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枝葉末節・其の2【 Hey,Taxi!】

 岡山市・城下しろした交差点。岡山駅から東に延びるメインストリートを走る路面電車は、そこで分岐して左右に大きくカーブ(*1)する。交差点正面の急坂を登れば一気に眺望が開け、ゆるやかに蛇行する旭川を挟んで右に岡山城、左には後楽園が望める。かつて天神山と呼ばれた高台の下。クルマの往来もまだ穏やかな昭和30年代初頭(1955~1960年ころ)。


 黒鳶くろとび色の半着に軽袗かるさん、袖無し羽織(*2)姿の老人が、中央を路面電車が走る大通りを渡っていく。ヨガの行者を思わせるような痩せぎすのシルエット。みごとなまでの禿頭とくとう(=ハゲ頭)、胸まで伸びた白髭が春の風にあおられて揺れる。足下は白足袋に草履、手にしているのは仙人杖せんにんじょう(*3)。昭和30年代とはいえ、その出で立ちはさすがに目立つ。特筆すべきはその姿勢の良さ。飄々としていながら、ふしぎな風情を漂わせている。


 老人は、クルマなど目に入らぬかのように歩みを止めない。


「爺ぃ、なんしょんなら!」(爺ぃ、なにやってんだ)


 老人の鼻先をかすめようかと思われたトラックが、運転手の罵声とともに急ブレーキをかける。信号無視だ。しかし老人が一瞥すると、運転手は舌打ちしながらも、なぜか次の言葉を呑み込んでアクセルを踏み込んだ。くぼんだ眼窩の底に光る猛禽のような瞳。運転手はそれに怯んだとしか思えない。老人は大通りの通行を見切っていた。崩れることのないリズム。腰を微かに落とした能を彷彿させるすり足。杖はついているが、それを頼りにはしていない。悠々と見えてその実、歩みは速い。信号なんか関係ない。電車やクルマの動きはすべて見えている。


(練達の剣士の一撃に比べればとるに足らん)


 戦前、大日本武徳会(*4)から剣道家の最高称号である「範士(*5)八段」を授けられた老人。左近太(*6)が編み出したOK村二刀流の正統の後継者、僕の母方の祖父・OK村寅吉。浮世離れした老剣士は、交差点の北、弓之町から番町に向かう坂道をたんたんと登っていく。


「TM、TMはおるか!?」


 三番町、ヨシユキ組。日中は鍵のかかっていない門を抜け、玄関ではなく庭に通じる木戸を開けて寅吉が母屋の母・TM子を呼ぶ。嗄れ声の大音声。庭にいた近所で評判の、無敵の喧嘩犬・柴のハチの尾が下がる。一目散に犬小屋へ退避する。


(この老人には到底敵わない……)[犬の思い?]


「まぁお父さん、いらっしゃい」


「おったか(いたか)。息災か?」


「はい」


「それなら、えぇ」


「今日はどうされたんですか」


「おぉそうじゃった、また使えんかったぞ」


 寅吉が信玄袋から取り出した紙片を母に見せる。


「お父さん、何度も言うた(言った)でしょう。期限がすぎたんは(過ぎたものは)使えんのですよ。じゃから(だから)、いつも新しいのをお渡ししとったのに」


「そうじゃったかのぅ……」


「今度お使いになるときは、まず私に言いつけてください。新しいんをお渡ししますので」


「ほうか(そうか)わかった。また来る」


 80歳を超えてなお矍鑠とした老人は、「お茶でも……」という母の声を聞き流し、何ごともなかったかのように去って行く。老人の家はヨシユキ組と同じ町内だった。


 寅吉が母・TM子に示したのはヨシユキ組のタクシーチケット。岡山市内のタクシーすべてに通用する。50枚とか100枚で綴じられていて、ミシン目で切り離して、降車時に運転手に渡す。使い切り精算が済んだ控えを母からもらい、切符に見立てて、僕は独り遊びの電車ごっこなんかをしていたような記憶があります。このチケットの一大消費者は父「黒めがね」KN造でした。当時の岡山市の人口は30万人程度。タクシーが何台走っていたかはわかりませんが、父は「あの人(黒めがね)を知らんやつはモグリじゃ」と運転手たちに噂された男でした。


 僕を連れた黒めがねが流しのタクシーを止める。乗り込むや即座に反応する運転手。


「あッ、毎度ありがとうございます。どちらに行かれます? 三番町ですか? 田町のお宅ですか?」


 何も言わずとも、運転手は基本的な行き先を知っている。三番町はヨシユキ組(わが家です)、田町はもうひとつの家のあったところ。(田町じゃねぇ三番町じゃ)とこころのなかで言ってみる。


 子どもごごろにちくりと刺さる、ふたつの家で暮らす父の現実でした。


「三番町へやってくれ」


「かしこまりました」


 街の中心部から家に帰るタクシーは、柳川筋を北へ進み裁判所をすぎた消防署の角で疎開道路に入る。もしくは路面電車番町線に並行する城下筋を登り電車終点付近で右折していたように思います。大好きな麻雀、酒、女と、多忙を極める黒めがねはタクシーを使い倒していました。わが家から出発するときは、大好きな鮨屋、お気に入りの雀荘もしくはBAR(現在のクラブに相当します)、田町方面が、お決まりのコースになっていました。


 母のことなど気にする素振りもなく盛大に遊んでいた黒めがねですが、時折態度が変わりました。それは、父の女問題で母がひどく落ち込んでいるとき。基本的に口答えしない母が、涙ながらに父に抵抗する姿勢を示したときでした。ダシにされるのは僕でした。


「もぅえぇ、おめぇは黙っとれ(黙れ)! そうじゃ、チビ(僕のことです)を天満屋にでも連れて行くか」


 天満屋は、いまは女子駅伝で有名ですが、かつての岡山人にとっては特別な場所でした。創業は江戸時代の1829年(文政12)。大正時代に百貨店となり表町商店街の中心に進出。地上7階・地下1階の鉄筋コンクリート造りのビルは、岡山市のランドマークでした。岡山初のエレベーター、エスカレーターもこの店に設置されています。上階には大食堂、劇場・ホールを備え、屋上は遊園地になっていました。懐かしいです。後年、岡山駅前に高島屋が進出するまで、まさに岡山の消費のシンボルだったのが天満屋です。両親の諍いを目の前にして気分が塞ぐ僕。しかしガキの哀しさ、「天満屋」というフレーズがズドンと胸に突き刺さります。よそ行きに着替えさせられ、呼んだタクシーに乗せられる。エスカレーターが運んでくれるおもちゃ売場は、ガキにとっては夢の世界でした。


 黒めがねは僕を、お気に入りのBARにも連れて行きました。いま思えば、小股の切れ上がった乙な美人のママがいて、いい匂いのするきれいなおねさんたちがたくさんいました。ママは当然黒めがねの女です。


「ジュース飲む? チョコレート食べん(食べない)?」


 珍しいガキの客を取り囲むおねぇさんたちにちやほやされるのは、悪い気分ではありませんでした。


 霞のようなものがかかって判然としない記憶ですが、どこかの小さな一軒家に黒めがねといたことがあります。夏でした。窓は開け放たれ扇風機が回っていた。ノースリーブの顔のない女の人が冷たい飲み物を出してくれた。話しかけられたはずですが、何も覚えていない。そこにいるのに、陽炎のように実体を感じられない黒めがねは、団扇を使いながら寛いでいた。当時囲っていた女のひとりだったのでしょう。霞がかかっているのは、その部屋の空気がいかにも艶かしかったから。


 BARまではわかるとして、黒めがねはなぜ「夏の家」に僕を連れて行ったのか。興味は尽きません。しょせんは、どうしてもその日会いたかった女の「ダシ」だった、というだけの話かもしれませんが。


「おい、タクシーを呼んでくれ」


 天満屋だろうがBARだろうがなんだろうが、「ダシ」の僕は家に帰らなければならない。


「お待たせしました。毎度ありがとうございます」


「三番町にやってくれ」


 運転手との、いつものやりとり。


「ぼうや、また来てな!」


 おねぇさんたちに見送られ、独り後部座席に乗せられる。ドアが閉まる瞬間が嫌いだった。


「じゃ、さよなら」


 黒めがねは別れ際に必ずこの言葉を発した。今夜黒めがねは家にいない。それはわかっている。明日の夜、いつものように僕が寝入ってから帰ってくるのだろうか。説明のつかない感情が僕を揺さぶった。タクシーは間違いなく僕を家まで運んでくれるだろう。でも心細かった。ウィンドウ越しの黒めがねはまた、現実感のない陽炎になっていた。


 親子兄弟であれ男女であれ人間の関係性はそもそも儚い。「別れ」をつねに内包しているのが人というもの。「別れに備えよ」、なんてことを黒めがねはガキの僕に伝えようとしていたのかもしれません。なんちゃって、そんなことも妄想させる一面を持つ男でした。この話を母にしたことはありません。言えば泣くのがわかっていたからです。まぁ、遠い昔の話です。


てなわけで、話は続きます。


(枝葉末節・其の2【 Hey,Taxi!】了)


―――――――――――――――――――――――

【脚注】


*1 左右に大きくカーブする:路面電車「岡山電気軌道」は1912年(明治45)開業。1921年(大正10)には城下から左にカーブする、弓之町を経て番町に至る「番町線」が開業(1968年[昭和43]廃止)。現在は右にカーブする「東山本線」が運行しています。


*2 半着に軽袗、袖無し羽織:(以下編集引用)この出で立ちは池波正太郎のベストセラー『剣客商売』の主人公・秋山小兵衛そのものです。半着は、作務衣の上着の丈を長くしたような形で、着物のように裾をたくし上げて袴を着用する必要がなく、腰回りがスッキリとして動きやすい。(出典「美夜古企画サイト」http://www.samue.co.jp/hangi/hangi.html )/かるさん(軽衫・軽袗)。(以下転載)はかまの一種。上を緩めに仕立て、裾口に細い横布をつける。中世末に来日したポルトガル人のズボンをまねたもの。武士から町人まで着用したが、江戸時代には町人の労働着となった。現代でも農山村や寒い地方で野良着として用いる。裁っ着け。カルサンばかま。(出典:コトバンク「日本大百科全書」 https://kotobank.jp/word/軽衫 )


*3 仙人杖:古来から仙人や七福神の神様が持っていたという縁起のいい杖。(参考資料:「木あそび[あかざの杖]」http://www.geocities.jp/kinomemocho/kiasobi_akaza.html )


*4 大日本武徳会:(以下転載)戦前の日本で、武術・武道の振興、教育、顕彰を目的として設立された財団法人。(出典:ウィキペディア(Wikipedia)フリー百科事典「大日本武徳会」最終更新 2017年1月15日 (日) 07:19 https://ja.wikipedia.org/wiki/大日本武徳会)


*5 範士:(以下転載)範士(はんし、英:Master)は、武道における称号の最高位。下位の称号に「教士」と「錬士」がある。表記の仕方は、称号の上に取得した武道の名称を付す(〔例〕「剣道範士」)。取得称号及び段位を表記する場合は、称号の下に段位を付す(〔例〕「範士八段」)。(中略)【全日本剣道連盟の範士】一般財団法人全日本剣道連盟は、次の資格を具備する者に審査を経て剣道および居合道、杖道の範士号を授与している。[1]範士は、剣理に通暁、成熟し、識見卓越、かつ、人格徳操高潔なる者。[2]教士八段受有者で、八段受有後8年以上経過し、加盟団体の選考を経て加盟団体会長より推薦された者、ならびに全剣連会長が適格と認めた者。これに加え、[1]剣道人として実践してきた実績。[2]指導者としての実績。[3]論文、講演録などの専門的業績。[4]人物、識見、剣理に対する評価。[5]剣道およびその他、武道修業全般に関すること。の事項について予備調査が実施され、審査員10名中8名以上の合意により合格となる。合格者名は全剣連の広報紙『月刊剣窓』および剣道専門雑誌の『剣道日本』、『剣道時代』にて公表される。(以下略)(出典:ウィキペディア(Wikipedia)フリー百科事典「範士」最終更新 2016年10月11日 (火) 17:40 https://ja.wikipedia.org/wiki/範士)


*6 左近太:「小説を読もう」掲載の拙著「評伝「左近太」「左近太・外伝」http://yomou.syosetu.com/search.php?word=夏ヨシユキ&genre=&type= もしくは拙著ブログ「WEB版軽はずみ備忘録【1】左近太/左近太外伝」まとめページをご参照ください。http://rash-mem.jimdo.com/

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