11 ミチャ夫人の境遇と宮中からの知らせ
今は亡き第二夫人ムギム・テアは将軍の幼なじみだった。
そうト・ミチャは夫から聞いている。
子供の頃は妹の様に可愛がり、それがいつの間にか異性への感情に変わった、と。
だが、だからと言って、幼なじみの感情はすぐに結婚には結びつくことはできなかった。
身分の違いは関係無かった。
若きダウジバルダ・サヘもムギム・テアという少女も、その実家の格も資産も下級貴族程度だった。釣り合いは取れていた。
テアの身体が弱くなければ、彼等は何の障害も無く、いや誰からも祝福を受け、晴れて結婚できたことだろう。
だが現実はそうではなかった。
そしてまた、ダウジバルダ・サヘが武人として周囲の予想以上の力を示してしまったことが、彼等の結婚の障害となった。
下級貴族程度で満足していた親族が、そこで彼に期待を寄せたのだ。
先帝の御代の中頃、帝国の統一期のどさくさに紛れて武人となったサヘ家にとって、願ってもなかった逸材。それが彼だった。
周囲は彼に、引いては一族に利のある結婚を望んだ。
彼はそれに逆らうことはできなかった。逆らおうとも考えていなかった。
一族が選んだのは、副帝都に進出を目論んでいた北方の商家の娘アテ・マウジュシュカだった。
逞しい身体と冷静な判断力を持つ彼女は、娶された時、二十歳を幾つか越えていたダウジバルダ・サヘより、更に五つ歳上だった。
地方によって婚期は異なるが、それでも彼女は「嫁き遅れ」の部類だった。
実家は喜んでこの縁談を進め、持参金も援助も喜んで請け負った。
ダウジバルダは周囲に抵抗することなく、あっさりと結婚した。
マウジュシュカはやがて息子を一人産んだ。ウリュンだ。
跡取り息子が生まれ、家のことは正妻には任せられる。彼は職務に励んだ。
彼は特に、辺境の内乱平定にはその力を最大限発揮した。即位したばかりの今上帝は、度重なる彼の功績に、幾度も褒賞を送った。
それだけではない。功績を一つ上げるごとに、軍内での彼の地位は上がって行き―――
やがて彼は、帝都に館を持つことを許される、将軍の一人となった。
その頃、彼には正妻マウジュシュカの他に女が二人居た。
一人は幼なじみのムギム・テアであり、もう一人は、芸妓として売れ出していたト・ミチャである。
ト・ミチャの元に彼が通いだした時、既にテアはサヘ家の第二夫人となっていた。
彼女のために彼はわざわざ家の静かな側に別棟を作った。彼女の寝所の窓から良く見える庭を木々や花で飾らせた。時を惜しんで彼女の元に出向いた。
―――ただ、床を共にすることはなかった。
当時ミチャは将軍に訊ねている。
自分のところより、その最愛の奥様の所で過ごせばいいものを、と。
すると将軍は言った。出来ぬ、と。
医者に言われているのだ、と彼は言った。
子供が出来る様なことがあれば、テアの身体は保たない、と。
子供を生かしておくことも、堕胎させることも、出産も、全て彼女の弱った身体に負担を掛けてしまう、下手すると命に関わる、と。
だから自分は、決して彼女を抱くことはできないのだ、と。
その代わりの様に、彼はミチャを抱いた。
芸妓になる前は農民の娘であった彼女は、ただ美しいだけでなく、丈夫だった。
長くこの暮らしをしていれば、不健康になって行くかもしれなかったが、幸いなことに、彼女はそこまでその生活に浸ってもいなかった。
彼女は自分の居る位置に満足はしていなかった。
無理な望みこそ抱かなかったが、可能な夢は見た。できるだけ良い家の旦那に引き取られ、一生きちんと食べていける様―――
さてそんな彼女の夢を知っていたのか知らずか、将軍は昼の時間が空くとテアと会い、夜の時間が空くと、ミチャの元に通った。
やがてミチャが長女を身ごもり、それを機に将軍は彼女を第三夫人として引き取った。
同じ屋根の下に暮らす様になって、更に二人の娘を産んだ時、穏やかな第二夫人と会う機会があった。
彼女達は同じ夫を持っていても、滅多に顔を合わすことは無い。
挨拶に赴く必要がある第一夫人と違い、同じ立場にある第二夫人には、どうしても会わなくてはならない、という機会が少ない。下手に会うことによって波風も立てたくはない。
ましてや自分の夫がもっとも大切にしている第二夫人である。悪い印象を与えたくはない。
ミチャにとって大切なのは、食う寝る所に住む所が一生困らない穏やかな暮らしなのだ。
だからできるだけその機会は少なくして来ようとした彼女だったが―――
「第二様がお茶にお誘いする様にと」
言われてしまっては、行かない訳にはいかなかった。
初めて会った第二夫人は華奢だった。
なるほど確かにこれは将軍に抱かれたら壊れてしまうだろう、とミチャは思った。
だがその夫人は。
「子供が欲しいのです」
そう言った。
「どうしてあの方は私を抱いて下さらないのでしょう」
率直すぎて、眩暈がした。
「教えて下さいな。どうすれば貴女の様に可愛らしい子供を作って下さるのでしょう」
そう言われても困る、とミチャは思った。将軍は彼女の身体を思って触れずにきたのだ。しかしそれは通じていない。いや、通じていたとしても、それが果たして彼女にとっても良いことなのか。
「旦那様に、正直におっしゃったら如何ですか?」
含みも何もなく、ミチャはそう答えていた。
同じか、少し歳上だろう第二夫人を、彼女は可憐だ、と思った。不思議なくらい、女としての嫉妬心がまるでかき立てられなかった。
それから程なくして、第二夫人はアリカを身ごもった。そしてそのしばらく後、ミチャはマドリョンカを身ごもった。
アリカケシュを産んで、テアが亡くなった時、ミチャは訳もなく泣けてくる自分が不思議だった。
だからという訳ではないが、アリカが宮中に入った、と聞いて、ト・ミチャは微妙な気持ちになったものだ。
アリカはウリュンとも、彼女の娘達ともよく遊んでいた。実際きょうだいなのだから、仲が良いのは結構なことだと思う。
ただ…
何かが、腑に落ちない。
そう感じる時がある。
「おかーさま」
膝の上で末娘が呼ぶ。何、と彼女は問い返す。
「アリカは皇后様になれるのかしら」
「さあどうかしらねえ」
宮中から急ぎの使いが来たのは、翌日の早朝だった。
邸内がにわかに慌ただしくなった。
「…まだ夜が明けたばかりだというのに…」
マドリョンカは眠そうな目をこすりながら、それでも玄関まで身支度をして現れた。
宮中から急ぎの使者が来たと言う。十日近く眠ったままだった令嬢が目を覚ました、と。
将軍は難しい顔のまま、後を頼む、とミチャ夫人に告げた。
「旦那様」
ト・ミチャ夫人は軽く首を傾げる。
差し迫って困ったことが起きたのだろうか。不安が胸に広がる。
起きて知らせを受けてから、考えが悪い方へ悪い方へと向いてしまうことを彼女は止めることができなかった。
悪い方―――それはアリカの死だった。
宮中に皇后の候補として召されて、亡くなった女性は少なくない。正確な数まで彼女は把握していないが、普通の家に比べて多すぎる、とは聞いている。
アリカが亡くなったらどうしよう。そうしたら次はマドリョンカだろう。順番的には。本人はそれを望んだとしても、ミチャは嫌だった。彼女の求めるものは、より確実な、安定した生活なのだ。生きるか死ぬか、を賭けたくはない。
彼女は夫に問い掛けた。
「…あの… まさか、アリカ様が」
「そなたは心配することはない」
「ですが」
「そういう知らせは入ってはおらぬ」
では行く、と扉を開けかけた時。
「父上、我等も参ります」
ウリュンと、その友人二名が既に身支度を整えて現れた。
「心配なさるのはありがたいのですが、これは我が家の…」
「良い。三人とも来るがいい」
え、という夫人の前を一礼してすり抜け、三人は将軍について館を出た。
宮城は既に主大門を開いていた。
門番の兵士が彼等に一礼する。うむ、と将軍は軽く顎を引いた。
「今日もいい天気になりそうだ」
「は」
住み込みの雑人や、女官達は日の出から仕事に入る。
将軍とその息子、二人の武人はそこで馬を降りた。
馬番の雑人に、それぞれの厩舎に連れて行く様に命ずると、彼等は北離宮へと向かった。
北離宮は、後宮の北東の端にある。
広い宮城の、中央の議政殿を斜め横断できれば早いが、それは許されない。中殿や後宮に通じる道は決まっているし、小門の出入りも厳しい。
長い、とウリュンは思った。足も何となく重く感じる。昨日の酒が残っているのかもしれない。小さな砂利のざくざくという音がひどく耳障りだった。
夜明け前、最初に邸内のざわつきに気付いたのはセンだった。彼は目もいいが耳もいい。そして何より、不審な気配に敏感だ。
「何ごとだ?」
「あ、若様、実は…」
廊下をばたばたと走る一人を捕まえて訊ねたところ、宮中の使いが来たことが判った。
彼等は慌てて身なりを整えた。
「妹さんに何かあったのだろうな」
サハヤは断言し、眼鏡の下の瞳を細めた。
だろう、とウリュンも思った。
「我々は関わらない方が良いか?」
サハヤは問い掛けた。ウリュンは少しだけ迷った。これはサヘ家の事情に関わることだ。
アリカとサボンの入れ替わりは、まだ父将軍と自分しか知らない。母や妹、ミチャ夫人が今後彼女達に会いさえしなければ、ずっと守られるだろう秘密だ。
「混乱しているな」
センは彼の気持ちを端的に言葉にした。ああ、と彼は答えた。そして二人の方を向き。
「―――頼む、一緒について来て欲しい」
どうしてそう言ってしまったのか、ウリュンにも正直、判らない。
いや、それより、父将軍がそれを易々と許したのかが判らない。
ただ一つ言えることは、自分の目の前で、サボンが妹になり、妹がサボンになってしまうことを、決定づけられるということだ。
あきらめろ、と自分は自分に言いたいのかもしれない。
できるだけ多くの人目の中で、自分が欲しかった少女をさっさと「手の出せないもの」にして欲しいのかもしれない。
父の命令でもなく、自分の弱い意志でもなく、強制的な、何かによって。
しかしそれでもまだ、心は入り乱れている。ささくれ立っている。玉砂利の音が、うるさい。
北離宮は、主大門から一番遠い。
既にそこには、幾人もの侍医や医女が詰めかけている状態だった。
「どうした」
「あ… これは将軍様」
「娘の容態が変わったと聞いたが」
侍医達は無言のまま、将軍に道を開けた。
「こちらへ」
ウリュンや二人の武人達に対しても同様だった。彼等の大半の身分は、三人の若い武人に比べて低い。
控えの間には、少女が卓にもたれてうとうととしていた。見覚えのある髪の色に、ウリュンは口を開きそうになった。
だが。
「サボナンチュ」
将軍は少女の方へと進むと、ぐい、とその肩を掴んで起こした。
はっ、と少女は目を開くと、口を開きかけ――― こう言った。
「将軍様」
そして勢い良く立ち上がると、すっと頭を下げた。
「申し訳ございません。この様な格好で」
「うむ。―――あれはどうか?」
「お目覚めになられ、…少々お気が高ぶっていらっしゃる様です」
アリカ様は、とウリュンの妹は、付け加えた。




