枝葉末節・其の8【生き残ってしまった〝さむらい〟】
1922年(大正11)ころ。岡山市丸の内。閉じられた仏間の襖の前。正座して待つ。元旦早朝のしきたりだった。いがぐり頭の少年、女の子がふたり、母親とその懐に抱かれた末っ子が居並ぶ。寒い。しかし、待たねばならない。
──えぇいッ! やぁッ!
襖越しに響き渡る大音声。寒さのあまり身を縮め膝上に握りしめた拳が、瞬時浮き上がる。子どもたちの姿勢が正される。裂帛の気合というやつだ。しばしあって静かに襖が開かれる。
「よし、ご先祖様にご挨拶せぇ」
鼻下から顎にかけて黒々とした美髭を蓄えた父親・OK村TR吉が、待ちかねていた家族に命じる。厳寒の正月に、微かながら肩で息をしている。額にはうっすらと汗がにじむ。
しきたり。それはTR吉が家族にも秘した儀式。剣の師でもあった亡父・左近太(*1)に捧げる、真剣によるOK村二刀流の秘伝演武だった。TR吉の熱気が残る仏間に入り、長男坊からご先祖様を礼拝してOK村家の正月がはじまる。正座して父を待っていた下の女の子、僕の母・TM子の述懐。
「勢いあまることもあったんじゃろうなぁ……仏間の鴨居にいくつか刀傷があった」
僕は一度だけ、祖父・TR吉の剣道演武を観ている。いつだったのかは定かでない。でも、ぼんやりとしていながら強烈なイメージが残っている。おそらくそれは、僕が5歳のころ。TR吉は80歳。場所は覚えている。岡山市中心部の「蓮昌寺道場」。妄想するに、80歳=傘寿を祝して、戦後TR吉が後進の指導に当たっていた道場で、記念の剣道試合が催された。TR吉は、範士八段という剣道家の最高位を極めた男。実父左近太からOK村二刀流と直心影流の、京都皇宮警察の撃剣師範・三橋鑑一郎から武蔵流二天一流の免許皆伝を受けた、岡山はおろか全国の剣道家から、生ける伝説とも称された剣士だった。
剣士たちの汗と足の脂がしみ込み、さらに磨き上げられた広々とした板敷きの床が、天窓から差し込む光に鏡のように輝いていたような気がする。正座して居並ぶのは、白の稽古着に紺の袴姿のTR吉の直弟子たち。その後ろには孫弟子・曾孫弟子、玄孫弟子たちが並ぶ。僕と年格好の違わない子ども剣士も多かった。
「おじいさんのお祝いじゃから」
招待され、母が僕を連れて行った(父・KN造は、そういう場所は一切興味のない人なので当然欠席)。剣士たちの後ろに座らされた僕は退屈していた。足は痛いし、数々組まれた試合、老・壮の剣士による演武にも飽きていた。
「いつ終わるん?」
「もうちょっとじゃから辛抱しなさい」
母に諭された。(えぇッ、まだ続くん!?)と絶望しているところへ祖父・TR吉が登場した。剣士たちが一斉に平伏する。空気が一変した。黒鳶色の半着に軽袗、袖無し羽織。池波正太郎のベストセラー『剣客商売』の主人公・秋山小兵衛を彷彿させる装束のTR吉が、長短二本の木刀を携え静かに立っている。日中だったので道場の照明は灯されていなかった。そこからさらに、記憶に霞がかかる。道場の天窓から降り注ぐ光が、ピンスポットのようにTR吉を浮かび上がらせる。
母の思い出の黒々とした美髯はすでに、風にたなびく胸まで伸びた白髯になっている。直立しているように見えてわずかに腰を入れた姿勢から、TR吉が木刀を構え振り下ろす。体を入れ替える。二本の木刀が交差する。水を打ったように静まりかえる道場で、TR吉は見えざる対手と剣を合わせていた。見えざる対手。それが見えたような気がした。老境にあったTR吉の所作はあくまで閑かだったが、その切っ先は鋭かった。実際はTR吉の高弟にあたる方が、対手を務めていたのかもしれない。しかし、儚い記憶では独りの演武だったような……。
小学生のころ、剣道に手を染めたことがある。学校の剣道部顧問であり師範だった森先生は、TR吉の直弟子だった。孫が剣道を始めたことをTR吉は喜んでいた。しかしご想像どおり、いつのまにか熱は冷め、剣道の〝ケ〟の字もないただの小学生に戻っていた。「軽はずみ」な僕ならではのエピソード、ということで閑話休題──。
丸の内のOK村家は、岡山藩の旧評定所(*2)だった。普通と違うのは屋敷内に道場を設け「内山下道場」(*3)と称していたこと。家は代々岡山藩・池田家に仕える士分だったが、幕末に様相が一変した。跡取り息子の左近太が、剣の道を極めることに専心するという、思わぬ行動に出た。「韻学」(*4)に長じ、儒者として藩に仕えた祖父・七太夫の跡を襲わせようとした父・安心の願いは頓挫した。左近太は、学問には興味がなかった。そして何度かの回国修行を経て独自のOK村二刀流を編み出し、27歳にして岡山藩の武道鍛錬所「武揚館」の一等教授になった。
幕末・明治を代表する剣客のひとり。亡くなるまで丁髷を落とさなかった「生き残ってしまった侍」──僕の縁戚の「とんでもない人第1号・左近太」の薫陶を受け、長男のTR吉もまた剣の道にのめり込むことになった。左近太もTR吉も、いわゆる実業に携わったことはない。学校・警察などの撃剣師範の俸給で家族を養いつつ、自らの剣技を極めることしか頭になかった。「一介の剣士」として生きる。身内ながら想像もつかない選択。
TR吉はOK村と同じ旧藩士・SS木家から妻・KIを娶り、4人の子を設けた。1922年(大正11)、長男のHR道は小学5年生。TR吉自慢の息子だった。学業優秀で子どもながらすでに大人の風格がある。剣道の才も感じられた。長女のSZ子は小学校に入ったばかりの、明るく気の回る娘。次女TM子(僕の母)は5歳。人見知りで引っ込み思案。末っ子NO道は、後年の快活さはまだ感じられないおさな子。僕は、恰幅のいい姉御肌の伯母・SZ子、頼りがいのある朗らかな叔父・NO道にはかわいがってもらった。しかし彼らの長兄・HR道のことは知らない。
「(HR道)兄ちゃんはなぁ、勉強も運動も一番。そんで、ほんま(本当に)優しかった。私のことをいつも気にかけてくれた。欠点なんかなかった人じゃったんよ」
遠い目をして、よく母が語っていた。長男HR道は、岡山一中から第六高等学校、東京帝国大学の文科に進んだ秀才だった。中学校・高等学校では剣道部の主将を務めた文武両道の典型。彼は大学を出て、東京の大手出版社に職を得た。そして1939年(昭和14)、学生時代に患った結核が悪化し、職を辞して療養中の岡山であっけなく亡くなる。28歳だった。母の言を借りれば、学生時代のHR道は仕送りのほとんどを本を買うことに費やしていた。遊興はもちろん食事にも興味なし。すべてを切り詰めて勉強することを優先した。栄養不足が軀を蝕んだ。
HR道にはしかし、従容として受け入れていたはずの命の末路に、一点の心残りがあった。学生時代の下宿の娘と愛し合い、親に知らせることもできず、東京でともに暮らしていた。その恋人が彼を追って岡山に来た。
(HR道さんに一目会いたい)
激怒したTR吉は頑に面会を拒んだ。人倫にもとる(正式な結婚ではない)男女のつながりなど悪鬼の所業、もってのほかだった。不憫に思った妻・KIのとりなしもかなわず、恋人はHR道の葬列を遠くで見守り、岡山を去るしかなかった。
「かわいそうじゃったなぁ。会わせてやればよかったろうに」
母の言葉に、僕は裏腹の安堵を感じる。食い意地の権化である僕は、食費を切り詰めて勉強するなど考えようもない。でも、「軽はずみ」な僕の極北にあるような伯父の短い生涯に、情熱的なエピソードがあったことが嬉しい。よかったね、伯父さん。
1922年(大正11)に話を戻します。HR道の小学校の同級生に、手のつけられない暴れ者がいた。僕の父、ヨシユキKN造。これもまた運命……てなわけで、話は続きます。
(枝葉末節・其の8【生き残ってしまった〝さむらい〟】了)
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【脚注】
*1 左近太:「小説を読もう」掲載の拙著「評伝「左近太」「左近太・外伝」http://yomou.syosetu.com/search.php?word=夏ヨシユキ&genre=&type= もしくは拙著ブログ「WEB版軽はずみ備忘録【1】左近太/左近太外伝」まとめページをご参照ください。http://rash-mem.jimdo.com/
*2 評定所 :(以下転載)評定所は、近代以前に訴訟を扱った機関およびそれが存在した場所のこと。時代により以下の2つに区分される。/鎌倉時代・室町時代の評定衆が合議した場所の名称。/江戸時代に設置された江戸幕府の最高裁判機関。政策の立案・審議も行う。(中略)各藩にも、同様に自藩管轄の武士を裁く組織が存在し評定所又は御用屋敷と呼ばれていた。(以下略)──(出典:ウィキペディア(Wikipedia)フリー百科事典「評定所」最終更新 2016年7月20日 (水) 03:48 https://ja.wikipedia.org/wiki/評定所)
*3 内山下道場:母方の従兄であるOK村精さんと眞美子さんご夫妻が、4年間かけて岡山藩に残る古文書「池田家・奉公書」に記述されているOK村家の来歴を読み下した大労作「OK村家・探訪」で、知らなかった多くの事実を知りました。内山下道場は明治初年、岡山藩最後の藩主・池田章政侯爵から左近太が剣道場として使用することを許された旧評定所だったようです。さらに1901年(明治34)11月、章政侯と30年間の賃貸契約を結んでいる。章政侯と左近太は「君臣相和す」を地で行く間柄だったようです。章政侯は、しばしば左近太を召し出しては。剣術の指南を受け、親しく語らっていた。他の家臣たちが羨み妬むほどの「殿様のお気に入り」。──「よいよい、(屋敷は)これからもずっと、〝そち〟(お前)の好きに使うがよい」「ははッ、ありがたきしあわせにござりまする」(筆者の妄想会話)──的な、元殿様の慈愛・厚情だったと類推します。
*4 韻学:いんがく。(以下転載)漢字の音韻について研究する学問。音韻学。(出典:コトバンク「デジタル大辞泉」https://kotobank.jp/word/韻学-437170)/音韻学とは歴史的な中国語および漢字音の音韻変化を研究する学問分野。近代的な学問区分では歴史言語学の一部といえる。(出典:ウィキペディア(Wikipedia)フリー百科事典「音韻学」最終更新 2016年11月22日 (火) 00:11 https://ja.wikipedia.org/wiki/音韻学)




