14 サヘ将軍、「娘」と腕相撲をして敗北する
サヘ将軍が息子とその友人を連れてやってきたのは、それから少し後だった。
食事が何とか終わった頃だった。
「…」
「…」
タボーとエモイは呆気にとられてその様子を眺めた。何か言いたいのだろう、とサボンは二人を見て思ったが、あえて口をつぐんだ。
がつがつ、がつがつ。
良家の令嬢にはあってはならない程旺盛な食欲を見せて、アリカは運ばれて来る料理を口にした。
そしてその時々に、やはり力の加減を間違う様で、匙を曲げたり皿にひびを入らせていた。
ふう、と最後の茶を口にした時には、半ば使いものにならなくなった食器が卓の上に山と積まれる羽目になった。
「…だ、大丈夫なんですかね、サボンさん、女君は」
「…大丈夫、らしいわよ…」
囁くタボーに、サボンは肩をすくめた。しかも一体身体の何処に入ったのだろう、腹は少しも膨れていない。
「ま、ともかくあんたは少しお休みなさいな」
「え、でも私も片づけを…」
「将軍様がいらっしゃるんじゃないですかね? 私達はそっち向きじゃあないですよ」
ではお言葉に甘えて、とサボンはアリカの方へと戻った。
ようやく茶器を持つ感覚が判ったらしく、アリカは茶をすすっていた。
その様子を控えの間で、椅子を引き出して眺めているうちに、サボンはついうとうとしてしまったらしい。
目覚めたのは、父の声。
「サボナンチュ」
肩を掴む力。暖かい手。
はっ、と目を開く。思わずお父様、と言いそうになった。口を開きかけた。
違う、使うべき言葉は。しなくてはならない態度は。
「将軍様」
勢い良く立ち上がると、すっと頭を下げた。
「申し訳ございません。この様な格好で」
「うむ」
将軍は短くそう言うと、うなづいた。父の後ろには、兄と、見知らぬ青年が二人。
「―――あれはどうか?」
将軍は問い掛ける。あれ。それは自分だったもの。今のアリカ。
「お目覚めになられ、…少々お気が高ぶっていらっしゃる様です。アリカ様は」
そうか、と将軍はうなづき、寝室の方へと向かった。兄はサボンを見ると、微妙に表情を歪めた。そして何も言わず、父の後へとついて行った。
胸がくっ、と締め付けられる思いだった。
と。
「僕等は入ってもいいのかな?」
穏やかな声が、背後からした。振り向くと、背の高い眼鏡の青年が自分に問い掛けていた。
「あの…?」
「やっぱりここまでかな。入れるのは。さすがに」
「さあ… 私には判りかねます」
「誰だ?」
もう一人が問い掛ける。低い声だ。弾かれる様にサボンはその男を見た。
「はい?」
「女官か?」
「まあ、そんなものです。未だ正式ではないですが」
「お付きなんだね」
眼鏡の青年―――サハヤはアリカと視線を合わせる様に軽く身を屈めた。アリカは反射的に身をすくめた。サハヤはそんな彼女を見てにっこりと笑った。
「何も怖がらせるつもりは無いんだよ。僕等は君の若様の、友達だから」
「ああ」
サボンはそこで詰まった。そう言えば。記憶をひっくり返す。時々副帝都に戻ってくる兄の話の中には、出来のいい同僚がよく出てきたものだ。
「もしや、都城周衛の…」
「ああ、聞いたこと、あるんだね」
ある。あるのだが。あるのだが…
「おい」
背後の男―――センが、サハヤの肩をぐいと掴む。
「何だよセン」
「困っているぞ」
「困って?」
え。サボンは目を広げる。男の視線は自分の方へと向けられる。
「困っているのではないか?」
ええと。ますますサボンは目を大きくする。そうだ。
何で、判ったんだろう。
サボンは驚いた。自分も今、判ったばかりなのに。
「ウリュン!」
低い声は、兄の名を呼ぶ。
「我々は周衛官舎の方へと戻る」
言うが早く、センは何か言いたげなサハヤを引きずる様にして、北離宮から去って行った。
何なんだあのひとは。
玉砂利の音が遠くなって行くのを聞きながらも、サボンは目を丸くしたまま、しばらくその場から動けなかった。
「サボンさん、将軍様には何かお出ししなくていいんですかね… あれ?」
問い掛けたタボーは驚いた。
「サボンさん…」
え、と振り向くサボンに、タボーはひょい、と手巾を渡す。
「疲れてたんですね。お拭きなさいな」
「何…」
「顔がくちゃくちゃですわ。将軍様に見せちゃあいけませんよ。そんな顔」
顔。慌ててサボンは自分の頬に触れる。濡れている。
泣いていたのか。ようやく彼女はそのことに気付いた。
「今日はゆっくりお休みなさいな」
「疲れてないわ」
「疲れてるんです。そういう時には、同僚なんですから頼んなさいよ」
そういうものなのか、とサボンは手巾を受け取りながらうなづいた。
*
「久しぶりだな」
将軍はアリカに向かって静かな声で言った。
「はい、―――」
「いつもの様に父上と呼んではくれないのか」
「はい、父上」
そういうことにするんだな、と背後に控えるウリュンは唇を噛んだ。
「身体は大丈夫なのか」
「はい」
「気持ちは大丈夫か」
「少し混乱しておりますが大丈夫です」
「それでこそ我が家の娘だ」
違う。ウリュンは内心思う。アリカじゃないこの娘は。だがアリカだと、思わなくてはならない。
いや思ってもいい、が、口に出すな。絶対に。大きな背中がそう言っている。
「侍医の診断では、御子が出来ているかどうかはまだ判らないと言うことだが」
「はい。しかしそう感じるのです」
「感じるだけか」
「はい。すみません」
「それは仕方がない。女の身体に儂は疎い。ともかく今は身体を大事にするがいい。いずれにせよ、長い眠りから覚めたばかりなのだ」
「はい。父上、一つお願いがあります」
「何だ」
将軍は訝しげに「娘」を見た。彼女が自分に頼み事をするのは初めてだった。
「私と、今ここで、腕相撲をしてはいただけないでしょうか」
「腕相撲?」
ウリュンは思わず声を立てた。何故そんな。
「面白いことを言う」
「私は本気です」
「父上、望んでいるのですから」
「兄上」
アリカはそう言うと、ウリュンの方を向いた。そんな呼び方をするな、と彼は内心思う。だが将軍が「父上」ならば、自分は「兄上」だ。仕方がない。
仕方がないならば。
彼は卓を寝台の脇へ引き寄せる。
「父上は名うての豪傑。まずはこの兄が」
そう言うと、彼は右手を卓の上に乗せた。よろしいですか、とアリカは将軍に問い掛けた。将軍はうなづいた。
「では」
アリカは寝台から降りた。
袖を上げ、腕をむき出しにする。そこにはしなやかな白い腕があった。
思わずウリュンは目を細める。
賢いだけでなく、少女はいつの間に育っていたのだろうか。
「よし」
将軍はうなづいた。二人は手を組んだ。将軍はその上に大きな手を乗せると、両者を交互に見た。
「良いか」
「はい」
「はい」
はじめ、と将軍の声と同時に、うわ、とウリュンは自分の身体が右に傾くのを感じた。腕の付け根が痛んだ。
「な…」
「すみません兄上」
手を外した「妹」はあっさりとそう謝る。
「ウリュン、手を抜くのではない」
「いいえ俺は…」
肩を押さえながら彼は首を横に振る。
「もう一度」
しなやかな手を掴む。今度は左で。左でも右でも、鍛えてはいる。多少の差こそあれ、少女に負ける気はなかった。
さっきのは気を抜いていただけだ。彼は思う。
しかし。
「うわぁっ!」
ウリュンは完全に倒されていた。力は入れた。入れたはずなのだ。
気を抜かなければ大丈夫のはずだった。はずだったのに。
「代わろう」
将軍はそう言うと、アリカの正面に屈んだ。
ウリュンは痛む肩を撫でつけると、大きさのまるで違う両手の上に手をかざした。
「はじめっ!」
今度はすぐに結果は出なかった。
―――動かない。
将軍の顔には、明らかに驚きの色が浮かんでいた。動かない? 動かないなんて!
サヘ将軍は根っからの武人である。その力は半端ではない。剣をふるい、槍を回し、強弓を弾く手だ。
敵の手を握ってそのまま骨折させたこともある。
なのに。
なのにアリカは、涼しい顔のままだった。
痛くも痒くも無いとばかりに、その華奢な手で、細い腕で、将軍の力をせき止めている。
将軍はむ、と口をつぐむと、握る手に力を込めた。
ぐ、と微かに左に傾ける。だがすぐに反対側からの力がかかる。
ウリュンは父の腕の筋肉が張りつめるのを見た。
「うぉぉぉう」
だん! 卓に音が響いた。
「申し訳ございません、父上」
涼しい顔のまま、アリカは手を軽くさすった。
将軍は、むむ、と低い声を立てた。
「成る程、先程サボンがお前の気が高ぶっている、と言っていたが――― 表に転がっていた椅子は」
「はい、私が投げたものです」
投げた! ウリュンはふと、昨夜の友人の姿を思い出した。
入り口に転がされていた椅子は、自宅のもの同様、結構な重量があるはずだ。
父との話が終わった後、部屋に戻った彼は、友人の姿を見て思わず固まった。椅子は訓練用の鉄錘ではない、と。
友人は練武場に用意されている最も重いものを、芸人のお手玉にも似た仕草で投げたことがある。皆それに仰天したものだ。
それを。
*
「では身体を大事にするのだぞ」
「はい」
声がする。サボンは慌てて厨房の外へと飛び出した。父と兄の姿がそこにはあった。
「掃除中であったのか?」
はっ、とサボンは自分の手の中の手巾に気付く。そうか、これが雑巾に見えるのか。サボンはすっ、と自分の背中が冷えるのを感じた。雑巾。自分の涙を拭ってくれたものなのに。
急に彼女は、自分が父とずいぶん離れた所に来てしまったことを感じた。
将軍は穏やかな声で言う。
「しっかり仕事に励む様に」
「はい、将軍様」
「お前も身体を大切にする様に」
サボンは顔を上げた。父の瞳が、ほんの少し和らいだ様な気がした。
「…はい」
そして兄は。―――何も言わず、その場から立ち去って行った。
怒っているのだ、とサボンは思った。自分のことを許せないくらいに。
そのまま彼女は「自分の主人」の元へと戻った。




