枝葉末節・其の17【さらば岡山二中・其の3】
「KN造ぼっちゃん、お目覚めですかいのぅ」
午前7時前。障子越しに、女中が声をかける。
「おぉ、起きとる」
黒めがねKN造は、寝起きがよかった。早朝、自室前の廊下を覆う雨戸が女中たちの手で開け放たれる音、差し込む光、空気、鳥のさえずりを待つまでもなく蒲団から起きあがり、寝衣を脱ぎ捨て、枕元に整えられている岡山二中の制服をまとっていた。口漱ぎ、顔洗い、はばかりもすませている。母親から干渉されない、というより、一切興味を示してもらえない自分の境遇を詛うことは、遥か昔──幼稚園児のころ──に忘れ去った。忘れるしかなかった。しかし、KN造付きの女中が、あれこれと世話をやく。幼いころの、添い寝の女中、〝女〟の感触は、こころの裡に確かに残っている。ほんの先年、中学生になるころまで、KN造は、身支度を女中のなすがままに任せていた。寝ぼけ眼で立っていれば、いつの間にか学校へ出かける準備は整っていた。それが、なぜかいまは……。
あのとき。いつものように、何代目かのお付きの女中「たね」の世話に身を任せていた。いきなり、その変調は訪れた。KN造の前にひざまずき、着物をまとわせ、帯を締めようとする「たね」の姿態。張りのある肌、まっすぐな目もと、蕾のような唇、そして、着物に隠された胸の膨らみ。目の下の光景がモノクロから極彩色に一変した。すべてが弾けた。漲った。説明しようのない感覚だった。
「もうえぇ、ワシがやる」
KN造は「たね」から帯を奪い、あたふたとそれを締めた。その日から、女に触れられることを拒んだ。「たね」はKN造の2歳年長。小作の親兄弟を扶けるために小学校を辞め、郡部から岡山のYSYK組に奉公に出た。山出しの娘が、行儀作法を教わり、あれこれあって、いつの間にか〝女〟に変態しようとしていた。寝乱れた敷布・寝衣を洗濯用にまとめ、蒲団を片付ける。てきぱきとしたいつもの後ろ姿、知らぬ間に豊かになっている腰、うなじ、後れ毛をかきあげるふとした仕草が、あのときから、KN造を漲らせる。(見るな)と自分に言い聞かせても、目が女を追う、軀の芯が反応する。バツが悪かった。漲る自分を抑えるために、「たね」に背を向け、しばし庭を眺める風情で廊下にあぐらをかいて座ることが日課になった。
夕方、帰宅したKN造が角帽を目深にかぶり、そそくさと自室に直行した。常備してあるオキシドール、ヨードチンキ、脱脂綿、ガーゼ、絆創膏で、その日の喧嘩傷を、自分で始末しようとした。喧嘩上等小僧はまた、用意周到でもあった。
「ぼっちゃん、おられますね。入ります」
答えるいとまもなく障子が開き、「たね」が一礼して、KN造の前に座る。額の傷を確認する。
「やっぱり、またこんな傷をつくられて……。じっとしとってつかぁさい。私がやりますけぇ」
「うるせぇ、あっちいっとれ」
KN造の一喝など関係ない。「たね」がにじり寄る。事を想定して持ち込んだ手桶の水を洗面器に移し傷口を洗う。オキシドールをしみ込ませた脱脂綿で傷口を消毒する。
「痛ぇッ」
「ちぃッと我慢してつかぁさい。痛ぇでしょうけど、これでしまい(終わり)、ちゃあんと治るおまじないをしますけぇ」
かいがいしく手当てしていた「たね」の手が、刹那ゆるんだ。その口もとからいきなり、紅い舌が……。ぺろり、出した、その紅い妖しい物体を丁寧に撫でた人差し指で、ヨードチンキを塗った額の傷口を柔らかくなぞった。
(なにするんじゃ)
指先と生ぬるい粘液の感触。「たね」の行動に、KN造は思考停止に陥った。いたずらっぽく笑う口元からこぼれる白い歯。その奥に、ぺろり、出した「女の、紅い舌」が……。KN造はその光景を振り払おうと、目を閉じる。手を伸ばせばそこにいる「たね」から漂う、思春期の女の匂い。それは、凶暴とも思える攻撃力で、鼻腔から脳髄に突き抜けた。
(生臭せぇ)
「大丈夫じゃ、もうえぇ……ありがとな」
噴き出そうとする情動を必死に抑え隠し、KN造はその場を取り繕った。めったにない、感謝の言葉を口にした自分に驚いてもいた。
「明日ん朝、脱脂綿とガーゼを替えて差し上げますけぇ」
傷口を嘗めんばかりに密着していた、さっきの「たね」が一変している。何ごともなかったかのように一礼し、障子を閉めようとして、KN造に上目遣いの視線を送った。艶然。意味もまだ知らない感覚が、のど元に突きつけられる。
(女……化けもん……)
抑えきれない感情・衝動のすべてを喧嘩に懸けていたKN造が、新たな好敵手に目覚める秋。実体としての〝女〟、人生を懸けてまみえることになる、畏るべき対手が、すぐそこに迫っていた。
KN造が通う岡山二中は、岡山市を南北に貫く旭川の東南岸、網浜という地区にあった。市の中心、人口密集地域は西岸なので、多くの生徒は旭川を渡って登校することになる。大正末年から昭和初年当時、川の東西を結ぶ橋は、市街北端に架かる鉄道橋を除けば、3本しかなかった(*1)。死闘の対手・則武の実家、出石町の鶴見橋は、名勝・後楽園に渡るための橋。続く相生橋は岡山城の外郭に架けられた、第六高等学校へ続く橋。そして最南端が京橋。江戸から明治にかけて、諸国の物産が集積する川湊として栄えた場所に架かる鉄骨橋。岡山県の道路の起点であり、路面電車が通る大橋だった。位置関係から類推すると、二中の生徒の多くは徒歩、もしくは電車に乗って京橋を渡り、学校に通っていたはず。KN造の6歳下の後輩にあたる、二中出身の直木賞作家・柴田錬三郎のエッセイで読んだ記憶(あれこれググってみたのですが、読んだはずのサイトに行き当たりません。本も特定できない。申し訳ないです)。
──(儚い記憶による記述です。シバレン先生お許しを)
二中に通うためには、歩くにせよ電車に乗るにせよ、京橋を渡らねばならなかった。
そして、橋の下には「中島」が横たわっていた。──
「中島」は、明治初年から続く遊廓だった。武家の街、江戸は大火を契機として、遊廓=吉原を市街北東の辺境(浅草の北・吉原田圃)に移設した。しかし、当時世界最大だった100万都市・江戸は、幕府の野暮な施策をものともせず、粋で豪奢な遊廓文化を育んだ。京の島原、長崎の丸山。歴史に残る西日本の遊廓も、江戸ほどではないにしろ、なんとなく市街のはずれに位置している。しかし、商都・大坂の様相は、まったく異なっていた。江戸の吉原、京の島原と並ぶ三大遊廓のひとつ、大坂の遊廓=新町は、経済活動の中心である船場と、掘割・西横堀川を隔てるだけの街中に鎮座していた。「京の女郎に江戸吉原の張りをもたせ、長崎丸山の衣裳を着せて、大坂新町の揚屋で遊びたい(*2)」と、遊客に称えられたその賑わいは、吉原、島原を凌ぐともいわれていた。
西鶴・近松に代表される江戸初期の浮世草子、戯作の名作を生んだ街。日中は、あふれんばかりの人波──大人も子どもも、男も女も、商売人も侍も──が行き交う。そして夜は、男と女の地獄極楽をいろどる無〈間・幻〉の紅灯が街を染める。豊臣秀吉の時代から昭和の後半までの約400年あまり、「天下の台所」として日本経済のエンジンを担った「大坂人」のエネルギーというか、「みぃんな好きなんやから、隠してもしゃぁない」という、フランクだけれども、リアリスティックな覚悟すら感じられる街だった、と妄想する……なんちゃって、閑話休題、岡山の中島遊廓に話を巻き戻し。
中島遊廓。物産の集積地である川湊を要する、繁華な町に架かる大橋・京橋のたもと。牛の舌のような形で南北に伸び、並ぶ、ふたつの中州、西中島と東中島に、最盛期には120軒あまりの妓楼が蝟集していたといわれる色町。かつての大坂と同様に、人びとが旺盛に行き交う場所に、それはあった。早朝に前夜の客を送りだし、娼妓たちがひとときの安眠に身を委ねている時間、頭上に横たわる大橋を生徒たちが往く。この橋を渡るのは二中生だけではない。岡山県師範学校、岡山県商業学校、そしてKN造の母・MR代の母校であるお嬢さん学校・山陽高等女学校、おまけに師範附属小学校の生徒たち。
敗戦後、皇族の学習院大学への通学路にあたる、東京最大・新宿の私娼街(青線)を仮設の塀で覆い隠し、やんごとなき身の目に触れぬようにした、なんて故事を聴いたことがある。しかし、岡山は違った。あっけらかん。朝は男女の閨の営みの残り香、艶かしい空気が湧き立つ。夕刻は、夜の支度に余念のない、娼妓たちの化粧の脂粉香が漂う。秘密めいた紅灯が中州の街を照らし出す。現代なら小・中・高生が毎日、そんな悪所の上を日々往きかっていたことになる。
──(儚い記憶によるシバレン先生の記述ver.2)
遊廓について特段の思いはなかった。
ただ、二中はなぜ生徒に、そこ(京橋=中島)を渡らせようと考えたのか。
どうでもいい話だが、ふと考えてしまう。──
確かに変な話。勉学をモットーとする(はずの)子どもたちに、人生の深淵の一端を感じさせようとした(?)なんてことを考えていたとしたら、当時の岡山のお役人様たち、教育行政官に拍手を送りたい。
西大寺町で左折した路面電車が京橋に差しかかる。チンチン! 車掌が通行人、車馬への警報の鐘を鳴らす。ガタゴト電車は揺れる。つり革につかまったKN造の視界を、中島が揺れながら横切る。角帽の下には、今朝「たね」が貼り替えた真新しいガーゼと絆創膏。学校まではもうすぐだった。
(枝葉末節・其の17【さらば岡山二中・其の2】了)
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【脚注】
*1 3本しかなかった:「デジタル岡山大百科」http://digioka.libnet.pref.okayama.jp に掲載されている1911年(明治44)の「岡山市明細地図」による。鶴見橋、相生橋の架橋年については諸説あるようですが、本稿ではこの地図に従いました。
*2 ……大坂新町の揚屋で遊びたい:「Tenyu Sinjo.jp 天祐 神助」http://tenyusinjo.web.fc2.com/sinmatiyukaku/5sinmatisikumi/sinmatisikumi.html に、当時の大阪新町の繁栄ぶりが描かれています。