12 アリカ目を覚ますが、なかなか力の加減ができない。
がしゃ。
鈍い音を立てて、杯が手の中で砕けた。
「…サ… アリカさまっ!」
目覚めたアリカはまず水を欲しがった。だから冷たすぎない水を汲み、起きあがった彼女にそっと渡した。
アリカはそれをくっ、と握った。
と。
弾けた水は、砕けた杯は、一瞬にして膝に落ちた。
「…」
目を丸くして、アリカはその様子を見つめていた。
サボンは、と言えば。
何が起きたのかまず判らなかった。
とにかくまず目に入ったのは、こぼれた水だった。
「どうしましょう…何か拭くもの…」
そこまで考え、手巾を取った時。
「…いえ、いえっ、手っ!!」
ひったくる様にして、サボンはアリカの手を見た。
杯が割れたなら、手が傷ついているはず。濡れた膝は拭けばいいが、手に傷がついては。
手巾で血を拭おうとし。
「…え」
血はついた。だが。
「傷が…」
「…うん」
アリカはうなづいた。
「そうか… そうなんだな」
納得した様に、まだ所々血の染みが残る手を裏返し、また表にし、繰り返し見た。
「大丈夫。傷は塞がった」
「塞がった… って」
「…本当、大丈夫だから… その手巾、貸して下さいな。それと、そう、掛布をそのまま下ろして…」
はっ、とサボンは気付く。
掛布の上は見事には濡れているし、欠片も飛び散っている。サボンは慌てて、欠片を包む様にして下ろした。
「雑人女に代わりをすぐに持って来させるわ」
「そうですね… でもその前に水を下さいな… それと、ごめんなさい、呑ませて下さいな」
「え」
「加減が、まだ上手くできないんです」
そう言いながらアリカは手を何度か握ったり開いたりさせる。
どういうことだろう。合点がいかない。
ともかくサボンはアリカの言う通りに、水をもう一度汲み直し、今度は口元まで持って行った。
「…ああ美味しい」
ごくごく、と一気に飲み干す。もう一杯、と要求する。またごくごく。大きく息を吐く。
「…私が眠ってから、どれだけ経ってます?」
「十日近くかしら」
「お腹が空いているはずですね… 食事をお願いできますか?」
「…え、そ、それは… まず侍医さんに聞かなくちゃ」
「侍医の先生に?」
「だって、あなた、ずっと、ずっと寝てたのよ? 十日、ちゃんとものを食べていないのよ? どういうものがいいのか聞かなくちゃ…」
「ああ…」
うんうん、とアリカはうなづく。
「でも、まあ、それは大丈夫です」
「大丈夫って言ったって」
「侍医でも『生き残った』ひとを診たことはないでしょう? 今の私の身体のことは、私が一番判ります」
言いかけて、ふっ、とアリカは目を細めた。
「…いえ、でもそれじゃあまずいですね」
「まずい… わよ」
言いながらも、サボンは何処かその言葉に力が入らない自分を感じていた。
「何がありました? そう言えば、私が眠っている間。とりあえず私が眠っている間にも、何か呑ませてはくれたんですよね、それを下さいな… とにかくお腹が空いて…」
「侍医さんも呼んでくるわよ」
「それは雑人女に任せて下さい。お願いですから、あなたはここに居て下さいな」
そう言ってアリカはぐっ、とサボンの手首を掴んだ。途端、ああっ、とサボンは悲鳴を上げた。
はっ、としてアリカは手を放す。
「な… に、今の…」
サボンは掴まれた手首をさする。指の跡がくっきりとついている。
「…手加減が… ああっ! もうっ!」
どん、とアリカは右の拳で寝台を叩いた。みし、と音がした。
「何を…」
「力が――― 変なんです。加減が」
ほら、と寝台の脇に置かれていた椅子を一つ手にする。軽々と片手で持ち上げる。―――出口に向かって投げる。
ひゃっ、と声がする。
「サ、サボンさんっ! 何かありましたかっ!」
投げられた椅子を両手で重そうに下げ、配膳方が入って来る。
「何でこんなものが飛んで来る… あ、女君!」
「やあ…」
「お目覚めになったのですか!」
「ああいいところに!」
サボンはすかさず口を挟んだ。
「タボーさんお願い、そっちの誰かさんに、侍医さんを呼びに行ってもらえますか!?」
「…え? ああ、―――あたしが、行ってくるよ」
タボーと呼ばれた配膳方は長い裾をまくり上げて、ばたばたと走り出た。
ふう、とアリカはその様子を見て、立てた膝に腕を載せる。
「…あなた十日でずいぶんと、慣れましたね。女官に見えますよ」
「ううん」
サボンは首を横に振る。
「これでも、かなり精一杯。…私、何も知らないのよ。本当、自分の身の回り、もっとやっておけば、良かった。こないだだって、あんたに作った甘水、運ぶ途中こぼしちゃたし」
「やろうという気があればあなたは大丈夫ですよ。それより、聞いて下さい」
アリカはそう言うと、真剣な顔になり、サボンを引き寄せようとし――― 首を横に振った。
代わりに手招きをする。近くに。もっと近くに。
サボンは寝台の脇に膝を付き、アリカを見上げる。
「正直、ずっと目を覚まさないんじゃないか、って…」
「心配させました」
「そうよ、本当、心配したんだから…」
声が歪む。目が細められる。
そこへ、つ、と指が伸ばされる。
「泣いては駄目ですよ。時間が足りません」
「…時間」
「誰も居ない今のうちに聞いておいてもらいたいのです」
サボンは眉を寄せた。アリカは顔を近づける。
「何」
「私は皇后になります」
え、とアリカは問い返した。サボンは繰り返した。
「本当に?」
「本当です」
「何でそんなこと、あんたに判るのよ」
「私だから、判るのです。それに可能性は、ありました」
アリカは口を曲げた。
「何であんたは、そういうことさらっと言うのよ…」
「いいじゃないですか。戻ってこれましたし。だから愚痴は後にお願いします。まず先に言わなくてはならないことがありますから」
「…何」
「ともかくもう判っています。私の中に次の皇帝が居ます」
「本当なの」
「本当です。だから私が皇后になります。だから」
こっちを向いて、と両手で頬を挟む動作をする。触れはしない。力の加減が効かないのだから。
「あなた、ずっと、私の側に居てくれますか?」
「え」
「私がこの先、どんなものになったとしても、一緒に居てくれますか?」
真剣な、眼差し。サボンは思わず軽く身を退く。
「どうしたの一体… 前から言っているでしょう? サボンはアリカのものだから、ずっと一緒に居るって言うのは…」
「ええ。だから、約束ですよ。私が、どんなに変わっても、…変わらなくても、私がアリカである以上、サボンのあなたは、ずっと」
「…ええ」
「私は変わってしまうでしょう」
アリカは天井を見上げた。
「いえ、必ず変わる。変わらざるを得ない。いえ、もう変わってしまっているんです。その結果、態度も変わるし、あなたを足蹴にするような女になってしまうかもしれないし、あなたが泣き叫んで手放してくれと言っても、いつまでも掴んで放さないかもしれない。もしかしたら、さっきみたいに、何かの間違いで、―――死なせてしまうこともあるかもしれない」
サボンはごくん、と唾を呑み込んだ。何を言い出すのだ、このひとは。
「それでも、居て下さい。お願いです」
「居るわよ」
「私が正気を無くしても?」
「…居るわよ。だって、あんたが身代わりにならなかったら、私死んでたかもしれないでしょう?」
ええ、とアリカはあっさりうなづいた。
「…まず死んでました。そうでなかったら、狂ってました」
「そうなの?」
サボンは肩をすくめた。
「そうです」
アリカはうなづいた。
「馬鹿にしている訳ではありません。あなたや、あなたと同じくらいの令嬢なら、まず死ぬか狂ってました」
アリカは苦笑する。
「あんたはどうよ」
「私は――― そうですね… 何なんでしょう」
「運がいいのよ」
サボンは断言する。
「運がいい?」
「そうよ。運がいいのよ! だって、生き残って――― 皇后になれるんでしょう?」
「信じます?」
アリカは首を傾げる。
「あんたがそう言ったんでしょ」
サボンもまた、苦笑する。
「あんたが眠っている間に、お兄様がいらしたの」
「若様が」
「これからはあんたの兄上よ。お兄様には可哀想だったけど… あんたのこと、気に入ってたし。…知ってた?」
「いえ」
くすっ、とアリカは笑った。
「気付きませんでした」
「あんたってひとは…」
「私はそう器用ではないですから」
「冗談」
「いえ本当。器用ではないですよ」
ふっ、とサボンは寝台に頬杖をつくと、軽く笑った。
「ともかくお互い、ここで生きてくの。お父様も私を娘としては見限ったわ。だったらここで、何とかして、生きていくしかないわよ。あんたがアリカ、私がサボン。…できるだけ、嫌わないでよ。私の方が頼みたいわ」
本当に、とアリカはうなづいた。
*
「お目覚めになられましたとーっ!」
その晩の当直の侍医が、医女を連れてあたふたとやってきたのは、それからまもなくのことだった。
「…こりゃまあ」
侍医は眼鏡の下の目を大きく見開いた。
「全くの健康です」
「あの、先生、お嬢様はお腹が空いたとおっしゃるんですが」
おお、と侍医は手を叩いた。
「食欲もお有りですか。よろしい、消化の良いものを…」
「私なら大丈夫です」
きっぱりとアリカは言った。
「さっぱりしたものでは燃料になりません。ともかくいち早く身体を動かす力になるものが欲しいです」
「しかしあなた様は、十日近く、水の様なものしか口にしておられないのですぞ。さっぱりとしたものから戻さないと、内臓を痛めてしまいますぞ」
「ああ… それは大丈夫です」
言いながらアリカは先程の様に膝を立て、横目で侍医を見た。
「このままでは、私の中に居る子供が、私の肉も血も食らい尽くしてしまいます」
へっ、と侍医はアリカを見た。
「…何ですと?」
「そういう診察もしてもらえますか?」
侍医は医女と顔を見合わせた。




