5 皇帝登場、そして翌朝寝坊の女官
「面白い話だ」
はっ、と二人の少女は顔を上げた。
男の声だった。反射的にアリカは立ち上がった。
障子戸が開き、男が入ってきた。
アリカは目を見開いた。
サボンはその場に平伏した。
若い、男だった。
歳の頃は二十を少し過ぎたあたりだろう。
色味も髪も素っ気ない、その姿。
だが衣服の色が。
「そなたは平伏しないのか」
朱黄色の上着をざっと着た男は、アリカに向かって問い掛けた。
「あなた様が、皇帝陛下、ですか」
「そうだ」
真っ直ぐ男は、アリカと視線を合わせた。
アリカは見る。背はそう高くない。筋骨隆々という訳でもない。どちらかと言ったらなで肩かもしれない。
だから彼女の口は、こう動いていた。
「本当に?」
「失礼ですよ!」
床に伏せたまま、サボンはアリカのスカートの裾を引っ張った。
「あなた様が陛下であるという証明ができない限り、私には平伏はしかねます」
「この場に皇帝以外の若く見える男が出入りできると思っているのか?」
「全くできない訳ではないでしょう。確かに警備は厚くございますが、人の作ったもの。何処かに何らかの出入り手段はありましょう」
「そんなことがあったら、近衛回隊の連中の首が飛ぶな」
「首は飛ばすものですか?」
「首を飛ばすのが、最も判りやすい方法だろう? そなたの話にもあったではないか」
ふっ、と男は口元を緩めた。
「何故メ族は首を刎ねられた?」
ああ、とサボンはこのやりとりに恐怖した。
何を考えているんだ一体、と全身に震えが走るのを感じた。
ここに来るなら陛下に決まっている。
そうでなかったとしても、この様な悠長で物騒な話をすることは無いでしょう、と。
そもそもその話をしているという時点で、自分と彼女が入れ替わっているということが判ってしまっているのではないか。
彼女の中で一気にそれだけの考えが巡った。
「古来―――」
アリカはそんなサボンの気持ちなど全く感じていない様に続ける。
「斬首というものは禁じ手でございました」
「ほお?」
男は顎を指で挟んだ。
「その昔、各地あまたあった小さな国々の多くで、こう信じられておりました。その首と胴体がつながっている者は良き死である、と」
「良き死」
「次の世界に行くも良し、もう一度この世界に生まれ変わるも良し、肉体の欠けること無く死んだ者は、選択した次の生に、自分で動き行けることができる、と。それ故に人々は斬首だけは嫌がった、とされています」
「全てが全て、そうかな?」
「いいえ」
アリカは首を横に振った。
「東南の桜州、かつての藩国『桜』ではそれを最も苦しまない死としていたそうです。かの国では来世は信じられていましたが、肉体の状態とは無関係である、あくまで大切なのは心である、と信じられておりました」
「メ族ではどうだった?」
「メ族は―――」
アリカは詰まった。
「言って見るがいい。そなたは知っているのではないか?」
「話せば長うございます」
「なるほど。長くなる。では長く聞こうではないか」
そう言って男はアリカの顎を掴んだ。
だがアリカは瞬きもせず、男を見据えるだけだった。
「私はまだあなた様が皇帝陛下かどうか、の問いにお答え下さったとは思っておりません」
まだそんなことを! サボンの額から脂汗がたらたらと流れ落ちる。
「お答えを下さらない限り、私はあなた様のその手を取りかねます」
「これはまた。ではそなたは、この場でこの色を纏える者が居ると思うのか?」
「気持ちが押さえつけない限り、どんな場であれ、仕立てる者が居る以上、可能でしょう」
「そうか」
くくく、と彼は笑った。
「では見るがいい」
卓上の水菓子の盆から、小刀を取り上げた。大きな袖をまくる。
あっ、とサボンは喉の奥で息を詰めた。
つ。
左腕の内側、白に一筋の赤が、走った。
からん、と卓の上に小刀は投げ出される。
「…傷が」
「証拠を、と言いたいのだろう? そなたは」
彼はそう言うと、赤い筋に舌を這わせた。ぺろり。血のにおいが、軽くアリカの鼻まで届いた。
「まずい」
彼はそう言うと、血を舐め取った腕を、アリカに突き出した。
「あ」
思わず彼女は口にしていた。
埋まる。埋まって行く。
見る見るうちに、血は止まり傷はふさがり、やがて新たな皮膚がその上を覆う。
それは本当に、ほんのわずかな間だった。
「数々のご無礼、お許し下さい」
アリカはすっ、と膝を折った。そのままサボンと並んで平伏する。
「陛下お一人でふらりと来られる、とは聞いておりましたが、それは数ある王の後宮へのあり方として、私の頭脳が納得致しませんでした。誠に申し訳ございません」
あああああああ。それを聞いてサボンは血の気が一気に退いた。まずい、すごくまずいわ、と頭の中でもう一人の自分が駆け回るのを感じた。
だが。
あっはっは、と笑い声が降って来た。
「珍しい女だ、そなたは」
つ、とアリカは顔を上げた。その目の前に手が差し出される。
「来い」
*
あ。
ああああああああああ。
うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ。
朝の光が、窓から差し込んでいる。
朝の光が、窓から差し込んでいる。
朝の光が窓から差し込んで…
つまり。
今は。
朝ってことで。
さぁっ、と、サボンは全身から血の気が退くのを感じた。
眠ってしまった眠ってしまった眠ってしまった。
お付きの女官は主人―――とまだいまいち彼女の頭と心は納得と認識を上手く噛み合わせていないが―――が皇帝と床を共にする時にはその様子を一晩中うかがっていなくてはならない。
理由は幾つかある。
一つは主人が上手く皇帝の相手をできているか確認するため。詰まったら助言するために。
そしてもう一つは、主人が下手の行動を起こした時の用心に。
サボンは正直、自分がどちらにしても役に立てるとは思っていなかった。
だがだからと言ってあっさり眠ってしまうというのは… それこそ不敬にあたるというものだ。
寝所は――― と言えば。静かだ。
そぉっ、と彼女は其の方をうかがう。
え。
「ええええええっ」
思わず彼女はうなっていた。
「ええっええっええええっ?」
寝所には誰も居なかった。皇帝は無論、アリカまで。
サボンは慌ててばたばたと部屋の外へと走り出た。
と。
「あ、おはようございます」
「お、おはよう…」
じゃなくて!!
「あ、あんた、何って格好…」
「あ、すみません、ちょっとお借りしました」
準女官服姿のアリカはあっさりとそう言った。手には全体から熱気を漂わせる茶器と、軽い食事。
「…と、ともかく…」
ひきずりこむ様にしてサボンはアリカを中に入れた。こんなところ、他の誰かに見られたら。
「あ、陛下でしたら、また今夜も来るとおっしゃられて、明け方頃お戻りになりましたよ」
「…そ、そう…」
ふうっ、と大きく息をつきながら、サボンはともかく座って、と同じ服を着たアリカに椅子をすすめる。くす、と微かにアリカの笑う気配があった。
「大丈夫ですよ」
「何がよ」
「陛下はあまり聞かれるのがお好きではないようです」
「…まあ… 好きなひとは… 居ないでしょうね」
「とりあえずお目覚の一杯をどうぞ」
そう言ってアリカはサボンにお茶を注ぐ。
「濃い茶ね」
「宮中の女官の常用はこの茶葉の様です」
「ってあんた誰かに聞いたの?」
「この北離宮の配膳さんに」
「会ったのね…」
「ああ、でも大丈夫ですよ。顔は見せなかったし、髪はほら」
よく見るとアリカの髪は、きっちりと結われている。引っ詰め髪を後ろで髷にし、その上に大きなりぼんを飾る、女官なら当たり前の髪型だ。
そもそも二人が入れ替わることを考え、実行するうえで、彼女達は様々な条件を一応加味してみたのだ。
甘いその色が似ていなかったら、二人はこの計画を考えただけで挫折していただろう。
副帝都のサヘ将軍の自宅から、帝都の宮中まで「サヘ将軍令嬢」は顔を隠された。だが髪は隠せない。美しくお付きに結われた髪は、家族や使用人を含め、出て行くから目に触れられるのだ。
背の高さは靴でごまかせよう。体型はゆったりとしたこの国の服で判らなくなる。
そして顔というものは。
案外記憶に残らないものである。
「配膳さんは忙しくて、私の方を見向きもしなかったですから」
「忙しい?」
「夜は補助の女官が宮殿膳所からお手伝いに来ることもある様ですが、早昼膳については、配膳さん一人で全て行うということで」
「早昼膳?」
「新しい女君は起きるのが遅いだろう、ということで、早めの昼ごはんが朝を兼ねているそうです」
「そんなぁ。お腹空いちゃうじゃない」
「だと思いまして」
くす、とアリカは笑った。
「あなた将軍様のお躾で早寝早起きを心がけられてますから、きっと昨日の今日で今朝はお腹空いていると思いまして」
良く見ると、茶器の乗った盆には、幾らかの腹のたしになる様な、あまり甘くない菓子も置かれている。
「ああありがとう~」
サボンは思わずアリカに抱きつく。どういたしまして、とアリカはその頭を撫でた。
「あ、でも、と言うことは、その早昼の時には、配膳さんが来る訳でしょ?」
「ええ、その時までには、着替えて髪も何とかします」
「そうね、それで」
「はい?」
「…昨夜… あれで、上手くいったの?」
うーん、とアリカは苦笑した。問うサボンの目の色は不安と好奇心が半々に見える。
「そうですね」
「うんうん」
「でも聞いてはいたんでしょう? 途中までは」
「…あんたが寝所に入った途端、急に眠気が」
「…呑気ですね」
「私もそう思うわ。ああ何とかしなくちゃ。あんたがもしちゃんと孕んだら、私女官だし」
「孕む保証は無いって言ったでしょう」
「人間、一番悪いことを考えておくと後が楽って言ったのはあんたでしょうに」
「それはまあ」
確かにそうだった。
「そうですね… 一応首尾良く何とかなった、というところでしょうか」
アリカは軽く視線を天井に泳がせる。ふとそこに描かれた模様が目についた。うねうねとした、色鮮やかな。
「ああそうか…」
「何がああそうか、よ」
突然明後日の方角に思考を向けてしまったらしい相手に、サボンは眉を寄せる。
「いえ、昨夜は結構怖ろしげに見えたのですよ。天井の模様が。でも、これ、つづきものなのですね」
「?」
ちょっといいですか、とアリカはサボンを手招きする。寝所へと連れて行く。
寝具は乱れてはいなかったが、取り替えられてもいない。閉ざされていた外窓を開け、障子の光を中に入れる。
「あれです」
アリカは寝台の上に腰掛け、天井を指さす。
「何あれ」
「判りません」
ちょうど寝ころんだ当人の目に入る様に、天井には大きく絵が描かれていた。極彩色と曲線を多用したその絵は、模様と言えば模様かもしれない。
「だから私も初めはただの模様かもしれない、と思って、ひねりを端から端まで数えようと思っていたんですが」
火炎模様にも似たそれをアリカは指さす。
「…あんた… 最中にそんなことしてたの」
「いえ、私だって全く冷静な訳ではなかったし」
「何でそこで冷静でいようとする訳よ」
「だってあなた寝てしまっていたし」
「ってどうしてあんたがそれに気付くのよっ!」
「それはともかく」
話を強引に打ちきる。
「この絵には、どうも、女性の姿が描かれている様なんです」
「女性の?」
「ええ」
言われてみれば。サボンは模様の中に薄ぼんやりと浮かぶ姿に目をやる。まるで模様の中にその絵を埋めてしまいたいかの様だった。
「ただ全体的に細い線だけで描かれているので、夜見ると、無いはずのものが見える様で不気味なんです。でも朝になって、寝台から降りて」
とん、と足を下ろす。
「この天井」
アリカはすぐ上を指す。
「そしてその赤い梁の次。そのまた次。次の間。どんどんその女性の姿が、仕草が、変わって行くんです。模様そのものは同じうねりの繰り返しだというのに」
「あ、でも色が微妙に違うわね」
「ええ。これも夜には気付かなかったんですが…」