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枝葉末節・其の15【さらば岡山二中・其の1】

 喧嘩道・不良道まっしぐらのKN造ですが、なにはともあれ受験して岡山二中に受かっている。僕は父・黒めがねKN造に「勉強しろ」なんて言われたことは一度もない。勉強を教わったこともないし、それに類する空気を感じたこともない。


(おめぇの人生じゃ、好きにせぇ)


 そういう人だった。唯一忘れられないのは、


「(将来お前が)なんになってもかまわん。ただな、ダンサーにだけはなるな」


 というひと言。どうも彼は、男性ダンサー(*)という存在が許せなかったようだ。かつての男性ダンサーは、華やかな女性ダンサーの添え物的な印象が強かった。


(男のくせに化粧[メイク]なんぞしおって、女に媚うって、なんじゃおめぇらは)


 観るのがこそばゆかったのだろうと、思う。おかげ(?)で僕はダンサーの道は志さなかった……。ともあれ、受験である。KN造が中学に入学した3年後の1927年(昭和2)の状況。


 ──(以下転載/前略)

 昭和2年ごろのデータでは、小学学力優秀者上位15%

 (おおむね偏差値60以上に相当する)男子のうち、

 中学進学者は29.7%に過ぎず、

 高等教育を受ける素養ある人間の大多数は (中学→高校→大学)の

 コースを外れたことがわかります。

 (筆者注:ということは進学したのは全体の4.46%)

 (転載終わり)──

 (出典:YAHOO!知恵袋「旧制中学の学力水準」)

  http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n207835


 もうひとつ、KN造の頃から10年以上後の話。


 ──(以下転載/前略)

 1940年(昭和15)の旧制中学は全国で600校、生徒数約43万人で、

 旧制中学への進学率は約7%だった。(転載終わり)──

 (出典:「今日の視点」[旺文社教育情報センター]掲載「大学入試の“温故知新”!)

  http://eic.obunsha.co.jp/viewpoint/201104viewpoint/


 旧制中学に進むというのは、経済的な事情もからんだ相当高いハードルがあったということだ。当時の入試倍率などについての資料がある。別府大学准教授の渡辺一弘さんの論文「後発旧制中学の類型化への試みに関する研究 ―明治後期以降開校の旧制中学を中心に―」所収の「全国中学校ニ関スル諸調査」(1937年(昭和13)文部省[現在の文部科学省]調査による)。


 ──(以下筆者が資料から編集・抜粋しています。進学率は筆者注記)


 同調査によると、

 ▼札幌から沖縄(那覇)にいたる全国主要「一中」の平均

 入試倍率1.79倍/1学年生徒数232.2名

 旧制高校・大学予科進学者21.3名(進学率9.2%)

 ▼対する全国主要「二中」の平均

 入試倍率2.17倍/1学年生徒数201.9名

 旧制高校・大学予科進学者12.8名(進学率6.4%)


 岡山の統計では、

 ▼岡山一中

 入試倍率1.8倍/1学年生徒数261名

 旧制高校・大学予科進学者36名(進学率15.6%)

 ▼岡山二中

 入試倍率2.5倍/1学年生徒数259名

 旧制高校・大学予科進学者13名(進学率5.02%)

 

(出典:「後発旧制中学の類型化への試みに関する研究 ―明治後期以降開校の旧制中学を中心に―」)http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/tk03311.pdf?file_id=7030    


 受験者が限られているわけだから、倍率はまあそんなものかと思う。それでもふたりにひとりは落ちる計算だ。ともあれKN造は二中に合格した。勉強なんかしなかったはず。ということは、国語・算数・理科・社会の、基礎学力はあったということ? 前出「旧制中学の学力水準」に興味深い記述がある。『高等教育の時代 下 - 大衆化大学の原像 』(天野郁夫 著/中公叢書)で引用されている、教育社会学者・菊池城司氏の研究によると、1936年(昭和11)の、旧制中学進学者の小学校時代の成績は「甲75.8%・乙23.7%・丙0.5%・丁0%」。小学生全体では「甲30%・乙55%・丙14%・丁0.5%」ということなので、進学者に成績優秀者が多かったのは確かだが、そうでない子もけっこういたということになる。自分の親のことなので、そのへんを詮索するのはやめることにした。まあ、無事合格したのだからオールオッケー。そういうことにしておく。


 大正時代末期の岡山に話を巻き戻そう。


 旭川土手で取り囲まれた、則武という4年生に率いられた武闘集団。秋が去り冬がきて、新年を迎えても、あれからヤツらはKN造には手出ししてこなかった。校内で出くわしても互いに〈ガン〉を飛ばすのみで、無言ですれ違った。そしてKN造は、ヤツらを観察していた。


(則武と3年の春日井と玉出いうヤツ、取り巻きの2年が3人、1年が4人。10人か……)


 則武たちは、実はKN造にかまっている暇がなかった。校内ヘゲモニーを巡る、複数の武闘派によるせめぎ合い、他校軍との合戦へのあいつぐ出陣に忙殺されていたからだ。そして春がやってきた。新学期を迎えれば、則武は、二中創立以来初の最上級生・5年生になる。


(すべる[進級できない]ヤツもおるじゃろうが、新入生が仲間に入るとすりゃぁ、ちいっとめんどうじゃ……春休みに入る前、そこしかねぇ)


 岡山市出石町おかやましいずしちょう。日本三名園のひとつである後楽園の最寄り、お殿様・池田氏の鎮守として崇敬された酒折宮(現在の岡山神社)や伊勢宮の門前町として栄えた南北に長く続く地域。一帯は旭川の土手道に続く高台になっており、美作と備前を結ぶ街道「津山往来」沿いには商家や町家が続く。後年岡山市街を壊滅させることになるアメリカ軍の空襲(1945年[昭和20]6月29日)を回避できた地域の一角。「魚武」と墨書された看板を掲げる小体な商家から少年が顔をのぞかせる。白線入りの角帽。二中の生徒だ。


「かあちゃん、行ってくらぁ」


「あぁ、行っといで、気いつけてな。喧嘩やこう[なんか]すんじゃねぇで」


 女の声が、家の中から通りにまで響く。よく通る、商売人特有のこなれた声だ。


「わかっとる」


 苦笑いしながら返す言葉に、「兄ちゃん、早よぅ帰ってきてな」という子どもの声が重なる。道に飛び出して少年を見送る、弟・妹たちのようだった。


「おぉ、待っとれよ」


 見送りに応える少年。岡山二中4年生、則武申平はいつもの道を学校に向かって歩く。彼はいつも早めに家を出た。学校まで約4km。ふつうなら1時間程度かかるかと思われる距離を、則武は30分で歩くことを自分に課していた。家から城下筋に下って路面電車に乗れば、楽に学校には行けるが、電車代がもったいないと思っていた。いつ起こるともしれない「合戦」に備える体力づくりという意味合いもあったし、なにより、旭川沿いの道を往く爽快さが好きだった。春とはいえまだ3月。マントの着用が許されていなかった二中の制服に、川風が身に染みる。左に近江八景を模したとされる美しい後楽園、右に「烏城」と称される漆黒の岡山城を望むいつもの道。広々とした、空の下のその先にたたずむひとつの影。則武が目を凝らす。


(ありゃぁ二中の生徒じゃ。あんなとこで、なんしょんなら[何してるんだ]……)


 歩みを進める則武の表情が険しくなる。弟妹たちに見せた邪気のない瞳が、武闘集団の親玉のそれに変わっている。土手道で、KN造は則武を待っていた。早朝ヤツがそこを通ることを知っていた。一対一。いつか決着をつけなければならないのなら、それしかない、と思っていた。ふたりの距離が一気に詰まる。則武が威嚇する。


「くそガキ、どうしたんなら、ワシに仁義切る気になったんか」


 生意気な下級生に余裕を見せつけるアプローチ。KN造は則武の目を見すえたまま、言葉を発そうとはしない。


「ビビっとんかお前ぇ。ワシの乾分になりてぇんなら早よぅそう言え。そけぇ(そこへ)土下座して頼め、頼まんか」


(やる前に必ず駄法螺をぬかす。それがお前ぇの弱点……)


 則武から目をそらし、KN造が身を寄せる。頭を垂れるように見てとれた。くそガキを見下ろす則武の瞳が一瞬緩んだそのとき。KN造の頭突き一閃。しかし則武はその動きを読んでいた。軽く身をかわし、拳を見舞う態勢をとろうとした。KN造の必殺技が頭突きであることは、〈てか=手下〉の下級生から聴いて知っていた。しかしそれはフェイントだった。すばやく反転したKN造が、無防備になった則武の股間に渾身の蹴りを見舞った。声にならないうめき声をあげて、則武がうずくまる。対手の動きを想定していたにも拘らず、とんでもない一撃をくらった。


「卑怯もん」


「卑怯もくそもあるか」


 苦悶の表情で叫ぶ則武に、KN造が躍りかかる。KN造の拳が則武の顔面を捉える。やられっぱなしはありえない。百戦錬磨の則武は劣勢を跳ね返そうとして、もみあいながら反撃する。則武の拳にも、確かな手応えがいくつかあった。ようやく立ち上がったところへKN造のタックルが炸裂。もつれあい、からみあうふたつの軀が、旭川土手の草むらを転がり落ちる。互いに掴みあい、拳が交錯する。さらに交錯する。執拗に交錯する。やがてそれは空を切る。限界だった。


「もうえぇ、参った」


 初手のダメージが癒えぬまま、則武は、この一戦が負けであることを認めた。


「ワシは負けん」


 KN造が吠える。則武の手痛い反撃をあびた顔は腫れあがり、血が滴っている。草むらに横たわり立ち上がれないふたり。荒い息づかいだけが朝の川面に漂っていた。則武が言葉を絞り出す。


「ワシは、ワシは、おめぇみてぇな金持ちのボンボンとは違うんじゃ。ワシは負けるわけにはいかん。それが、なんでおめぇなんかに……」


「ワシの家がどうこうなんぞ関係ねぇ。おめぇはワシに因縁つけた。気に食わん。それだけじゃ。お前ぇは有象無象の〈てか〉がおらんと、なんもできんのか」


 則武は早くに父親を亡くしていた。苗字の一文字を冠した魚屋「魚武」は、母親が女手一つで切り盛りしていた。小さいころから母親を手伝ってきた。まだ幼い弟妹たちのことを思い、進学せずに家業を継ぐつもりだった。小学校の成績は優等だった。教師が母親に進学を勧めた。どうせなら実業学校を考えたが、「末は博士か大臣か」という果たしようのない夢を夢みた母親が、中学校を受けることを懇願した。親戚中に頭を下げて金を借り、学費を捻出してくれた。しかし学校は自分を忌避しているように感じた。高等学校、大学へと続く「学費」という無間地獄を目の当たりにして、こころが折れた。仲間を集めて暴れるしかなかった。


「あと1年、卒業したらワシは魚屋になる。おめぇみてゃあな狂犬は、そのうち痛てぇ目を見るで。ひとりで、これからどうするつもりじゃ」


「知ったことか。あんとき、お前ぇの後ろでワシを睨みつけとった春日井いうでくの坊、隣で〈やにさがりょおった〉(やにさがっていた)玉出いう阿呆も、ワシは絶対ぇ許さん」


「……ワシは今日のことは忘れる。お前ぇもそうせえ(そうしろ)……いんや、ぜぇんぶ水に流せ。ワシは負けた。それで、もうえぇ。春日井はともかく、玉出は……」


 いわくありげに言葉を呑み込む則武。幼稚園に続き、KN造がまたも学び舎を放逐されることになる事態がさし迫っていた。


(枝葉末節・其の15【さらば岡山二中・其の1】了)


―――――――――――――――――――――――

【脚注】


*男性ダンサー:KN造は例外的に、当時日本人離れした超絶技巧で人びとを魅了していた、タップダンス・ユニット「中野ブラサーズ」は認めていました。「あいつらは、本物じゃ」と口走っていたように記憶しています。(以下転載)中野ブラザーズは、20世紀中頃から21世紀の日本のタップダンスユニット、振付家。60年以上現役を続ける、実の兄弟2人組のタップの第一人者。実の兄には喜劇俳優の南風カオルがいる。中野啓介(なかの けいすけ、1935年3月21日-2010年8月10日 兄)、中野章三(なかの しょうぞう、1937年2月8日-弟)。共に東京生まれ。両親は共に役者、小学生の時に観たフレッド・アステア主演の映画に魅せられ、タップダンサーを志す。共に中学で吉田武雄の門下になり1940年、当時浅草で人気を博していた女剣劇役者・中野弘子の率いる「中野チンピラ劇団」で舞台デビュー。この頃に後にビートたけしの師匠となる深見千三郎と知り合い、たけしとはその縁で現在も交流がある。(出典:ウィキペディア(Wikipedia)フリー百科事典「中野ブラサーズ」最終更新 2016年8月21日 (日) 08:08 https://ja.wikipedia.org/wiki/中野ブラサーズ)

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