3 アリカの入宮の決定、そして少女達のたくらみ
「な」
大きな瞳が、更に大きく見開かれる。
「何と… おっしゃいました? お父様」
アリカケシュは問い返した。
「何度も言わぬ」
「けど…」
「それに、いつからお前はこの父に口答えをするようになった?」
「…け、…ど…」
声が次第に小さくなる。ゆっくりと、瞼は瞳を隠して行く。
「これは決定だ。来月、お前は宮中に入るのだ」
「宮中…」
その意味するところは、既に彼女も判っていた。
―――聞きたくない。
彼女は思う。
だが父親の説明は続く。
「お前も知っての通り、現在の皇帝陛下におかせられては、即位より四十余年、未だお世継ぎがお生まれにならない」
それは判っている。幾ら彼女が深窓の令嬢といえども、そのくらいは。
それだけではない。だから。
「嫌でございます!」
答えた。
「そうか、嫌か」
「はい。嫌でございます」
「判った」
将軍はうなづき、つ、と空の杯を置く。ヘザンは無言で代わりの茶を注ぐ。
「入宮は来月の二日だ。サボンはアリカの用意を頼む」
「お父様!」
「これは決定だ。お前にはサボンを付かせる」
え、とサボンは垂らしていた頭を軽く上げる。
「それはお前のための娘だ。お前のために拾った娘だ。お前に与えた娘だ。どう使おうと、お前の自由だ」
ぐっ。手にした茶器を掴む力が強くなる。慌ててサボンは両手で支える。
「…お、おとうさま…」
わなわな、とアリカの唇が、卓上の敷物を掴む指が震える。
まさか。まさか愛する父親が、その様なことを自分に。
「命令だ」
あ、と彼女は小さく喉の奥から声を立てた。
決定の合図だ。帝国において、皇帝の命令がそうである様に、家庭における父親の命令は絶対だった。
「サボン」
将軍はもう一人の少女に顔を向ける。
「はい」
落ち着いた声を返す少女は、同じ年頃の娘とは違い、あくまで冷静だ。
「お前はアリカの命令を聞くように」
「はい」
「いいか、どんな命令でも、だ」
「…はい」
サボンは軽く目を細めた。
どうも現実感が少ない。じんわりと手に伝わる茶器の熱さが彼女をようようそこによ引き留めていた。
「いや、それにしても、旦那様、本当に、ずいぶんと急でございますな」
場の空気の重さに耐えかねた様に、ヘザンは主人に問い掛けた。
「急ではない」
将軍は答える。
「は」
ヘザンはぱか、と口を開けた。
「既に決まっていたことだ」
そうなのか、とアリカは唇を噛む。
そうだったのか、とサボンもやはり、唇を噛む。
「それに、宮中には毎年毎年、幾人も女は送られる。お前だけではない」
「でもお父様、…その大半がお亡くなりになっているということではないですか!」
勇気を振り絞ってアリカは問い掛ける。
「運が悪かったのだ」
「私もそうなるかもしれません!」
「ならないかもしれない」
「なったら…」
「言うな」
将軍は手を挙げた。
「私とて、決してお前の身を案じていない訳ではない」
「ではどうして」
「決まっていたことだ」
繰り返される答え。
「世継ぎが生まれないということは大変なことなのだ」
それは判っている。判っているが。それは。
「けど旦那様、おそれ多くも先の陛下の御時にも、なかなかお世継ぎは」
「先の陛下の御時とは、事情が違う」
そんな父親の言葉など耳に入らないのか、アリカは卓に突っ伏し、しくしくと泣き始めた。
「そういうものですか?」
「私も子供の時のことだから、詳しくは知らぬが。お前の方がその時代のことは覚えていないか?」
「へえ。まあ。でも何というか」
ちら、とヘザンは「お嬢様」に視線を移す。それでも可哀想だ、と彼は思う。
「先の陛下の御時が終わるなんて、わしは考えておりませんでしたから」
「そうなのだ。そこが問題なのだ」
将軍はため息をつく。
「父将軍も、お前と同じ思いだった様だ」
「へえ、それは… ありがたいこってす」
「先の陛下はある程度の女達が死ぬことが判ってからは、無闇やたらに世継ぎのことを口にしなくなった。宮中に入れなくなった。しかし誰もそれで心配はしなかった。何故か判るか? ヘザン」
「そらまあ、皇帝陛下におかせられては、永遠の方、ですから」
「そうだ」
将軍は重々しくうなづいた。
「即位以来、いつまでも若々しく、そして誰よりもお強い。何より、そのお身体は」
そう。
彼女の主人に茶を注ぎながら、サボンは思う。
皇帝陛下。永遠の人。
四十数年どころか、先の皇帝は二百年近く生きたという。
最期の瞬間まで、即位した時の三十少し前の青年の姿のままで。
帝国の臣民が、皆知っている、この事実。
事実なのだ。
帝国、とこの国は自称している。
それ以上の名前は無い。
それまでこの広大な大陸に散らばっていた様々な国々は、支配する家の名をつけることが多かった。
また古い歴史のある旧「桜」藩国の様に、その土地の特性を現す言葉をつけることもあった。
だがこの国にはそれは無い。ただ「皇帝の治める国」、それ以上の名はその国には必要が無かった。
「隣国」が存在しない国には、わざわざ国々の区別をするための名称は必要が無かった。
この国の周囲に存在するのは、海と、砂漠のみ。
*
「その広い帝国の宮中に入るなど、―――実に光栄、名誉なことではありませんか」
サボンは寝台で泣きじゃくる主人に向かって言う。
「何がっ!」
アリカは身を起こす。その顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。
「宮中にお入りになることは名誉なことです」
サボンは言葉を変えて繰り返す。
「あんたにはそう見えるって言うの?」
はい、とサボンはうなづく。
アリカの手が不意に枕を掴んだ。投げた。
ばす。
避けもせず、サボンは柔らかなそれを顔で受けた。
「…」
両手に持ち直すと、ぽんぽんと形を整える。
「名誉なことです」
サボンは繰り返す。
「…でも嫌よ」
アリカは低い声を絞り出す。
「死んでしまうかもしれないのよっ! …嫌よ。嫌嫌!」
首をぶるぶると振る。髪が乱れる。
「お嬢様…」
「だってそうじゃない! 今までどれだけの方が、陛下の御子を産めずに亡くなられたか! あんた私より賢いから、知っているでしょう! 私が死んでもいいってあんた言うの!」
ばふばふ。柔らかな布団を叩く。埃が舞う。サボンは眉を潜める。掃除のし直しをしなくてはならないだろう。
「そんなことは…」
「いいえ。きっと思っているんだわあんたも。いつも私が我が侭ばかり言うから、あんたも裏では私のこと、憎んでるんだわ」
やれやれ、とサボンはそっとため息をつく。
そんな、考えても仕方が無いことを考えてどうなるというのだ。
幼い頃に拾われて以来サボンは、この家の使用人だ。この家の、将軍の、アリカのものだ。
彼等を好きになる必要も無いが、嫌いになる必要も無い。主人というものは一般的に理不尽なものだ。そうでなければ御の字だ。
少なくともサボンはそう思うようにしてきた。そしてその意味では、自分はまだずいぶんと良いほうだと。
「お嬢様がお亡くなりになるとは限らないではないですか」
「何それ」
ふん、とアリカは真っ赤になった鼻をすする。
「生きて、公主様をお産みになった方もいらっしゃいます。お嬢様がそうならないとは限らないではないですか。御子を孕まないかもしれないではないですか」
「…あんた結構失礼ね」
ぐいっ、とアリカは涙を手の甲でぬぐう。ずずっ、と鼻を一気にすする。
「それに、もしかしたら、皇后陛下になられるかも」
「冗談!」
アリカは大きく首を振った。
「今の今まで、誰もそうできなかったのよ?」
「今の今までそうだったからって、今度もそうとは限りません」
ふうん、とアリカはうなづいた。
「今まで今上の陛下の宮中に入られたのは五十と六の女性方です。それは私の知り得た人数ですから、実際にはもっと多いでしょう」
「…耳年増」
何とでも、とサボンは返した。
「そのうち公主様をそれぞれお一人づつお産みになったのは十五人。そのうちの七人が御降嫁になり、翁主様となられ。八人のうち、二人が幼くしてご病気でお亡くなりに。現在宮中にいらっしゃるのは六人ですが、そのうちの三人がご結婚がお決まりになり、外で御修行中。実際には三人だけです」
「は、全く! 閑散! としているわね!」
「だからお嬢様がお入りになって、華やかな宮中になっていただきたいのでは?」
「は」
あはは、と彼女は笑った。
「私で華やか、はないでしょう! 世襲大貴族の娘でもなく、一将軍家の娘が! だいたいあんた、今まで生き残って来られた方々のことばかり言っているけど、逆に言えば―――えっ、と」
「はい。四十一人の女性は、何らかの形で、外に出ています」
「そうよ。ってことは、五人に四人は死んでるってことじゃあないの?」
「お亡くなりになってばかりじゃあありませんよ。そのうちの半分の方々は、どうしてもお孕みになれなかったのです。そして外に出された」
「そんな話聞いたことは無いわ」
「確かに。でも高貴な方々は、身体が決して丈夫でない場合もあります。はじめから、陛下の… その、受け付けることが、できなかったというのでは」
「陛下の… 何?」
アリカは眉を寄せる。
「何よ。言ってごらんなさいよ。別に私だって全く知らないというのではないわ。大切なところに大切な御物がお入り出来なかったとか、そういうこと? そういうことを言いたいんでしょ」
「…お嬢様…」
はあ、とサボンは頭を抱えた。
「それで駄目だって言うなら、はじめからそういうのが、あそこが、大丈夫そうなひとを見繕えばいいのよ! なまじ子供を作ったことが無い生娘、なんてこと言ってるから、できないんじゃないの!」
「…お嬢様、はしたないです…」
「ふん、本当のことでしょ」
まあそれは確かに、とサボンは思った。
「あんた、私より賢いんだから、ずっとそう思っていたんじゃない?」
「私の口からは言えません」
「ほら、そういうことじゃない」
ふん、とアリカは胸を張った。
困った、とサボンは思った。話がどんどんどんどんずれている。自分はこの自分の主人が宮中に行くことを了承させなくてはならない立場にあるというのに。このままではこの何処かはしたないお嬢様は「やっぱり嫌」とはねつけるだけだ。
「生娘と言えば私なんて、そのものじゃない! きっと陛下の御物など、全くお入りになれないに違いないわっ! それに初めては凄く痛いって言うじゃない! 血も出るって言うわっ! もしかしてその時の血が多すぎて死んでしまうひとも居るのかも!」
ああもう滅茶苦茶だ、とサボンは思わず額に手を当てた。
「…ともかく、お嬢様が宮中に行かないことには、旦那様のお立場が」
「…そんなこと、判ってるわよ」
途端にアリカはしゅんとなった。
だが次の瞬間、彼女はサボンをびっ、と指さし。
「だからこれは愚痴よ!」
「愚痴、ですか」
はあ、とサボンは間抜けな声を立てた。
「はん、こんなの、愚痴に決まってるじゃない!」
「…決まってる、んですか」
「お父様が上のご命令に背けないことなんか、私だって当たり前、知ってることよ! 仕方ないじゃない! だから私の言うのは愚痴よ! だからサボン、あんたは、私の愚痴を聞けばいいの!」
わかった? とアリカは口を歪めた。
「…そうだったんですか…」
「何あんた、私と十三年も付き合ってきて、気づきもしなかったの?」
「サボンは不調法ゆえ」
「そうよね。鈍感だし。あー、でも本当に、憂鬱なのは、憂鬱なのよ?」
「…そうでしょうね… けどそれは、昔の、宿題の帳面の様に、代わりができるという訳ではございませんし」
「代わり」
ぱち、とアリカの目が丸く開いた。
「何サボンあんた、私の代わり、してもいいって言うの?」
「え? ええ無論」
あっさりとした答えが返る。
「本当に?」
ぐい、とアリカはサボンに顔を近づける。思わずサボンは軽くのけぞる。
「ええ本当に。そんなことできないのは重々判っておりますが」
「何で」
「どうしてとおっしゃられても。お嬢様がお困りになっているし」
「賢いあんたがそれだけ?」
「…お言葉を返しますが」
「そこで返すあたりがあんたよね」
「私は別に賢くはありません」
「何言ってんのよ。うちにある古典書籍と、新版全版図帳に載っている地名を新名古名合わせて、一字一句間違えずに暗記している女の何処かが賢くないって言うのよ」
サボンは苦笑し、黙った。事実は強い。反論を許さない。
「代わりますか?」
「ほんっとうに、あんた、いいの?」
「サボンはお嬢様のものですので。旦那様もそうおっしゃいましたことですし」
「ふうん? あの時の言葉を、あんた、そう取っていたのね?」
いや違う。サボンは薄く笑った口元に、言葉をもう一つ隠していた。
十三年前、将軍が自分を拾ったのは、いつか来るだろう、同じ年頃の娘の災厄の身代わりにするためだったのだ。