枝葉末節・其の13【岡山の不良・其の1】
前回の話を読んでくださった方の中に、「これって『けんかえれじい』の剽窃じゃないの」と思われた向きもあろうかと思います。ご説明するついでに、今回は「転載・引用の嵐」で失礼することを、お断りしておきます。
『けんかえれじい』。1966年(昭和41)公開の日活映画です(監督:鈴木清順/脚本:新藤兼人/原作:鈴木隆/主演:高橋英樹)。公開当時、ガキだった僕は、その存在すら知りませんでした。高校生になって、それが、世間のメインストリームではないけれども、多くの人たちに支持された、カルト的作品であることを知りました。
(観たい)と思いました。でもそのころ、僕は岡山にいました。東京なら、あまたある名画座の懐古上映に巡り会うこともできたかもしれない。Blu-rayはおろか、DVDもビデオすらなかった時代です。ようやく観ることができたのは、東京に住むことになってから。観たのはテレビでした。新聞のテレビ欄。いまも同じ、時間を埋めるだけ(?)の午前中のラインナップに、映画『けんかえれじい』を見つけました。仕事のようなものはしていましたが、学生でもない、ましてや社会人でもない、そんな、明日をも知れぬ〝おバカ・スパイラル〟にはまっていたころ。適当な理由をつけて仕事を休み、お気楽にブラウン管(液晶なんてありません)の前ではじまるのを待ちました。
モノクロの画が怒濤のように流れる。CMがはさみこまれる。テレビ用に再編集(おそらくブツ切り)された映像。でも、とてつもなく、おもしろかった。以前書きました。喧嘩修業に明け暮れる岡山二中の快男児・南部麒六の暴れっぷりが、母から聴かされていた、父・黒めがねKN造の中学生時代にシンクロして見えた。「麒六」という名前が、僕の兄の名と同じ音であることも、親和性を高めました。麒六は数々の武闘・激闘の果てに、軍事教練の教官・配属将校に楯つき、岡山二中を追われて会津・喜多方中学(現・福島県立喜多方高等学校)へ転校し、新たな死闘の場に身をさらします。当時22歳の高橋英樹が、中学生の主人公・麒六を演じています。純粋無垢。敬虔なクリスチャンにして、「喧嘩するなら負けるな」「勝たなきゃ駄目だ」という信念に生きる少年。
いまや時代劇俳優というカテゴリに属するとされる高橋英樹ですが、日活時代は、『伊豆の踊子』の一高生・『男の紋章』シリーズの大島竜次・『人生劇場』の青成瓢吉等々の、ナイーブな青年主人公を演じていた端正な二枚目でした。機会があれば、ぜひその〈水もしたたる〉姿をご覧ください。閑話休題──。長くなりますが、KN造の二中の後輩であるふたりの作家・鈴木隆と柴田錬三郎の文章を転載します。当時の岡山に暮らす中学生たち、ただし〈ある一群〉の、気分の一端がよくわかります。
まずは鈴木隆。KN造の8歳下、坪田譲治に師事した児童文学者ですが、自伝的小説『けんかえれじい』を発表して広く知られるようになりました。主人公・南部麒六の写し鏡……喧嘩&漂泊生活の体現者です。『けんかえれじい』(1966年[昭和41]理論社 刊/2005年[平成17]岩波現代文庫 復刊)の一節。
──(以下転載/前略)
その前に少し当時の岡山中学生の不良像について
触れておかねばならない。
岡山の中学生は、池田の殿様のお膝元だけに、
文武両道を目ざす生徒が多かった。
小生意気なことにかけては全国でも指折りの方であった。
第一やることが派手でませていた。中学同士の喧嘩で、
野球のバットを振り廻し、
相手を死に至らしめた事件があったし、
一方ではゲートル巻きの商業学校の生徒の中に、
内縁の妻を持つ者がいたりした。
その旺盛な志気たるや、当今の若人にくらべ、
まったく勝るとも劣らぬ出来具合であった。
中学生間の喧嘩でも、個人対個人のほかに、
バックと称する背景勢力が層あつく控えていた。
「あいつにはバックがついとるから用心せえよ」
ということになると、たとえ本人を打ち倒したとしても、
事はそれで収まらず必ず縺れた。
上級生にバックがいるとか、
あるいは関西中学、吉備商業、
岡黌などに、強力な後続部隊が腕を撫しており、
少し手の混んだのになると、
遊び人と称する本物のやくざが後ろ楯になって目を光らせていた。
やくざ稼業の兄貴連は、電話一本の連絡で、
中島の遊廓からハイヤーで乗り込んでくる。
雨天体操場の陰で車を捨て、爽快なハッピ姿で忽然と姿を現わすのだ。
こうした手合いには余程の用心が肝要で、柔道の先生が、
ハッピ姿を咎めて刺されたことがある。
いずれにせよ、
〝強くなければならぬ〟
〝人に負けぬだけの腕力を要請しなければならぬ〟──
この小学校時代の悲願は、麒六の中学進学とともに急速の進歩をとげて行った。
(後略/転載終わり)──
つづく柴田錬三郎はKN造の6歳下。眠狂四郎という、歴史的な美しきアンチヒーローを生み出した無頼派の大ベストセラー作家。岡山出奔から直木賞受賞までの日々を描いた青春記『わが青春無頼帖』(1967年[昭和42]新潮社 刊/2005年[平成17]中公文庫 復刊)の冒頭、〈シバレン〉ならではのニヒリズムとダンディズムが横溢しています。
──(以下転載)
昭和九年(*1 )三月──。
私は、岡山県立二中を四年生で中退して、上京した。
旧制中学は、五年である。しかし、四年を修了すれば、
高等学校か私立大学の予科へ入学資格ができる。
私は、中学生の生活が、全くイヤになっていたのである。
岡山二中は、一中と比べて、生徒に対して、
その私生活に監視の目をひからせた。
映画館に入ることを禁じ、冬にマントを羽織るのを禁じた。
私は、映画はあまり好きではなかったが、これを禁止されると、
反抗的に、週に一度は入ることにした。そして、
当然、しばしば、つかまった。
二度までは、説諭で許されたが、三度目には、
一週間の停学、四度目は無期停学をくらった。
(中略)
当時、岡山の県立私立の中学校の理想は、
市の東南にある第六高等学校に入学することであった。
一中も二中も、そして他の中学校も、今年は六高に何人入ったか、
ということを大層な自慢にし、
翌年の志望者達を叱咤激励するタネにしたのである。
岡山県の中学生にとって、六高生になることは、
人生の勝利者を意味した。
そこで、運よく、入学できると、文字通り、肩で風をきって、
市中を横行濶歩した。
白線の入った帽子をわざと破り、
腰に手拭をぶら下げ、朴歯を高鳴らし、
マントをひるがえすスタイルが、少年の理想像だったのである。
そして、まことに滑稽なことに、六高生になるや、
たちまち、大阪弁をつかいはじめるのであった。
というのは、大阪方面から入って来る者が、
ほぼ半数を占めていたので、それに影響され、
六高生は大阪弁を使うならわしが、
いつの間にか、できていたものであろう。
(中略)
国立大学へ進むべきエリートが、
なぜ、大阪弁を、得意気に使わねばならんのか。
それが、私には、気に食わなかった。
そういう下等なならわしをもっている六高へ、入らせることを、
生徒たちの理想として、すこしも疑わない岡山県の、
どいつもこいつも──校長も、私には、気に食わなかった。
父兄どもも、阿呆にみえたし、朴歯を高鳴らしている六高生たちに、
唾をひっかけてやりたかった。
私より一年上の親戚の一中生が、四年で六高へパスするや、
その日のうちに、朴歯とマントを買い込み、
新しい帽子をセッセと破るのを、私は、眺めて、
──こいつは、たぶん、
いちばん威ばりかえる政府の小役人になりやがるだろう。と思った。
(中略)
で──つまり、私は、一日も早く、岡山市から、脱出したかったのである。
(後略/転載終わり)──
KN造が岡山二中に入学した大正末年(大正12年)から、柴田錬三郎、鈴木隆が、そしてもちろん、KN造が咆哮し・彷徨していた昭和初年は、明るい希望が、静かに、ひたひたと、得体の知れない不安に覆われていくという、日本にとってのメルクマールともいえる時代でした。
1923年(大正12)2月(*2)、東京駅前・丸の内に「丸の内ビルヂング=通称:丸ビル」が完成します。地上8階・地下1階の偉容は、当時東洋一を謳われていました。極東の端っこで、欧米に伍する経済力を日本が蓄えつつあると、世界に発信するに相応しい出来事でした。しかし、好事魔多し。同年9月1日、関東大震災がお気楽な世相を破壊しつくします。そして……皇太子裕仁(昭和天皇)の成婚や甲子園球場の完成(大正13年)、ラジオ放送開始(大正14年)、リンドバーグの大西洋横断無着陸飛行成功(昭和2年)といった奉祝ニュースはあったものの、1929年(昭和4)10月にニューヨーク株式市場が大暴落し、世界恐慌という、人間がはじめて遭遇する大不況がはじまります。さらに、ニューヨークのエンパイヤステートビル(地上381m・102階建)の完成、国産小型乗用車「DATSON・ダットソン」(「SON」は「損」に繋がるということで、最終的に太陽の意味合いもある「SUN」=「DATSUN・ダットサン」に改名)の製造開始(ともに昭和6年)なんてニュースを経た、1932(昭和7)3月の「満州国建国宣言」、5月の「五・一五事件」と、日本の行く末を決定づける、とり戻せない流れがふつふつと湧き出ていました。
再度、『けんかえれじい』から転載します。
──(以下転載/前略)
「これ我が血なり」と、キリストのおっしゃった葡萄酒で、
麒六とスッポン氏(筆者注:麒六の喧嘩修業の師匠)は
奇しき義兄弟の契りを結んだのである。
爾来麒六は、彼の教育で逐次修練を積んでいくことになる。
毎日鏡に顔を映し、
自分の眼を三十分ずつまたたきもせずににせみつけること。
これが基礎訓練の第一歩だった。
三週間ほど根気よく続けると、
麒六の眼光は次第に怪しい鋭さを増してきた。
ガンをつけられ、そのガンをはね返す眼力が大切で、
まことに入門第一教程としては、
非常に教養高い科目だと麒六は感心した。
第二教程は歩行法の実習だった。これは割合簡単で、
骨を会得すれば何でもなかった。
つまり体重を踵にかけ、靴を引きずるように歩けばいいのだ。
こうすれば自然胆もすわってくるというものだ。
喧嘩の時に直接役立つというわけではないが、常住不断の修養として、
決して疎かには出来ぬ項目である。
(中略)
最後に、度胸の発想法。……
柔道が出来ても、腕相撲が強くても、
機械体操で大車輪がやれても、
結局喧嘩は度胸である。度胸七分に技三分というのが喧嘩の原則だ。
(中略)
麒六は何かすっとん狂なことをやり、度胸をつけなければならなかった。
度胸をつけるのは場数である。
そしてすっとん狂な自己顕示が最短コースに考えられた。
校則により禁止されている下駄ばきスタイルで上之町から下之町まで、
体重を踵にかけて歩いてみた。
校則を手当たり次第破ることにした。
ズボンにポケットをあけてみた。
岡山クラブ、金馬館、若玉館……映画館にもどしどし入場だ。
(中略)
新西大寺町筋のカメヤのコーヒーも飲んでみた。
試みに角帽にワセリンも塗りたくった。
試みに日覆のかかった狭い天満屋通りを歩きながら、
大手饅頭というのを頬ばって見た。
試みとはいえ、これらはすべて発見されれば謹慎または停学の裏づけがあり、
そこが得もいわれぬ快感を麒六に与えた。
(中略)
涙ぐましき修養鍛錬の結果、麒六は徐々に貫禄と箔をつけていった。
停学も一回ほど体験、謹慎も二回ほど味わった。
(後略/転載終わり)──
『けんかえれじい』。岡山から会津、そして東京へと舞台を移す物語は痛快です(*3)。読み返すたびに、南部麒六(=鈴木隆)の意識が、黒めがね・父KN造に重なっていく。麒六はあえて校内の武闘集団に飛び込むことで「喧嘩」の王道・覇権をめざし、放校(退学)という結果にいたります。KN造も8歳下の麒六に似た思いを抱いていたはずですが、「人とつるむ」「人と群れる」ことを由としなかった。そして、「独り」でいることにこだわり、麒六に魁けて放校(退学)処分を受けることになります。
またまたとりとめのない話で申し訳ありません。岡山二中の「不良たち」の気分を感じてくだされば幸いです。KN造が放校(退学)にいたる顛末、そして、ライバル岡山一中の「不良たち」の話も含めて、次回はなんとか……。
(枝葉末節・其の13【岡山の不良・其の1】了)
―――――――――――――――――――――――
【脚注】
*1 昭和九年:(筆者注)柴田錬三郎は1917年(大正6)早生まれということなので、二中入学は1929(昭和4)のはず。4年で中退したのなら昭和7年になる計算ですが、2年の差が説明できない。「四度目は無期停学……」という事態も、1カ月程度だったと同書に記されているので、これは〈シバレン〉先生の記憶違いだと思います。ま、どうでもいい些事ではありますが。
*2 1923年(大正12)2月:以後の出来事列記は「昭和からの贈りもの」サイトを参考にしています。政治・経済から社会・世相・風俗・流行まで、微に入り細を穿つ情報の宝庫。労作サイトです。(参考資料:昭和からの贈りもの」http://syowakara.com/02taisyo/historyT/historyT04.htm)
*3 痛快です:『けんかえれじい』は上下2巻。ユーモアあふれる「喧嘩上等」な上巻から一転、下巻では戦争が青年たちを翻弄します。快男児・南部麒六の最期。苦い結末です。