれたという。
ちなみに出発時、サンドラが跪いて「アリア様」と呼んできたため、慌ててしまった。今まではアリアの方が、「サンドラ様」と呼ぶ立場だったので、気まずかったからだ。しかしサンドラはアリアの護衛という立場をわきまえており、恭しい態度を崩すつもりはないという。むしろ、アリアの方がサンドラに敬語を使うなと言われたので、現在少しずつ矯正中である。
「サンドラは、今回もある程度時間が経ったらユイレに戻るのですか?」
「そうですね……ブランシュ様からは、少なくとも来年の初夏にアリア様とマクスウェル侯爵が結婚するまでは見守ってほしいと言われております」
アリアの結婚は、来年。半年間は婚約者としてランスレイで学び、満を持して挙式するのだ。
ちなみにアリアの婚約者期間は半年だが、王太子と公女の婚姻であるジャンヌの場合、なんと準備期間は一年にわたる。二人の結婚式は、アリアより後の来年の秋頃を予定している。
「ジャンヌ様の場合、わたくし以外にも多くの使用人や護衛を連れて行かれましたからね。アリア様はそうもいかないので、わたくしもジャンヌ様の時よりも長めに滞在することになったのですわ」
「そうなのですね……でも、サンドラがいてくれるなら心強いです」
他の騎士なら、もっと肩肘張っていたかもしれない。サンドラを推薦してくれたブランシュに感謝だ。
(側にはサンドラがいるし、あっちに渡ったらジャンヌ様とも再会できる。……女神様、なんとか頑張れそうです)
甲板で静かに祈りを捧げるアリアを、サンドラは目を細めて見つめていた。
ユイレ・ランスレイ間の航路は、予定通り一日弱だった。
サンドラの言っていたとおり、ランスレイの港マレンの天候は粉雪。ごく薄く積もっている程度なので、桟敷や町の通りは既に泥っぽい足跡だらけになっていた。
「アリア・ロットナー様ですね。お待ちしておりました」
サンドラに手を引かれてタラップを降りたアリアを出迎えたのは、ガタイのいい男性騎士だった。ランスレイ王国騎士団の濃紺の制服をきつそうに纏い、大きな体を折りたたんでお辞儀をした彼は、船着き場の脇に停車している馬車を手で示す。
「すぐさま王都へご案内いたします。……馬車への同乗をなさる方は?」
「はい、こちらのサンドラと同乗でお願いします」
アリアは、積み荷の降ろし作業の指揮を執るサンドラを示した。男性騎士は頷き、厳つい顔をゆるめることなく続ける。
「……申し遅れました。私はルシアン・ディヴァイン。伯爵位を賜っておりまして、エルバート王子の側近を務めております。ちなみに、アリア様の結婚相手であるファルトは私の同僚です」
「まあ……そうなのですね」
アリアはぱちくり瞬きし、しげしげとルシアンを観察してみる。
ユイレ大公国にも騎士団はあった。だがユイレの騎士団はあくまでも護衛に特化しており、実は軍としての力はそれほど強くない。
対するランスレイは水上陸上両方に対応できる騎士団を抱えている。このルシアンという男性が騎士でありファルトの同僚ならば、ひょっとしたらファルトもルシアンのように大柄な男性なのかもしれない。
それを聞いてみようとしたが、馬車の準備ができてサンドラも追いついてきたため、アリアは質問するのはやめておいてルシアンに案内されて馬車へと向かった。
外はほんのりと肌寒かったが、馬車内にはクッションやブランケット、湯たんぽなどが準備されているので入っただけでほかほか暖かい。アリアが座ると、サンドラがかいがいしくブランケットを膝に掛けてくれた。
「さっき案内してくださったルシアン様という騎士、ファルト様の同僚だそうなのです」
馬車が動き出す中アリアが言うと、向かいの席のサンドラが眉を上げた。
「ルシアン? ……ああ、そういえばエルバート殿下の側近の一人でしたっけ」
「そうそう。……ひょっとしたら、ファルト様もルシアン様のように大柄な方なのかと思いまして」
「うーん……わたくしもファルト様をしっかりと見たことはないのですが、夏にエルバート殿下とすれ違った時には、ごつい方と細い方が一人ずつ護衛についていた気がします」
「ごつい方がルシアン様だとすると、細い方がファルト様?」
「……そう、だと思いますが、何分遠目に伺っただけでしっかり見たわけではございませんので」
ということは、「細い方」がルシアンで、「ごつい方」がファルトである可能性もあるのだ。
あのルシアンよりもごつい男性――
(……女神様、一体私の結婚相手は、どのような殿方なのでしょうか……?)
鞄の中に入れている手製の女神像に向かって、アリアは不安な思いを吐露した。