枝葉末節・其の7【さらば幼稚園。その結末】
僕の父・黒めがねKN造を語る上で避けて通れない人。滓のように僕のなかにわだかまっている祖母MR代(KN造の母)について調べました。テキストは、山陽新聞のコラム「AGRの母 ヨシユキMR代さんへのレクイエム─職業婦人の自立勧める─」(1997年[平成9]9月13日掲載)と、その底本である『上代淑(*1)研究』(山陽学園大学 刊)第3巻所収の論考「“AGR”と山陽高女─ヨシユキMR代さんの紹介─」。執筆されたのは山陽学園大学比較文化学科教授の太田健一さんです。
以下、転載します。申し訳ない、長いです。
(*筆者注:氏名はアルファベットで記載してあります)
──(前略)
「AGR」の原作『梅桃が実るとき』(*2)を読むと、
AGRさんは姑・MR代さんについて、
山陽高女(現・山陽女子高校)の出身者で
「ほっそりとした姿のよい人」、
「趣味のよい、いつも身のまわりをきちんとしている人」、
「なんでもよくできる方で、女芸全般を身につけて、
良妻とはいえませんが賢婦人」
と紹介している。
ヨシユキ家では、AGRさんは「家事はいっさい」せず、
MR代さんから「女芸一般」を習ったという。
また、大正十四年のAGRさんの自立の決意、
すなわち米国帰りの洋髪美容師・山野千枝子女史の内弟子修業に際し、
厳しい舅(筆者注:Aスケの父・ST郎)の大反対を
押し切って賛成してくれた事実が、
AGRさん自身によって指摘されている。
山陽高女の機関誌『みさを』を繰ってみると、
MR代さんの足跡について若干の事実が判明してきた。
その第一は、MR代さんの旧姓はNR広である。
NR広姓は岡山県御津郡金川辺りに多いと聞く。
ヨシユキ家は御津郡草生であるので、
ヨシユキST郎氏とは近い居住地にあった。
その第二は、MR代さんは「明治三十六年技芸専修科卒業生」である。
同年の卒業生は技芸専修科三名・本科十五名である。
明治十九年開校した山陽英和女学校は、
キリスト教、英学、漢学、裁縫、唱歌などの教育により
知徳兼備の女子を養成しようとしたが、
良妻賢母をもとめる社会風潮の影響を受けて、
教育内容に手芸・箏曲・華道・茶道を導入し、
また技芸専修科を特設していった。
(中略)
MR代さんは、卒業後も同窓会活動に積極的に参加している。
明治四十一年三月二十四日開催の同窓会大会では、
欧米視察より帰朝した上代淑先生の
欧米婦人のボランテア精神に感銘を受け、また大正十年には山陽高女での
矢島楫子(筆者注:やじま・かじこ)女史の講演を聴き、
世界矯風会の様子や欧米における婦人の活躍につて見聞をひろめている。
このようなMR代さんによってこそ、AGRさんへの、
職業婦人の自立を勧める助言ができたものと思われてならない。
(後略)──
(転載終わり)
岡山は、江戸時代から教育に熱心な土地でした。17世紀初頭には、幕府・諸藩に先駆けた藩士の子弟を教育する最古の藩校「藩学(花畠教場)」とともに、庶民の子弟を教育するための学校「閑谷黌」を開設。明治以降はそこに「女子教育」という流れが突出した。いまは変わっていると思われますが(=全国的に平準化されている)、かつて岡山は女子の大学進学率が高いことで知られていました。
明治時代に話を巻き戻します。MR代は郡部の実家から岡山の女学校に通った。1898年(明治31)に開通した、金川経由で岡山に至る中国鉄道(現・JR津山線)の機関車に毎日揺られていたのだと妄想します。しかし──筆が進まない。息子・黒めがねKN造を生涯忌避し続けたMR代=祖母の意識が降りてこない。いやむしろ、「孫とはいえ、あのKN造の血を引く子に、私のことなどわかるはずもない」なんて、MR代の声が泉下から聞こえてくる気さえします。こうなったら、ままよ。軽はずみそのものの僕は開き直るしかない。お気楽に徹します。
読み書き算盤という基礎教育だけでなく、より高度な教育を男子はもちろん女子にも与えよう。そんな明治の、教育への熱狂のまっただ中にMR代はいたのです。ただ、巡り合わせは悪かった。洪水のように押し寄せる世界の新しい知識を自分なりに咀嚼することはできても、それを形として紡ぎだす術がない。早すぎたのでしょう。岡山という土地から離れられなかったことも原因しているかもしれない。西洋の息吹を伝える校長・上代淑の先進性を肌で感じながら、MR代は亡姉の夫であるST郎の元へ嫁ぐしかなかった。彼女自身も表現しようのない、違和感(=もやもや)に包まれた嫁入りだった。
「進んだ(飛んだ)女」(表現古ッ)になれなかった。「当たらずとも遠からずでしょ、お祖母さん!?」と、泉下のMR代に語りかけてみる。そしてMR代の、行き場のない説明のつかない「もやもや」は、幼い頃から「神童」と称された長男・Aスケへの溺愛という母性の発露に転化します。
(頭はもちろん、姿もえぇ[カッコいい。イケてる]この子の行く末こそが私の夢じゃ)
中学生になるかならない頃からはじまったAスケの女遊びや芸者遊び、遊廓通いも気にはならなかった。放蕩を叱責する夫・ST郎をよそに、MR代はAスケに金を与え続けた。学業を放棄したティーンエイジャー・Aスケの、東京と岡山を行き来する二重生活も、彼女が支えていた。Aスケが耽溺することになる「アナキズム」「ダダイスム」なんて尖った当時の最新トレンドも、MR代の果たせなかった思いの代替物だったのかもしれない。東京から得体の知れない友だちを連れ帰っては豪遊するAスケ。それを好もしげに見つめるMR代。「これぞアナーキー!」「これぞダダ!」なんて妄想も頭をよぎります。
僕の伯母・AGR(Aスケの妻)の著作『AGR 95年の奇跡』(集英社文庫)に、いくつかヒントがあることを見つけました。補足します。1923年(大正12)、高等女学校在学中のAGR(16歳)は、岡山を代表する不良Aスケ(17歳)に嫁ぎ、翌年、長男JNN介を授かりました。同書から転載します。
──(以下転載/前略 *筆者注:氏名はアルファベットで記載してあります)
岡山が嫌ひだった義母(筆者注:MR代)はそれまでも、
JNN介を連れて度々上京しておりましたが、私が病気になったので、
本格的に東京住まいを決めて、Aスケ氏とJNN介を独り占めしておりました。
義母は二人が可愛くて仕方がなかったやうです。
(後略/転載終わり)──
「岡山が嫌ひだった」。けっこう強烈なフレーズ。経緯を補足します。JNN介が生まれて間もなく、AGRはAスケがいる東京に移り住みます。JNN介は3・4歳になる頃まで、岡山市桶屋町のヨシユキ組でMR代に庇護されて育つことになりました。初孫、それも男の子を授かって欣喜するST郎でしたが、MR代のガードは固かった(手出しできない)。もともと、ST郎・MR代夫婦の折り合いは悪かったようです。
ST郎は、土木業者としての頂を目指して、生き馬の目を抜く業界を勝ち抜くことを第一義と考えていた。自分のため、家族のため、一族のため(それのどこが悪い!)。ST郎が人望を集める才に恵まれていたことは以前書きました。言葉は悪いけれども「人たらし」の一面もあったかもしれない。そして情勢を冷静に見つめ、考え、軽挙妄動を自分に戒めながら、ときには強引な手を打つことも躊躇しない。「知の人であり、また〈非情であることを畏れない〉情の人」だったと思います。
対するMR代は、本来的に「知の人」だったのでしょう。嫁入りしてきたときから自らに抱え込んだ違和感。彼女の目には、権謀術数をもっぱらにする魑魅魍魎と映る、ヨシユキ組とその周辺の人々の「情」の交雑のありようは、我慢の限界に達していた。昭和初年(1930年頃)、MR代はJNN介を連れ東京に移り住むことを選択します。いまとは感覚の違う時代です。わが家の話ながら、行動がぶっ飛んでますね。
「ヨシユキの嫁が、家をほって(放って)東京へ行ってしもうたらしいで」
「そらぁ、どういうことなら」
「あの不良(Aスケ)の母親じゃからのぅ。やっちもねぇ(とんでもない)話じゃ、桑原くわばら……」
噂雀たちの好気の目がYSYK組に注がれる。でもまぁ、「Aスケ氏とJNN介を独り占めしておりました」というAGRの言葉がすべてであるような気がします。さらに同書から転載します。
──(以下転載/前略 *筆者注:氏名はアルファベットで記載してあります)
岡山には、私が行きました岡山県立第一高等女学校といふのと、
山陽高等女学校といふのがございました。
山陽は私立で、お金持ちの方がいらっしゃる学校だったやうです。
MR代さんはこの卒業生で、優秀な女生徒だったと評判でした。
男の子を二人産みましたが、
弟がひがむほど長男のAスケ氏を可愛がり、
JNN介が出来ましてからは、彼のことも深く深く愛するやうになりました。
(後略/転載終わり)──
伯母は長年東京でともに暮らし、最後を看取ることになったMR代の思い出を敬意を込めて書いている。しかし、いくつかのフレーズが僕の「わだかまり」を刺戟する。「弟(筆者注:僕の父・KN造)がひがむほど長男のAスケ氏を可愛がり……」。視点を変えれば、母TM子の述懐どおり、MR代はKN造に母としての愛情を注ぐことはなかったのでしょう。そして──「男の子を二人産みましたが」という一節に、僕の妄想がふくらむ。MR代は、KN造の母親だったのか!?
KN造が亡くなってから、母ととりとめのない話をしていたときのこと。
「ハパ(KN造)は、MR代お祖母さんの子じゃなかったかもしれんなぁ……」
母がふいに、そう呟いた。(そうか!)と思いました。真相を知りたくとも、それはすでに歴史の闇のなか。でも妄想にとどめを刺す言葉でした。仮にそうであれば、僕の「わだかまり」の欠けたピースが符合する。拙著ブログ【其の2-30】妄想劇場 ダダと黒めがね・其の6〈まずは、僕と黒めがね・岡山復帰編〉http://72tombo.blog.fc2.com/blog-entry-45.html から再録します。
──(前略)
KN造はまたまた意表をつきます。
岡山の男の子たちを庶子にはしなかった。
認知ではなく、嫡出子として戸籍に記載しました。
TM子は形式上4人の男の子の実母になったのです。
母にとっても岡山の女性にとっても辛いことだったでしょう。
ただこれは、KN造を語る上で避けられない話だと思っています。
(後略)──
僕の腹違いの兄弟が誕生したときの経緯。KN造は、自分の境遇と子どもたちを照らし合せて決断した。しかし、実母から彼らを引き離すという愚は犯さなかった。正解。
KN造は、ST郎が手つきの女中、もしくは外の女に産ませた子だった。ST郎は「情=金=現実」で事を収拾し、KN造はヨシユキ組の次男、MR代の息子になった。そして「知の人」MR代は、嫁いできたときから感じていた「違和感(=もやもや)」の臨界点を自らのなかに抱え込むことになった。彼女の「知=プライド」が、他の女が産んだ子を育てるという事実を許容できなかった。
かくして、わが家の物語は続きます。KN造が幼稚園を放逐されることになる「頭突き」事件の発端。被害者とされた男の子がKN造に発したのが、彼の出自に関する子どもならではの酷い言葉だったとすれば、これもまた納得がいく話です。
妄想の極致。さらに母の述懐は続きます。
「じゃけどなぁ、あの(傍若無人な)パパがなぁ、MR代お祖母さんには、乱暴な口をきいたり失礼な態度をとったことは一切なかったんよ。ほんま、礼儀正しかった……」
とらえきれない、父・KN造の「こころの闇」。その実体はまだ見えないけれど、ひとつ「もやもや」は晴れた気がします。不肖の孫の世迷い言。MR代お祖母さん、安らかに。
(枝葉末節・其の7【さらば幼稚園。その結末】了)
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【脚注】
*1 上代淑:(以下転載)──「神と人とに愛されて其生涯を女子教育の為に捧ぐ」。養子である上代晧三によって墓碑に書かれた言葉である。これほど淑の人生を簡潔に表現したものはないだろう。上代淑は明治4年(1871)に愛媛県松山市で生まれた。父は伊予松山藩士であったが、明治維新後、大阪に出てキリスト教の牧師になったため、家族共々大阪に移った。淑もほどなく洗礼を受け、梅花女学校小学科に入学する。卒業後は、先生として強く望まれ、明治22年(1889)梅花と同じくキリスト教系の山陽英和女学校(現山陽学園)へ赴任した。明治26年(1893)にアメリカのマウント・ホーリョーク女子大学に留学、明治30年(1897)にはバチェラー・オブ・サイエンスの学位を得て卒業し、翌年再び山陽女学校の教師として教壇に立った。当時、洋行帰りのハイカラ先生が来た、とかなりな評判になったという。欧米へ教育事情視察に出かけ、帰国した明治41年(1908)に山陽高等女学校校長に就任した。キリスト教の教義を基本にした淑の教育方針は、愛と奉仕の精神を目標とし、良妻賢母であるだけではなく、幅広い視野を持ち個人として自立した女学生を育成することであったという。大正13年(1924)には、学校の発展のために数々の事業を行い教育に尽くしたことが認められ、叙勲瑞宝章勲六等を受けたほか、大正14年(1925)には、日本人で初めてのファイ・ベター・カバー章を受章した。その活躍と高潔かつ温和な人柄で、山陽高等女学校の名も世間に広く知れ渡り、県外からも多くの入学希望者が訪れるようになった。昭和20年(1945)には岡山空襲で校舎が焼け落ちたが、淑の懸命な努力で岡山市門田屋敷に再興した。昭和34年(1959)11月に病没するまでの51年の間、淑は学園の校長であり続け、遺訓である「愛に生き奉仕と感謝の生活」は今も受け継がれている。なお、山陽学園には、上代淑記念館がある。(出典:「おかやま人物往来」http://www.libnet.pref.okayama.jp/mmhp/kyodo/person/kajiro/kajirio.htm)
*2 梅桃が実るとき:NHK朝の連続テレビ小説「AGR」の原作。ヨシユキAスケの妻AGRの自叙伝。1985年(昭和60)文園社刊。




