共に生きたいから
お砂糖ドバァ
「お待たせしました」
アリアの遠慮がちな声に、ファルトは我に返る。振り向くと、女神像を胸に抱いたアリアがドアの前に立っていた。
いつも彼女がおつとめするときの、黒い修道服。頭からもすっぽり頭巾を被っており、女神像を抱いたその姿はいつもよりもずっと小さく見える。
ファルトはアリアを安心させるように柔らかく微笑み、頭巾をほんの少しだけずらして額に口づけを落とした。
「俺のシスターは今日もきれいだね。……それじゃあ、行こうか」
「はい……お願いします」
同行といっても、アリアの部屋から礼拝室までは数十歩程度。同じ階の突き当たりがアリア専用の礼拝室だ。
鍵を開け、アリアが部屋に入――ろうとして、振り返った。
「あの……もしよろしければ、中まで来てくれませんか?」
「え? 俺はいいけれど……おつとめは一人じゃなくてもいいのか?」
「構いません。大聖堂では、他のシスターたちも側にいて一緒におつとめをしました。ファルト様は、近くにいてくださるだけでもいいので」
「そういうことなら、もちろん」
ファルトは了承し、一緒に礼拝室に入った。
元はリネン室だったという小部屋は縦長で、狭い。アリアはいそいそとお手製の祭壇に向かい、持ってきていた女神像を安置する。
そうして祭壇の前に跪き、小声で祈りを捧げ始めた。
「女神様。今日も一日、わたくしどもにお恵みをお与えくださいませ」
定型の挨拶の後、定例報告、本日の予定、悩み事などを順に述べるのだが。
「……やっと、廊下に出ることができました。怖くて、不安で――本当は、この礼拝室まで来るのも、とても恐ろしかったのです」
壁に寄り掛かってアリアの祈りを聞いていたファルトは、静かに瞬く。
朝の日差しを正面から浴びるアリアは神々しくて、それでいて儚い。今にも金色の朝日の中に溶けていってしまいそうな気さえした。
アリアは祈る。
「わたくしはこれからどうすればいいのか、迷っています。迷って、怖くて、他の人が信じられなくて、ずっと部屋に籠もっていました。わたくしはもうじき、結婚するのに。ランスレイの人間になるのに、怖くて――」
その瞬間――
背後から覆い被さってくる、温かい体。
腹の前に回される大きな手のひら。
熱い息づかい。
「ファル――」
驚いて振り返ると、杏色の双眸と視線がぶつかった。
いつもはきらきらと輝いているその瞳が、薄暗い部屋の中にいるからか霞んで見えて。
瞳の奥に、何かの炎が宿っているように見えて。
「……アリア」
耳朶を、湿っぽい吐息が擽る。
ぶるりと体が甘く震え、アリアは己の身体の異常に気づいて赤面した。
(いけない、女神様の御前で――)
「……俺が、あなたを守る」
――抗議の声を上げようとしたけれど、声にはならない。
アリアを正面から抱きしめてきたファルトが、首筋に顔を埋めてくる。
「あなたは俺の未来の花嫁だ。手放したくない。何者にも傷つけさせたりしない」
「ファルト、様……」
「でも……ごめん」
え? とアリアは顔を上げる。
だが見えるのは、ファルトのなめらかな金髪だけだ。
「もし陛下や殿下が、あなたをユイレに帰せと命じるなら――俺はそれに従わなければならない。あなたが生き延びるなら、安全に過ごせるなら――あなたへの恋心全てを封じなければならない。手元に置いていくことで傷つけるくらいなら、俺から遠く離れたところで無事に暮らす方がいいんだ」
「っ……」
たまらず、アリアもファルトの背中へと腕を回す。
ぎゅっと軍服にしがみつくと、よりいっそう強く抱きしめられた。
「……どうか、分かってくれ。俺はあなたを手放したくない。でも――」
「分かってます。分かってますよ、ファルト様」
アリアは囁き、手のひらをファルトの背中に滑らせる。
服越しに触れただけで分かる、広くて分厚い背中。
アリアとは全く違う、戦う男性の体。
「あなたはエルバート殿下の側近。ランスレイの騎士。私を守ってくれるのは、嬉しい。でも、あなたはあなたの職務を果たさなければならないですから」
「……すまない」
「いいんです。私だって、命じられればユイレに帰らなければならない。……それに、私がいることであなたに不利益が生じるなら――潔く、大聖堂に戻ります」
「アリア!」
「ね、お互い様でしょう?」
そう言い、体を起こす。
さっきまできついくらい抱きしめていたファルトの腕はすんなりと解けており、アリアは微笑んで彼の顔を見上げた。
「ファルト様、私を守ってくれてありがとうございます。……この先どうなるか分かりませんが、お許しがある限り私はこの国に留まります」
「……だが、それではあなたの身に危険が――」
「それでも、あなたの側にいたいのです」
しんとした礼拝室。
床に座り込んで見つめ合う二人の間に、邪魔なものは何もない。
「どうか、私をあなたの花嫁にしてください。あなたと一緒なら、私は強くなれます」
「アリ――」
「……お慕いしています、ファルト様。心から」
緑色の目と杏色の目が、お互いの姿のみを映す。
アリアの精一杯の告白を聞いたファルトの喉がこくっと動き、伸ばされた両手が遠慮がちにアリアの肩に触れる。
「……俺もだ。俺も、あなたを心から愛している」
「ファルト様――」
「夏になったら、結婚しよう。あなたを守る」
「……はい。結婚してください。あなたと共に生きます」
両者の瞳に熱が宿る。
ファルトの両手に力がこもり、やや強引な動作でアリアの体を抱き寄せた。
「ファルト様――だめっ」
ぼんやりする意識の中、アリアはさっと手を伸ばしてファルトの口元を覆う。ファルトが何を求めているのか分からないほど、アリアは鈍くない。
「……だめか?」
「だって……女神様が見てらっしゃいます」
そう言ってちらっと背後を窺う。
のっぺり顔の女神像は、ファルトを非難しているかのように不機嫌そうな表情をしているような気がする。「礼拝室でシスターを襲うとは何事か!」といったところか。
だがファルトは女神像に向かって挑戦的に微笑み、己の口元を覆うアリアの手を優しくどけてしまった。
「ファル――」
「悪いけど、今は女神にも邪魔されたくないからね」
それに――と、ファルトの薄い唇が囁く。
「……女神もきっと許してくださるだろう」
「あ……」
「アリア、愛してる」
それ以上の反論は、許されなかった。
抗議の声も女神様に許しを請おうとする声も全部、ファルトの唇で阻止されてしまったから。
(女神様――)
留まることのない口づけの波の中、アリアは一筋だけ涙をこぼしていた。
それが何故の涙だったのか、知るのはアリアと女神像だけである。




