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19 皇帝は皇后をその名においてそそのかす

 ふう。

 さすがに疲れた、とサボンは正議殿から降りて来ると最寄りの柱にもたれ、一息つく。

 額に手を当てる。微熱があるかもしれない。

 ここ数日、ほとんど寝ていない。疲れが出たのだろう、後で医女に来てもらおう、と彼女は思う。

 そう特に、皇后となったアリカが勝手に髪を切ってしまってからだ。



 とある朝。

 ばさばさと床に落とされ、無造作に集められたそれを見た時、サボンは心臓が止まるかと思った。


「何を凍ってますか? サボン」


 皇后アリカケシュは、あっさりと言ってくれた。


「な、何をって…」


 思わずかがみ込んで、切られた髪を拾い上げた。掴んて、主人の目の前に突きつけた。


「何ですかこれは!」

「髪ですよ。あなたと同じ色」

「それは判ってます!」

「じゃあいいではないですか」

「一体どうして」

「特に意味は無いですよ」


 あっさりと皇后は言う。


「意味が無いって! ああ、こんなざんばらに… これじゃあまるで、世を捨てた法道者の様ではないですか!」


 サボンは大きく首を振った。

 宮中に来て以来、皇后アリカは何かと女官サボンの鼓動を速めてきた。

 最初はそう、「書庫籠城十日間」だった。

 皇帝の命で、当初は書籍が彼女達の北離宮に運び込まれていた。

 だがアリカはすぐにそれには飽き足らなくなった。


「書庫は何処ですか」


 皇帝に直接鍵をもらうと、身重のアリカはそこに閉じこもった。サボンを連れて。

 アリカは怖ろしい勢いで書籍を繰ると、幾つかの山に分けて行った。

 そして元の場所に片付けようとしたサボンに向かい、首を横に振った。

 さすがにサボンも理由を訊ねた。


「散らかしたままじゃあ、私が後で女官長様に叱られるわ」

「叱らせはしないです。やったのは私です。そうですね… そう、この山は片付けて下さいな。これは構いません」

「何?」

「物語書です。これは片付けてしまって下さい。それともあなた読みますか?」

「結構。それ以外は困るの?」

「検討中なんです」

「検討中?」

「ええ」


 その意味は未だに判らない。ともかくその時サボンは言われるままに「これは大丈夫」と言われたものは棚に戻し、それ以外は放置した。

 その間果たしてアリカはどれだけの時間眠ったのだろう? サボンは疑問に思う。寝具を運びこませると、アリカはサボンに先に寝る様に命じると、夜中でも作業を続行していた様だった。


「疲れましたか?」

「疲れない方がおかしいわ」

「そうですね」


 くす、とアリカは笑った。


「疲れたら疲れたと言って下さい。私には判らないですから。そうしたらあなたは休んで下さい」

「そうは行かないわ。私は皇后様付きなんだから」

「でもあなたは疲れるでしょう?」

「あなたは疲れないって言うの?」

「ええ」


 あっさりと皇后は言った。


「私は疲れないです。疲れないんです」


 それに返す言葉を、サボンは持ち得なかった。


 そして今回の断髪である。

 最側近の女官である彼女はずいぶんと女官長に責められた。


「そなたがついていながら何ということです! あの方のすることが突拍子もないことはそなたが一番良く知っているはずでしょう!」


 言いたくなる気持ちは判る。とっても判る。実際サボンは何度アリカに問い掛けたことか。


「女性は長い髪を編んだり結ったりするのが普通でしょう!」


 だがアリカときたら。


「邪魔でしたから」


 この一言を吐くと、涼やかに笑った。それでサボンは何も言えなくなった。


「まあ見ていて下さいな」

「何をですか」


 人前でなくとも、敬語を使うのに慣れてしまった。


「長い髪が当然、なんていうのは所詮このあたり、ここしばらくの間にできた習慣に過ぎません。先の先の皇帝の御代の頃は、男性だって長髪が普通でした」

「…そうなんですか?」

「そうです」


 ふふ、とアリカは笑った。

 涼やかな笑い。

 普段は笑みなど何処の空、口を一文字に引き締めるだけの皇后が、サボンと話す時だけはよく笑う。宮中では有名なことだった。


「歴史的なことには私は詳しくないから、そう言われては何とも言い様がないです」

「そうですね」

「けど今の風習は風習として尊重するものでは?」

「でもそれは永遠ではありません」


 ふぁさふぁさ、と皇后は軽くなった頭を揺らす。


「今までの重さが嘘の様です。普通の女性なら、肩や首の凝りもさぞ減るでしょうね」

「式典はどうするのですか」

「だから」


 両の口角がくっ、と上がる。


「似合うものを皆で考えれば良いのではないですか」


 うー、とサボンはうめいた。

 女官長トゥバーリ・レレンネイ・ヒャンデはぶつぶつ言いながら、縫製方筆頭女官ネノ・プリョーエ・クスやその配下の者を呼び寄せ、額を突き合わせ、「短い髪に似合う礼装」を考えたものである。


「…今から伸ばす気はないのですか?」


 サボンは何度か皇后に問い掛けた。


「無い」


 彼女の答えは簡潔だった。サボンは大きくため息をついた。

 もっとも。サボンは思う。以前は自分がこんなことで彼女を煩わせたのだ。



 一方の皇后アリカは。

 帝国最大の蔵書を誇ると言うその場所に籠もり、出るまでにかなり苛立ちを抱え込んでいた。


「ご存知ですか、陛下?」


 時々窓からやって来る皇帝に彼女は言った。


「何をだ」

「書庫の冊子達です」


 皇帝カヤは黙って訝しげに彼女を見た。


「使えるものも確かに多いのですが、そうでないものも多すぎます」

「ふぅん?」

「どうしてそれを明らかにしないのですか。陛下はご存知でしょう」


 まあな、と皇帝はうなづいた。 


「それは俺も思ったことがある」


 皇帝は窓辺に座ってつぶやいた。

 光溢れる外には緑がきらめいていた。

 穏やかな午後だった。サボンが茶を用意して来る間のことだった。


「だが過去の賢人の書を、間違いだと言える者がどれだけ居る?」


 アリカは口ごもった。眉を寄せた。彼女を一番良く知るサボンですら珍しいと評するだろう表情だった。


「判っているだろうが」


 皇帝は目を伏せた。


「宮中で、―――いや、この帝国において、現在世に出回っている究理について、間違いを間違いだと断言できるのは、俺とあなただけだ」


 アリカは黙った。確かに皇帝の言う通りなのだ。


「それは… 機が熟さないということですか」


 そうだ、と彼はうなづいた。


「それがたとえ皇帝である俺であったとしても、駄目だ」

「しかし陛下が受け継いだ知識は確かに」

「そう、確かに父帝より知識は受け継いだ。だが、その知識はあくまで知識に過ぎない」

「…」


 アリカの眉間のしわはますます深くなった。


「正直、俺からしてみれば、その知識にしても、実感の伴わない、そう、何処かの遠いおとぎ話の様にしか感じられない」

「それは私も同様です。…ですが」

「あなたは承知できないのだな」


 皇帝はふっ、と笑った。


「何故だろうな。あなたは今まで、どんな生活も受け入れてきたのだろうに」


 皇帝の視線はアリカの下腹部へと移る。


「それとも今あなたの中で育っている子は、あなたをも変えてしまうのだろうか」

「いいえ陛下」


 アリカは顔を上げた。


「私は何処であろうと、私に変わりはありません。立場が変わろうと名前が変わろうと」


 使用人のサボンが皇后アリカになった。ただそれだけのことなのだ。


「何処であれ、何であれ、私はその場その場で納得の行くことをしたいだけなのです」


 サヘ将軍家の使用人であるなら、使用人なりに納得の行くことを。

 皇后という今の立場なら、その立場で納得の行くことを。


「ただその立場が変わった。それだけなのです」

「あなたは強いな」


 皇帝は身体を乗り出す。


「強くはありません。考え方に柔軟さが無いのです」

「柔軟さ、か?」

「私はその時その時の立場でできる限りのことをしたい――― ただそう思うだけ、なのです。それを止める術を考えることの方が、できる限りのことをしない様にすることの方が、私には難しいのです」


 皇帝は暫し考える。


「つまり、前しか向けない。そういうことかな」

「判りません。陛下の御目にはそう映りますか?」

「ああ。俺の目には、あなたはそう映る」


 そして彼は、そうだな、と顎をしゃくる。


「そう、あなたの側についている彼女がはらはらしている姿も見える」


 ぐっ、とアリカは詰まる。


「あなたは上に立ったことが無いだろうから下の者を気遣う気持ちがまだよくは判らないだろう」


 はい、とアリカは素直にうなづく。


「だが今の立場は、一つの動きがそのまま下へと伝わる。あなたが何かしようとすれば、あなたにそうしてもらうために、おそらくはあなたが思っている以上の下の者が動くのだ」

「…はい」

「ただ」


 皇帝は彼女の顎を持ち上げる。視線が絡む。


「彼等はあなたの命令を聞くために居る。そのあたりを上手く掴むと良い」

「え」

「現在の書物に納得がいかない。ならあなたはその間違いは間違い、正しいものを正しいと実証する様な者を集めればいい。あなたの名において」

「そんなことが」


 皇帝はにやり、と笑う。


「あなたは俺よりおそらく賢い」

「そんな」

「俺は所詮『宿屋の倅』だ。それ以上でもそれ以下でもない。母が昔言った。お前には野心が無い、と」


 母。それは話に聞く風夏太后、今も行方が知れない皇太后のことだろう。


「俺には野心は無い。確かに無い。興味も無い。だがあなたにはあるだろう?」

「…それは」

「既に野心ではないのか? その立場で納得のできることを、というのは」


 野心――― 野心だろうか。アリカはその言葉に戸惑う。それは危険な言葉だった。それまで彼女は思いついたことの無い言葉だった。


「あなたは野心を持てば良い」


 皇帝はあっさりと言った。


「俺の持てない分だけ持てばいい」

「そんな」

「あなたの言葉は俺の言葉として受け取る様、民に号令を出せば済むことだ」

「そんな、おそれ多い」

「民を苦しめなければ、それでいい。ただ…」

「お茶をお持ちしました…」


 戸口からサボンの声。耳に届く。


「またいずれ」


 唇を軽く、かすめる感触。戸が開く。アリカは視線を移す。


「…どうしました?」


 振り向いた時、皇帝の姿は既にそこには無かった。

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