4 名前の入れ替わり、そして「サボン」の過去
災厄―――
そう、それは災厄だった。
「一体儂の娘を何人死なせれば気が済むんだ!」
今上の皇帝の即位十年の宴で、左臣長クダシンは乱心し、そう涙ながらに叫んだと言う。
彼は当時、この十年間に七人の娘は宮中に入れ―――全て失っていた。既にこの時点で彼に女子は一人として残っていなかった。
当時の実質的な最高権力者であった彼は、形の上でのそれも手に入れたいと思ったのだろう。
彼は五人居る夫人から生まれた全ての娘を宮中に送り込んだ。
だがその一人として子を産むことなく死んでいった。
娘達の身体が格別弱いということはなかった。
彼女達は当時の参内できる貴族のたしなみとして、ある程度の武術や馬術も学んでいた。
先帝の武人的傾向が、婦女子に対する教育にも影響していた例である。
娘達は健康そのものだった。周囲の皆が証言している。
それだけにクダシン左臣長は納得がいかなったのだろう。彼の妻の中には、娘達よりずっと身体の弱い者も居る。お産をいつも心配された女もあった。
それでも妻は自分の子を数名産み、弱いなりにゆるゆると生きている。生き続けていた。納得がいかない。
彼は確かに娘を政略の道具にはしていた。だがその一方で、それなりに愛していた。愛していたからこそ、宮廷の華にさせたかった、という思いも彼の何処かにはあったのかもしれない。
権力欲は自分一人のためではない。自分、家、家族、親戚、雇い人に到るまでの彼の背負い込む全てのためでもある。
なのにその過程で娘達は次々と死んでいった。納得がいかない。
納得が、いかない!!
クダシンは場を乱した罪で謹慎処分となり、やがて政治の舞台から消えて行く。
その彼が連れて行かれる時に、こうつぶやいた。
「災厄だ」
何が、とは言わない。言っていたら彼の家は既に取り潰しとなっていただろう。
「ですからそうならないことを祈っております」
薄紅に白の帯、紅色のスカートの準女官服を身につけた少女はにっこりと笑った。
「…でも本当に… いいの?」
そして自分の「主人」に耳打ちする。
「どうでしょうね」
と「主人」は肩をすくめる。
「弱気ではいけませんことよ、アリカ様」
耳慣れない名前が、「主人」の耳をくすぐる。
「そうですねサボン」
「その口調も何とかしなくてはね」
お互い様だ、と「主人」は思う。
宮中。
広大な敷地を南北に分けたうちの「北離宮」。
サヘ将軍の三女ムギム・アリカケシュ・サヘ、それに側仕えのメ・サボナンチュ・ククシュクはその日、そこに居た。
「ともかくまず陛下がお通いになる」
「サボン」は指を折る。「アリカ」はうなづく。
何度も何度も繰り返した、今晩よりの手順だ。
「ひとつきの間、陛下は月満ちる時以外は、毎晩いらっしゃる」
毎晩ね、と「アリカ」は苦笑する。
「あんた、今月の満ちるのはいつだったか覚えていて?」
「今月はたぶん真ん中のはず。細かくは判らないけれど」
「…その期間だけはまあ避けて。…ああ、でも避けない場合もあったって聞くわ。ちょうどその時にそうなってしまった方もあったとか無いとか」
「アリカ」の口が曲がる。
「でまあ、その間に何らかの兆しがあったなら、確認の医師団が遣わされ、全員の診断で確実とみられたら、その時ようやく宮中に認められ入ることが許される」
「全員…」
「聞いた話だと、診察はそれぞれの医師によって違うものらしいの。そしてまだその時にはあんたは宮中の女、ではないから、どういう診察をしても構わないらしいわ」
「どういう診察でしょう?」
「キトリ叔母様がそういうことにはお詳しかったのだけど、宮中の女性、には何というか… 触れてはいけないのですって」
「触れずに診断なんてできるんですか」
「できる訳ないでしょう。だから実際には、女性の助医が診断結果を伝えて判断を仰ぐ、とからしいわ。だけどそれはきちんと宮中の女、になった場合。まだあんたは宮中の女じゃあないから、脈を取るとか舌を見るとかそういうことだけでなく、もしかしたら、足を開かなくてはならないかも、って。叔母様はそうおっしゃってたけど」
ふう、と「アリカ」はため息をついた。
「どぉ? …後悔している? 交代したこと。私になりすましていること」
いいえ、と間髪入れず、答えが返る。
「後悔はしてません。それはそれ、ですから…」
実際、自分がもし、普通に子を孕む様なことがあれば、その時そう診察されることだってあるだろう。上つ方では無いのだから、肌にべたべたこれ幸いと触れる輩もあるかもしれない。
だがそれはまあいい。
自分の身分だったら、そんな、診察の方法をどうこう言う以前に、いつ捨てられて身体を売る羽目になってもおかしくはないのだ。
それと比すれば。見られるくらい、触れられるくらい、大したことではない。
ただ。
「ただ、上つ方の考えることは、面倒だなあ、と」
「面倒! 本当、面倒よねえ…」
「確実な結果を求めるなら、まあ確かに良い方法だと思うのです」
「私は嫌だけどね」
およそ使用人にあるまじき発言を「サボン」はする。自分だけでなく、彼女のこの言動も何とかしなくてはならない、と「アリカ」は思う。
それに。
「ただ夜はそれでいいのですが、昼はどうしましょう。私は外をふらふら出歩く訳にはいかないのでは?」
ああそれ、と「サボン」はにっと笑う。
「私とあんたのどっちがどっち、なんて実際、知ってるひとなんて宮中には居ないわよ」
特に「北」には、と「サボン」は付け加える。
そうかもしれない、と「アリカ」のサボンは思う。
自分の知る限り、現在自分の名を名乗っているこのお嬢様は、そうそう外部の目に触れたことは無いはずだ。
良家の令嬢となればなる程、帝都に足を踏み入れることができる十六の歳までは、屋敷の中で隠される様にして育てられるものである。
外出する時や、馬術の稽古などの時にも、顔は隠され、人目に触れることはまず無い。
したがって、公の場で素顔を見せた時点で彼女達のどちらかが「アリカケシュ」と名乗れば、それがアリカとなってしまう。そして永久にアリカでいなくてはならないのだ。
死ぬよりはましよ、とアリカは言った。死ぬかもしれない、程度でもですか、とサボンは問うた。それでもよ、とアリカは言った。
その時点でアリカはアリカという名を捨てたに等しい。
サボンは、と言えば―――
宮中に側仕えで上がる、と決まった時、それまでただの「サボン」だった名に、ややかしこまった「正式名」と母姓の「メ」と父姓の「ククシュク」が加えられた。
そもそもサボンは自分の名を知らない。
将軍に拾われた時、しきりと彼女は「さぼん、さぼん」と泣きながら訴えていた。だから「サボン」と呼ぶようになったのだ、そう聞いている。
彼女自身は本当の名を知らない。
母姓も父姓も、所詮は付け足しの様なものである。
将軍は自分が滅ぼした部族「メ」を母姓とし、死した英雄「ククシュク」を父姓とした。
だから。
だからそれは、どうでもいい名だ、とサボンは思っていた。
そして夜が来る。
「お出まし」が何時になるのかは彼女達には知らされていない。皇帝の気が向いた時に、彼は一人で来るのだという。
「ぞろぞろとお付きがついて来るのかと思ったけど」
二人は当たり障りの無い話や、お菓子をつまむことでで時間を潰す。話でもしていないと時間が進まない様な気がしていた。
「灯りが暗すぎるんだわ」
と「サボン」となった彼女は言った。
「本の一つも読めやしない」
「必要ないからじゃないですか」
「必要…」
少し考えたサボンの頬が赤らむ。
「…それにしてもあんた平然としているわね」
「ここで今更」
ふっ、と「アリカ」となった彼女は笑う。
そう、こんなことくらいでは、自分の気持ちを揺さぶることなどできないのだ。
「…あんたって何かに驚くことがあるの?」
「ありましたよ。昔は」
「でも私、見たこと無いわ」
「その前のことですから」
そう、その前のことだ。十三年前、将軍に拾われる前の。
「それにしても遅いですね」
「もしかして、今夜は来なかったりして」
「だったら職務に怠慢ということになりませんか」
「あら不敬っ!」
「冗談ですよ。でも、そんなに暇ですか?」
「暇だわ。それに、あんたの所に陛下がいらしてそっちの部屋に行ってしまったら、私はこっちでずっとお帰りになるまで起きて待っていなくちゃならないんですからね」
「…がんばって下さい」
「…心が籠もっていないわね」
「…そうですね」
ふふ、とアリカは笑った。
「では少し、眠気覚ましに昔話をしましょうか」
「昔話?」
「私があなたと出会う前のことです」
「…って」
サボンは首を傾げる。
「ええ。あなたのお父様に拾われる前のことです」
「…ってあんた、その時まだ三つか四つでしょ。私とそう変わらないんだから」
「ええ、三つか四つです。正確には知りませんが」
「私自分のそんな時期、全然覚えてないわよ」
「そうですか。でも私、覚えているんですよ」
あいにく、とアリカは首を傾げた。
言われた側は「あいにく?」と首を傾げた。記憶力が良いなら、それに越したことは無いだろう。だがこの昔なじみの言いぐさでは、それはまるで忌々しいものの様に感じられる。
「サボンの出身の『メ』族のことを、あなたご存じですか?」
「いいえ」
「今はもう無い部族です。滅ぼしたのは、あなたのお父様です」
「…え」
サボンは息を呑んだ。
「別にだからと言って、将軍様やあなたをどうこう思うことは無いですよ。だって私にとっては、別に居心地の良いところではなかったんですから。むしろ感謝してます。あそこから連れ出してくれて」
「…で――― でも、無いってことは」
「皆殺し、です。私は見てましたから、知ってます。少なくとも、戦さ場に居た者は、将軍様に抵抗する者は首を落とされました」
「見てた… の?」
「ええ」
「本当に?」
「私は記憶力がいいんです」
アリカは目を伏せた。
「その時こんな風に目を伏せていたら良かったのでしょうけど、あまりにもその時は、皆が見ろ見ろ、と煩かった。私のそこでの役目は見ることと、数えることでした」
「見ること、と数えること?」
「あなたいつも私が賢い賢いとおっしゃいましたよね」
「ええ、まあ…」
サボンは軽く身を退く。
「別に私は賢い訳じゃあないんですよ。ただ見たものを即座に記憶して、計算できるだけなんです」
「…わからないわ」
「戦さ場において、敵がどれくらい居るか、武器はどのくらいか、何人か、…それは大切な情報です」
「何、それじゃああんた」
「私はどうも、言葉を話せるようになった頃から、そうだったようです。…そして母が、実に戦に熱心なひとだった、らしく」
「らしく? お母様のことでしょう?」
「何故かあのひとのことは私の記憶には少ないのです。むしろ私の覚えているのは父のことばかり」
「お父様?」
「父はいつも私が戦さ場に出る様なことになることに反対していました。それを母がいつも怒鳴りつけては私をつまみ上げては長の所へ持っていったのです。いつもその時には籠に入れられました。私はそのまま籠の中で、戦さ場を見ていました」
そう、ずっと、そうだった。
現在でもあちこちで起きる「内乱」。
大小取り混ぜ、この広い版図の中で、起こらない日は無い。
先日戻ってきた将軍が居た「東海」の方面もそうだ。平定と治安回復に半年かかっている。半年で済めば良い方だ。
「メ族の鎮圧は時間がかかっていません。私が実際に戦さ場に出されたのは、せいぜいがところ十日というところです。そのうち、実際の戦闘になったのは二日。その二日間で、メ族の英雄ククシュクをはじめ、千人近い人々が首を刎ねられました」
覚えている。砂地に血が飛ぶところを。
血は砂にすぐに吸い込まれ、やがて跡形も無くなる。空はただただ青く、日射しも強かった。
「私は籠に入っていたから助かったのです。当初、部下の方は、私がメ族に捕まった子供だと思った様です」
「え、でも、言葉とか」
「私はしばらく黙ってましたから」
黙っていた方がいい、と思っていたから。