6 アリカとなった彼女、さなぎと化する
「ああ、それはな」
その夜。
問い掛けたアリカに、のしかかる男は囁いた。
「呪いの絵だ」
「呪い、ですか?」
「そう、それも、二代の后の」
二代の后。この日は眠らずに控えていたサボンは思わず聞き耳を立てる。
「二代様とおっしゃいますと、確か…」
アリカは言葉を濁す。
「春逝皇后と称された方だ」
そう、確かにそうだ。サボンは思う。
帝国で今までに皇后は三人。
初代祖帝、二代皇帝、三代武帝それぞれにたった一人づつ。
その一人づつに、国は名を送っている。
建国に到った戦いを皇帝と共に戦った女傑には冬闘祖后。
若くして自ら命を絶った二代の后には春逝皇后。
そして地位を捨てて放浪に旅立った三代の后には風夏太后の名が送られている。
「これは春逝皇后マリャフェシナ様が亡くなる前に繰り返し繰り返し詠っていた言葉に、当代の絵師カイリョーカが触発されて描いたものだ」
カイリョーカ、と言えばサボンも知っている、三百年程昔の絵師だ。細い、あっさりとした線画を得意とし、現在でも散逸している彼の作品を求める者は多い。
「…けれど」
少しばかり熱の籠もった声が問い返す。
「何故に、そのカイリョーカの絵を、この様な色鮮やかなうねりで隠すのでしょう…?」
あ、という声が混じった。
「それはな」
ふふ、と薄く笑う声がする。
「隠したい。だが隠すのに惜しい。そういうものだからだ」
「隠す…?」
「つづきものだ、とそなたは言ったな」
答えは無い。
「そう、春逝皇后は確かにつづきものの題材を残したのだ」
「初耳です」
「それはそうだ。そうそう知る者は居ない。知ろうとする者も居ない」
いや、と皇帝は微妙に言葉の端を上げた。
「見ないふりをしたいのだろう」
「え…」
「今ではほとんど知っている者は居ないはずだ。私が宮中に入った頃でも知っていたのは年輩の女官くらいなものだった」
「それは…」
凄いわ、とサボンはふう、とため息をつく。確かにアリカは知識欲の権化の様な少女ではある。だが。
それでもまだ、嫁いで三日目の夜なのに!
あれだけ何やら、経験したことの無い未知の感覚に驚き、焦っている様な声を立てているというのに!
それでも聞こうという姿勢を崩さないというのは。
そもそもサボンはじっと控えて座ってこの様子を聞いている訳である。それだけでもう大変である。気持ちはいっぱいいっぱいなのだ。
手には汗、唇はひきつり、眠いと思いつつその都度耳に飛び込む会話につい眠気を醒まされ。
甘やかされて育ってきた富裕な令嬢特有の耳年増な想像力は大変なことになっていた。
普段鉄面皮と言ってもいいくらい冷静なアリカが、あの薄い帳の中で、一糸まとわぬ姿になって、どんなところを、あの、おそれ多くも皇帝陛下に触れられているというのか。まさぐられているのか。いやそれとも。いやいやいや。
もう大変である。
なのに当の本人は、最初の夜に疑問に思ったことをきわめて冷静に問い掛けている。二日目でないあたり、冷静もいいところだ。一日かけてじっくり天井絵の観察をサボンと共にし、そのうえであたりさわりのない質問を探していたらしい。
絵は全部で七種類あった。
寝台の真上の絵がどうも起点らしい。
一枚目、女は手に剣を持ち、走り出す。
二枚目、走り出した女はふわりと崖らしい所から飛び降りる。
三枚目で女は長棒を手に空を眺めている。
四枚目も同じ絵だったが、女の手に長棒は無く、見つめているのは高い壁。
五枚目で女は壁の中に入り、花に埋もれる。
六枚目、女は手一杯の花を壁の外にばらまく。
そして最後の七枚目は。
「…もしかしたら、そなたは理解できるかもしれないな…」
皇帝はつぶやいた。
*
翌朝。
ご苦労、の言葉を残し皇帝は夜明け前にやはり戻っていった。
ようやく仮眠をとることができる、とサボンは自分の寝台にさっさと潜り込んだ。
そして。
「いつまで眠ってらっしゃるんですか!」
配膳方の声で目を醒ましたのは、既に昼近くだった。
慌てて身支度を済ませると、寝台の中、アリカは眠っていた。
「…アリカ…」
元々の自分の名を呼びかけるのは未だに違和感はある。だが必要だ。何度か呼びかけた。だが目は開かない。揺り動かしても、すーっ、と静かな寝息を立てるだけだった。
「…これは…」
*
「…お前」
人払いのされた部屋で、青年はサボンをにらみつけた。
「自分が―――自分が、何をしたのか、判っているのか?!」
どう答えたらいいのだろう。言葉がなかなか出てこない。
判っている。自分が取り返しのつかないことをしてしまったということは。
既に七日。
目の前で、自分の身代わりの少女は昏々と眠り続けている。
あの朝。サボンが寝過ごした朝、アリカが起こしてくれなかった朝。あれから。
あの几帳面な彼女が、朝の光に目を醒ますこともできず、動くことができない眠りにつなぎとめられている。
微かな寝息。一見して安らかな眠りとも感じられる。
だがその身体を巡る血の流れは速い。
脈を取る侍医の表情は重い。
「非常にお身体の中が忙しく働いておりますな」
そう言われてサボンは嘘だ、と思った。
「けどぴくりとも動かないではないですか」
「血の巡りが―――あー、そうですな、…あんたは蝶の蛹を見たことがありますかな」
「蛹? いいえ」
「芋虫が蝶に変わることは」
「そのくらいは… でも見たことは」
「ずいぶんとお嬢さんとご一緒のお暮らしだったようですな」
微かにサボンはむっとする。侍医はそんな彼女の表情には構わず続ける。
「芋虫は蝶になる前に蛹の姿をとる」
ええ、と彼女はうなづく。そのくらいは知っている。
「蛹自身は眠っているかの様にじっとしているが、その中では驚くべき変化が行われているのですぞ」
「…それが」
「芋虫はそのためにもぞもぞと動きながら一生懸命食物を口にする。…だがこのお嬢さんはそうはできなかったようですな」
「…あの…」
「なかなか大変なことになりそうじゃ。機会を見つけては、甘水を吸い飲みで流し込んでやりなさい。できるだけちょくちょく。水菓子の汁、蜜水、何でもよろしい。口にすればすぐに身体を巡る様なものがよろしい」
「は、はあ…」
「何ですね頼りない。今が大切なのですぞ」
「大切…」
「聞いていないのですかな。この時期に命を落とす女性方が多いということを」
あ、とサボンは口に手を当てた。
侍医はため息をついた。哀れむ様に彼女を見た。
「あ、あの… お――― 将軍様は、私には、その様な」
「なる程… まあサヘ将軍の様な勇猛果敢なお方は、自分の家の召使いも同じと思ったのか! それとも女というもの、言えば怖がるとお思いになられたのか! だが娘さん、それじゃあいかん。それじゃあいかんのだよ!」
侍医はそう言うと、さらさらと紙に何やら書き出した。
「配膳方にこれを渡しなさい」
ざっと目を通す。
甘水。水菓子の中でも特に甘みの強いもの、絞り汁がとろりと濃いもの、―――中にはこの帝都でも珍しいものもある。季節に合わないものもある。
「口にさせたほうが良いものじゃ」
「け、けど」
「目を醒ますかどうかはあなた次第じゃな。ええと、サボナンチュさんや」
「…え… あ、はい」
そうだそれがサボンの正式名だった、と彼女は思い出す。
そしてこの目の前で眠るのがアリカケシュなのだ。
自分がもしかしたら、そうなるかもしれなかった姿。眠り続ける、蛹の姿。
蛹の中で、何が起こっているのかは、誰も知らない。
「あの… 一体いつまで、お眠りになるのですか」
侍医は首を振った。
「今まで儂は二十四人の女性を見送らなくてはならなかった。二十五人見送ったら宮中を去ろうと考えておる」
そうならないことを祈る、と彼は言い残して北離宮を去った。
配膳方は侍医から渡された書を読むと、黙々と作業を始めた。まずそれは、必要な食材を入手することからだった。
「サボンさん」
「は、はいっ」
「私が出ている間、女君には牛乳に蜜を混ぜたものを時々吸わせてやって下さい」
人肌に温める、と付け加えると、配膳方は外へと飛び出して行った。
一人残されたサボンは、おぼつかない手つきで、何とか牛乳に糖蜜を入れ、火に掛けた。
だが慣れないことはやはり難しい。鍋一杯に作ってしまい、無駄極まりない。
吸い飲みに何とか掬い入れ、人肌まで冷ますと、眠るアリカの枕元まで持って行く。吸い飲みを頬に当てる。起きてちょうだい。そう願いながら。
目覚めはしない。だが吸い飲みを口に差し込むと、口はすうすうと中身を吸った。流れ込んで行く。喉がごくりと鳴る。
サボンは少しばかりほっとする。
しかしどのくらい呑ませればいいのだろう。呑ませっぱなしでいい訳がない。その程度の理性と分別はサボンにもある。
とりあえず二杯目を用意しておこう、と彼女は立ち上がった。いずれにせよ、沢山用意してしまったのだ。
そして次に幾らかアリカが欲しがる素振りを見せた時に、すぐに口にできる様に、自分の胸で冷めない様にしておこう―――
そう思った時だった。
ばたばたばた、と外で音がした。
「いけません、ここには」
雑人女の声がする。
「何事ですか」
サボンは戸を開く。
「兄が妹に会いに来ただけだ! 病気だと! それの何が…」
はっ、と彼は息を呑んだ。視線が絡む。
サボンは口を開きかけ―――慌てて手を当てた。いけない。その言葉を言っては。
代わりに出たのは、雑人女に対しての。
「下がって…」
「けどサボンさん」
「いいの、この方は、お嬢様の…」
「お嬢様!?」
青年は顔をしかめる。
「下がって、ね。本当よ、将軍様の跡取りの方で」
そのままサボンは彼を中へと通した。
「自分が―――自分が、何をしたのか、判っているのか?! …アリカ…」
呼ぶ名は小声だった。聞こえてはいけない。だが呼ばずにはいられない。そんな口調だった。
「ええ、判っております。ウリュン兄様」
いえ、と彼女は目を伏せる。
「もう、そう呼んではいけませんのですね、小将軍様」