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枝葉末節・其の16【さらば岡山二中・其の2】

「則武がヨシユキにやられたらしい」


「一対一の血闘じゃったらしいで」


「違うで、ヨシユキが闇討ちしたんじゃ」


「いやワシは、則武が手下を連れのうて(一緒に)襲ぅて、返り討ちされた、いうて聴いた」


 口性ないウワサが瞬く間に校内に満ちた。KN造はもちろん、あの朝の出来事について、ひと言も口にはしなかった。新学期になっても則武は学校に姿を現さなかった。1カ月が過ぎ、2カ月目を迎えようというころ、「則武が退学届を出して、魚屋になりょおった(なった)」という話が、風に舞って聴こえてきた。


 5尺6寸(約170cm)。赤点すれすれで進級したKN造の軀は、次第に大きくなっていた。1916年(大正5)の17歳の平均身長が160.0cm(*1)であることを考えると、10年ほどの差はあれ、当時とすれば、大柄な少年になっていた。丸顔だった面立ちは次第に面長に変貌した。色白。整った眉と、斜視ではあったが切れ長の瞳。すっと通った鼻筋に少年ならではの紅の唇。


 そんな自分の相貌を、KN造は嫌悪していた。荒ぶるこころとは裏腹の〝優男〟と見られることを屈辱と感じていた。そして覚られることを畏れていた事実。近視に乱視。なんとなくの輪郭と雰囲気を判別し、顔をしかめ、目を細め、無理矢理焦点をあわせて対象物を確認する。当然目つきは悪くなる。必然的にいらざる敵が増える。正直、喧嘩相手の顔も、鼻突きあわせる距離になって、やっとリアルに識別できる感覚だった。解決策は眼鏡だが、そんな弱みをさらすわけにはいかなかった。ともあれ、校内武闘派軍団の頭目のひとり、則武に勝ったやつ──岡山二中の噂雀の、KN造を見る目が変わった。そして、復讐に燃える一団がいた。


「やられた。ワシはもうしまい(終わり)じゃ。学校を辞めて家を継ぐけぇ、それしか道はねぇんじゃ」


 春休み。路面電車旭東線の終点「東山」から西大寺に続く街道を登り、深い森を抜けた先の招魂社(現・護国神社)。則武に呼び出され、そう告げられた軍団は色めき立つ。


「ワシらを見捨てる、いうんですか。大将を失のうて、どうせぇいうんじゃ」


「……すまん。後は、春日井、お前ぇに任せる。お前ぇが大将になりゃあ、他のヤツらには負けん。で、玉出、お前ぇは知恵が回る。ワシはよう知っとるし、お前ぇ自身もわかっとるじゃろう。力と知恵を併せて二中を支配せぇ」


「則武さん、えぇ気なもんですのぉ。ほんま(本来)なら、頭とはいえ、制裁受けてもらわにゃあ済まされん話じゃ」


 頭に指名され、頬を紅潮させる春日井金蔵を遮り、同じ副将格として闘ってきた玉出幸太郎が、則武を見下す風情で皮肉な言葉を放つ。かねてより、大将・則武にもずけずけものを言う男だった。


「おぉ、覚悟はしとるで」


 猪突猛進だが、図抜けた腕力を誇る面倒見のよい親分肌の春日井。頼りにはなるが、手段を選ばない怖ろしい一面を垣間みせる玉出。こころの奥底が読みとれない男、玉出が言葉を継ぐ。


「ま、えぇわ、勘弁しちゃる。あんた……魚屋殴っても一文の得にもならんけぇのぅ。ほんならこれで、サイナラ、いうことにしましょうや」


「玉出、則武さんに、なんちゅう口をきくんじゃ。則武さん……ワシはぜってぇ(必ず)天下とりますけぇ」


 春日井が直立不動で宣言する。


「おぉ、そうしてくれ。じゃが、ワシの仕返しはせんでえぇからな、えぇなお前ぇら」


「命令される筋合いは、もうねぇじゃろう。後はワシと春日井でやりますけぇ、あんたは魚と遊んどりゃあえぇ。おめぇら、則武さんの見納めじゃ、さぁ行くで」


 玉出に促され軍団が立ち去る。春日井が振り返り、角帽の鍔に手をかけ会釈した。則武は、彼らの姿が遠く深い参道の森に消えさるまで、社殿を背にして立ちつくしていた。


時代は大正から昭和へ移り変わろうとしていた。KN造の父、ヨシユキST郎が岡山県土木建築業組合の初代組合長に推挙され、業界の第一人者として君臨するという、年来の夢が実現しようとしていたころ。


 またまた「国立国会図書館デジタルコレクション」で、当時のわが家の実体を活写した『岡山縣興信録 第一輯(集)』(1924年[大正13]岡山興信所 刊)という本に巡りあった。岡山県の実業家・政治家・軍人・法律家・教育者・医師・文化人・宗教家など363名の事蹟、その人となりをまとめた人名録。そこに示されたST郎の項を転載する。以下、年号を除く( )は筆者による注記。記載はできる限り旧字を使用。


 ──(以下転載)

 ヨシユキST郎氏

 岡山市桶屋町四三 電話八二二

 鐵道省指定土木建築業請負業 ヨシユキ組主


 御津郡金川町大字草生(*2)の人、明治二年拾月五日呱々の聲を揚ぐ、

 郷里小學校を卒えて赤坂郡立中學校に入り、三學年修業中廃校となり、

 岡山雲菡おかやまうんかん會舎にてんじ、漢學を修む、

 明治二十八年に至り、土木請負業に從事し、

 四國九州は勿論、遠く朝鮮、北清(中国東北部)に在りて

 土木建築の工事に從ひ、同業者間に頭角を現はし、

 技量は他の追随を許さヾるものあり、鐵道省指定工事請負人として今日に至り、

 専ら鐵道工事請負に從事し、現在岡山驛改築工事に伴ふ

 地下道工事及築地工事に當(当)り、堅實なる發展を爲す、

 人と爲り雄偉義氣(*3)に富み、く部下を愛し、好飲斗酒尚辭せず、

 家庭はMR代婦人(四九)長女YS子嬢(三○)は新進刀圭家(*4)

 NK島KS男氏に嫁し、一男二女を擧げ、

 醫業(医業)益々發展の途にありしが、

 不幸二竪の犯す所(*5)となりて、大正十二年一月良夫長逝、

 家にありて子女の教育に藎力(尽力)す、長男A助君(一九)は

 東京目白中學校(*6)三年級修業中、家庭の都合より退學して、

 父業を扶け(助け)文學の研究に餘念[余念]なく、

 二男KN造君(ー四)は縣立第二中學校に通學す

 (転載終わり)──


「わが家の実体を活写した」と書いたが、家族に言及している後半がポイント。僕の祖父であるST郎の、実業家としてのプライドが見え隠れする。おもしろいけれど、ちょっと哀しい。そしてこれは、「小説を読もう」掲載の拙著「『御大』壱 ヨシユキST郎」(http://ncode.syosetu.com/n7188cz/)で紹介した『新日本人物大系 産業人物篇』(中西利八 編・1936年[昭和11]東方經濟學會出版部 刊/2002年[平成14]日本図書センターから復刻刊)の、まさに底本であることがよくわかった。


 長女YS子が医師NK島KS男に嫁ぐも夫を病で亡くし、父・ST郎の庇護のもと、子どもたちの養育に専念している、というのは間違いなし。笑っちゃうのはその後。「長男A助君(一九)」──岡山一中に見切りをつけて早々に自主退学し、東京と岡山、そして大陸(中国)を気ままに遊弋ゆうよくするダダイスト詩人・小説家、ペンネームAスケ。人名録に掲載されるにあたり、聡明を謳われ、実業家として大成することを嘱望された跡取りの苦々しい現況を、精一杯糊塗しようとするST郎が選んだフレーズ「父業をたすけ……」が、彼の無念をよく表している。そして「二男KN造君(ー四)」は、確かに岡山二中に在学しているが、憑かれたように喧嘩の渦中に身を投じている。現実は厳しい、おまけに哀しいなぁ……。


 とはいえ、僕にはこの『岡山縣興信録 第一輯』で発見があった。これまでに何度か、祖父ST郎の相貌にふれた。子どものころから見ていた実家の写真額。自信と威厳に満ちた、穏やかな表情……それはおそらく、1930年代初頭の60歳代前半であると推測する。一転、前出の『新日本人物大系 産業人物篇』(1936年[昭和11]発行)に掲載されている67歳当時の写真は、僕がそれまで知らなかった、険しいというか、苦渋を腹にかかえこんだような形相だ。以前書いた文章を再録する。


 ──1930年(昭和5)ころから、

 太平洋戦争がはじまるころまでの約10年間が、

 ST郎の絶頂期だったと思っています。──


 巨大な旧勢力が表舞台を去るときがきた。気働きの限りをつくし、慎重に慎重を重ねて軋轢を避けながら、ようやくたどり着いた業界第一人者=「御大」という地位はしかし、万全ではなかった。台頭してきた新興勢力が、戦争を契機に一気に勢力を拡大し、御大・ST郎の牙城を着々と突き崩していく。苦い形相は、そんな考えたくない近未来を予感した結果なのかもしれない。しかし、同書掲載の写真には驚ろかされた。発行当時54~55歳。面長、色白、秀でた額、整った眉と切れ長の瞳、すっと通った鼻筋……ST郎は、50代には見えない二枚目(*7)なのだ。オールドスタイルのタイトな襟ぐりのジャケットに、ラウンドネックのシャツとネクタイ。それは現代にも通用する、洒落者の男前。彼を知らなければ、とても土建屋の親玉には見えないのだ。


 ST郎の千々に乱れる思いをよそに、見た目の形質は、みごとに長男・Aスケと次男・KN造(=残念な息子たち)に受け継がれた。しかし、実業家として必須の形質は、これまたみごとに受け継がれなかった。皮肉な話だ。


またまた、とっちらかってしまった。話は続きます。


(枝葉末節・其の16【さらば岡山二中・其の2】


―――――――――――――――――――――――

【脚注】


*1 平均身長が160.0cm:文部省(現・文部科学省)「学校保健統計調査」による。(出典:「学校保健統計調査」http://www.pure-supplement.com/shintyo/002.html )


*2 御津郡金川町大字草生:みつぐん・かながわちょう・おおあざ・くそう。現・岡山市北区御津草生。


*3 雄偉義氣:(以下転載)「雄偉」(ゆうい)は、たくましくすぐれていること。(出典:YAHOO!辞書「デジタル大辞泉」ttp://dic.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=kb&p=雄偉&dic_id=all&stype=full)/「義氣(気)」(ぎき)は、正しいことを守り行おうとする意気。義侠心。(出典:YAHOO!辞書「デジタル大辞泉」http://dic.search.yahoo.co.jp/search;_ylt=A2Rivcm_PZxYCR0ANFpUmfd7?p=義気&stype=full&aq=-1&oq=&ei=UTF-8)


*4 刀圭家:とうけいか。医師。


*5 不幸二竪の犯す所:ふこうにじゅの……。正しくは「不幸二竪の冒す所」。(不運なことに)病気・病魔におかされること。


*6 目白中學校:[1][2]に分割。

[1](以下、出典掲載内容を基に筆者が記述しています)旧制目白中学校。現・中央大学(杉並)附属高校の母体。1898年(明治31)に創設された、実質的半官半民の汎アジア主義団体「東亜同文会」が運営した学校。同会は、上海に設立された東亜同文書院(後に大学として認可)の経営母体であったことでも知られる。結果的に、大日本帝国のアジア進出思想の尖兵と成り果てた感があるが、同時に、欧米からの自立・独立という、アジア解放理論を構築・実践したという側面は忘れてはならない。少なくとも、上海・東京の学校では、中国人(を中心とする周辺国の人びと)と日本人の学生・生徒が机を並べ、膝を突き合わせてアジアの未来に思いを馳せ議論を交わしていたことは間違いない。(出典:ウィキペディア(Wikipedia)フリー百科事典「目白中学校(旧制)」最終更新 2015年5月23日 (土) 13:50 https://ja.wikipedia.org/wiki/目白中学校_(旧制))

[2](以下、出典掲載内容を基に筆者が記述しています)1927年(昭和2)から1931年(昭和6)まで東亜同文書院の教授を務めていた経済史学者、後の京都大学名誉教授・穂積文雄の弟子たちによる追悼文をまとめた『經濟論叢』第125巻・第3号(1980年[昭和55]3月 京都大學經濟學會 刊) に、おもしろい記述がありました。経済史の泰斗である穂積教授は、当時、一面で世界を席巻していたマルキシズムとは、はっきりと一線を画していたが、その淵源のひとつである「ユートピア思想」には大いに共鳴していた。以下は、浅学非才な僕の斜め読みであることをお断りしておきます。寄稿した弟子の先生方、申し訳ない。──歪な形で世界を覆いつつあった偏狭なマルキシズム、ナショナリズムへの対抗軸として、穂積は「ユートピア思想」と、そこから派生した本来的な意味での「アナキズム」(根本的にすべての侵害に反対し、自衛または非暴力を主張する)の蓋然性を重視していた。「自由とロマン」。ジェノサイドともいえる世界大戦を間近にした、アジアの片隅の学校で、そんな甘美な議論が、教授と学生たちの間で真剣に交わされていた。浮世離れしている、とは思います。そして、大日本帝国にとっては、ただの危険思想。しかし、経営母体である「東亜同文会」は、あらゆる思想を内包し共存させることを選択した。実におもしろい学校(大学と中学校)です。アナキズムの洗礼を受けたダダイスト=伯父Aスケが、一時の寄港地として目白中学を選んだ理由も、なんとなくわかる気がします。(出典:『經濟論叢』第125巻・第3号 http://www.econ.kyoto-u.ac.jp/ronsou/10006177.pdf )


*7 二枚目:もしST郎の風貌にご興味があれば、「国立国会図書館デジタルコレクション」所収の『岡山縣興信録 第一輯』http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/918877 [82P=50コマ]をご参照ください。

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