枝葉末節・其の4【顔パス。掛け売り】
顔パス。なんか古い言い回し。そんな言葉が幅を利かせていたころ。
黒めがねは、大好きな店で旨いものを食う、こころを通わせた数少ない友だち・知人と愉しく呑み騒ぐ、麻雀を打つ、水商売のおねぇさんたちに囲まれることを好みました。父親は土建業界の覇権を握ることに専心した男。母親は生涯自分を忌避し続けた女でした。両親の興味・感心の方向は、基本自分に向いてはいない。好むと好まざるとにかかわりなく、独りであることの諦観を、幼年のころから思い知らされてきた。だからこそ、今夜も紅灯の巷をさまよう。刹那の遊興、女との情交を求めずにはいられない。しかし宴はかならず終わる。悦楽の果てにある孤独の苦さ。黒めがねは、その意味を細胞感覚で識るエキスパートでした……なんて、回りくどいな……。要は、寂しがり屋の女好きなのです。
「ごちそうさん」
「ありがとうございました。またお越しください」
慇懃な女将の声を背中で聴いて、店を出る。掘り割りの柳並木を撫でる風が、酒で火照った軀にここちよい。
(さて、次はどこへ繰り込むかのぅ……)
いつもの、独りに戻る。黒めがねには、相手が友人だろうが女だろうが、自分独自のテリトリーに、厳然たる線引きがあった。酒宴で弾ける、大好きな玄人のお姉さんたちに囲まれる、または肌を合わせていても、そのスタンスは変わらなかったはず。駆け引きではない。
(干渉せんから、干渉するな)
なんかそんな気分……って……本題に戻ります。黒めがねは、行きつけの店では金を払いませんでした。顔パス=掛け売り。「(勘定は)付けといて」なんてわざわざ言わなくても、「ごちそうさん」または「また来る」のひと言ですんだ時代。かつての日本のひとつの形です。
WEB版『朝日新聞』のコラムから一部転載します(京須偕充 著『落語って、こんなにおもしろい/年の暮れと落語(1)』2007年11月30日掲載 http://www.asahi.com/culture/column/rakugo/kyosu/TKY200711290118.html)。
──(前略)昔の決算期は3月末ではなくて年末だった。
また大きな取引でなくても、
長屋住まいの庶民の味噌や醤油の代金も
その都度の現金払いではなく、掛け売りといって、とりあえず品物を届け、
その明細を帳面に付けておいて毎月の月末に
まとめて支払いを受ける方法が主流だった(後略)──
落語では、大晦日の「掛取り」(借金取り)の攻撃を逃れるために、知恵の限りを尽くして奮闘する長屋者が描かれます。おもしろうてやがて哀しき……という図式です。
わが家の場合、支払いは盆暮れの2回でした。「ボーナス払い」に近い感覚ですね。年2回、一気に押し寄せてくる集金や請求書に母が対応していました。鮨屋・呑み屋・料理屋・BAR・雀荘・洋服屋・呉服屋・天満屋の外商・タクシー等々への支払い。魚屋・肉屋・酒屋・本屋・クリーニングなども同様だったと思います。なかには、「待ち合い=連れ込み=ラブホテル=いまでいうファッションホテル(?)」の請求書もときおり紛れ込んでいた。「黒めがね」ならではの仕儀。母のこころには実に、穏やかならざるものがあったと思います。
はるかな昔の話。「現銀掛け値なし」という有名なキャッチフレーズでのし上がった江戸日本橋の呉服商が、そんな「ゆるやかな」経済活動に一石を投じた。「上等な品物を、コストパフォーマンスを追求したお値打ち価格で提供いたします。ただし、お支払は現金に限らせていただきます」。三越デパート(現・三越伊勢丹)の前身「越後屋」の画期的な販売方針でした。でもまぁ、それは希有なケース。庶民生活に根付いた「掛け売り」は昭和の中盤まで、ふつうのこととして認識されていたと思います。ひとり暮らしをはじめてからの僕は、当然「顔パスなんてありえない」と思っていました。
昭和が幕を閉じるほんの少し前、僕はかつて勤めていた会社の異動で大阪の支社勤務を命ぜられました。大阪時代のあれこれは改めて書くとして、「商都」を彷彿させる街の空気、「こんなヤツがいまもいるんだ」と驚かされた人との出逢いの記憶をたぐります。支社は、転勤者・地元採用の人たちを交えた20人弱の小所帯。そこに1年前に本社から転勤していた、営業のA山がいました。僕の2歳年下。学部は違いますが大学同窓の大酒呑みでした。根っからの関東人であるA山はしかし、「顔パス=掛け売り」生活を大阪で謳歌(?)していたのです。
(とっつきにくそうなヤツだ)
偽らざる第一印象。懐かしいパリっとしたトラッド・スーツを好んだ彼は、呑み屋&ソープランド通いで相当額の借金を背負った「素人童貞(推測)」であると、支社の人たちからウワサされていました。彼も僕との距離を測っていた。しばし互いの牽制期間を経て、おずおずと呑みに行くようになりました。A山は海外・国内を問わないミステリー小説、映画、そして学生ラグビー好き。阪神ファンでアンチ巨人の「ひねくれもの」でした。僕はミステリー小説ファンではありませんが、一気に距離が縮まった。いつのまにかつるんで呑み歩く間柄になっていた。
(干渉する気はない。だから干渉しないでくれ)
「黒めがね」と環境はまったく違うけれども、なぜか懐かしい。いごこちの良い空気を彼は醸していました。
「いくらあんの、借金?」
「どうでもいいじゃん、そんなこと」
「教えろよ、おもしろいから、さ」
「しょうがねぇ酔っぱらいだな……○○○万くらいだよ」
「へぇ~ッ、ほ~ぅ、そりゃ大変だ」
「しったこっちゃない。オレの問題だ、ほっといてくれ!」
酔眼朦朧。とりとめのない話がまた愉しかった。ときは狂乱のバブル時代。A山が日常的に通う北新地の店(呑み屋)のいくつかは、「顔パス。掛け売り」でした。
「ごちそうさん。また来る」
(ほぅ、顔パスかよ!)
とはいうものの、盆暮れ(=ボーナス時期)になると、当然呑み代は回収されました。ハードボイルドだけど憎めないただの酔っぱらい・A山は、泥酔しつつも、誰といつ「掛け売りの」どの店で呑んだかを、内ポケットの手帳にきっちり記録していた。
「ヨシユキさんは○○○○○円だな。Xは○○○○○円、Yは○○○○○円だ」
マメで表裏のない公平なA山の一面を知っている僕たちは、彼がまとめて支払う「掛け売り」分を年2回分けあっていました。サラリーマンの哀しさ。最後が割り勘であるところは、奢ることはあっても、奢られることが嫌いでいられた境遇の黒めがねと、様相は当然違います。でもまぁ、なにくれにおもしろい時代でした。
呑んで呑んでさらに、キタ(北新地)からミナミ(心斎橋~道頓堀・難波)に繰り込む。大阪は複数の歓楽街を擁する大都会ですが、茫漠としてとらえどころのない東京と違って街が実に凝縮されている。「キタからミナミへ」。東京で言うなら、銀座・赤坂から六本木・新宿に流れる感じ。東京との最大の違いは「御堂筋」でした。全長約4km。大阪の中心部を南北に貫くメインストリート。全6車線すべてが南方向の一方通行。ライトアップされた美しい銀杏並木を、酔眼のタクシーの車窓から眺めるのが好きでした。御堂筋の思い出は、あらためて書きます。「キタからミナミへ」は当時タクシーで1000円ほど。多少道が混んでいてもプラスα。地下鉄も充実している。大阪は移動しやすい街でした。
で、余談です。流れた先のミナミのBARで締めて、ようやくのお開き。道頓堀から御堂筋に出る。酔っぱらいの僕は北に向かって歩きます。目指すのは「夜泣きうどん」屋台。元気でした。呑みに呑んで、あげく腹がへる。ラーメン不毛の地だった当時の大阪で、それは、最後の聖地でした。もはや記憶は曖昧ですが、初めて見たときは興奮しました。落語で聴いた……ってことは脳内で妄想していた、江戸時代の流しの屋台そのものでした。もちろん設備は現代(当時)のもの。しかし全体を木でしつらえた外観、電球の光に浮かび上がる木枠に和紙を貼った屋号(忘れました)は、僕にとっては「新し・懐かし」かった。あたりに漂う出汁の香りがまた……。
この店ではいつも「きつね」を頼みました。昆布を効かした関西風の淡い出汁に、大阪ならではのやわやわの麺。噛むだに溢れ出る甘辛の旨味を煮含めた「お揚げさん」と斜めにそぎ切りされた肉厚の青葱がたっぷり。いまどきの樹脂ではなく、本物の丼でした。はふはふ、ふぅふぅ。屋台前の長椅子の一角に陣取って、一心に平らげたものです。懐かしい。
そんな暢気な日々を送っていても、翌日はまた仕事です。
(やばい、出遅れた! タクシーなら間に合うかも)
支社から御堂筋に出てタクシーを止める。
「まいど、おおきに」
夏。大阪のタクシーは冷たいおしぼりを出してくれていました。
(嗚呼、気持ちいい……って、アポに間に合わないぞ!)
われに返ってクライアントへの行き先を告げる。しかし、瞬く間にクルマは渋滞にはまる。
(しまった! 今日は「ごとび」(*)か!)
後悔先に立たず。軽はずみな僕は「ごとび」にやられてしまいます。「ごとび=ごとおび=五十日」。5日・10日・15日・20日・25日・30日──「5」と「10」の日は、商売人の死命を決する集金日でした。街中の商売人がハンドルを握りしめて客先にクルマを走らせる。身動きの取れない街。パソコンでサクサクっと入金しておしまい、なんてバーチャルで儚い世界ではない。現金であれ小切手であれ手形であれ、手にした実体こそが生きている証。
「それが商いや!」
「商都」大阪のエネルギーを痛感した「ごとび」のお話。いまも続いているのかなぁ……。
(枝葉末節編・其の4【顔パス。掛け売り】了)
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【脚注】
*ごとび:大阪ならではの言い回しだそうです。




