6. 知らなかった
それからはただひたすらに、真直ぐ歩いた。
後ろを振り返れば自分の足跡が腐葉土にくっきりと残っている。
刃持ちが追って来る事を期待している自分が居る事を、それを見て知った。もう、何度も振り返っていた。
何を期待しているのだろう、と自嘲しながらまた歩き始める。足跡何て、簡単に消えてしまうものじゃないか。そう何日も経ってから追えるものじゃない。
だからこそ、こうしてただ真直ぐ歩いているのだけれども。
何がどうあれ、刃持ちが住処を捨てた自分を追って来る事を期待している自分が居るのは、確かだった。
そこまで自分に付き合ってくれる筈は無いと思いながらも、ただ真直ぐ歩くのは止められなかった。右にも左にも、行く気にはなれなかった。
森はまだまだ続いている。方向を変えればもう、森を抜けられていたのだろうか。
それは分からない。抜けられていないかもしれない事も確かだった。
歩き始めて数日、まだ変わらない森の光景は続いている。道中、池を見つけたりはしたものの、そこに居るのは見慣れた蛙だけだった。草食獣や肉食獣も、まだ見慣れたものばかりだった。
あの場所に居続けても、全く見ない姿形をしている鳥が空を飛んでいるのを見た事があるというのに、自分から動いてもまだ何も変わった何かを見つけられないとは。
たった数日しか歩いていないとは言え、この先も何も変わらない森がずっと広がっているのではと思う自分が居た。
自分の指の数を確実に越えた日数を歩き続けて、獣は変化が出始めている事に気付いた。
微妙に住んでいた所と違う木々が見受けられた。草食獣や肉食獣には大して変わり無いが、その違う木々を食べているからか、気色が若干違うように見えた。
そして、木々の密度も減っていた。
真直ぐ歩いていても、木が正面にある事が徐々に少なくなっているのに気付いた。
それだけで、かなり楽しかった。歩いた日数もあって、自分の住んでいた場所がちっぽけな場所であった事が証明されたような気がした。
きっと、これから歩き続ければ、更に変化はあるだろう。見た事も無い何かが沢山あるだろう。
萎んでいた期待がまた膨らみ始めていた。
それから数日。木々の密度はかなり減っていた。
真直ぐ歩いていて、避けるような事はもう殆ど無かった。
木々に遮られず、地平線まで見える景色は初めてだった。
雨が降り始めたこの季節になって高く伸び始めた草が、柔らかい風を受けてさわさわと揺れている。
感動している自分が居た。ここはもう、木々が密に生えていた、自分の住んでいた森とは全く別物の場所だった。
高く跳ねている、森の中では見掛けない草食獣が群れを為して遠くに見えた。自分の背の方向にまで曲がっている長い角は、どういう目的で生えているのだろうか。
襲ってみれば分かる。空腹でもあった。
しかし、直接襲うのは、無理そうだった。木の陰に隠れる事も出来ない。自分の背丈では生えている草に隠れる事は出来ない。
この鈍重な体は草食獣を追えるような速さを残念ながら持っていなかった。
直接襲うのは無理か。出来れば、そうしたかったが。
適当に石を見繕って拾った。石はどこに行こうが大して変わらないものだろうか。
肩を動かしてから、適当に狙いを定めて投げた。
一匹の胴に当たった。群れが驚いて逃げたが、その当たった一匹は走れそうになかった。骨も粉砕しただろう。
近寄って止めを刺し、まず、太い後ろ脚に齧り付いた。
森の中に居る獣とは違う味だった。美味さは大して変わらないが、少し固い気がした。
十分食い終える前から、死肉を狙う肉食獣達が遠くに見えた。角を折って投げてみれば、一旦逃げたもののすぐにまた寄って来た。
良い気分ではなかった。
森でも自分の食った肉の余りを狙われる事は良くある事ではあったが、それでも露骨にこうして姿を見せて狙っている事は無かった。木々の端から様子をおずおずと窺っているように、自分の事を恐れながらも狙っていた。
自分が残したら、すぐにでもむしゃぶりつきに来るのも同じだろうけれど、何か気に入らなかった。
とは言え、何をする訳でも無い。
きっと、ここは森よりも過酷な環境なのかもしれない、と獣は思った。
肉食獣達の自分の余りを狙う意志が、森の中の肉食獣より強く見えたからだった。
満足するまで食い、それからまた先へ進む事にした。
太陽の光が自分の体に、容赦なく突き刺さる。それも、余り経験した事は無かった。森の中では、木々によって光は遮られていたからだ。
暑いとは思ったが、精々それは乾いた季節の暑さと同じ程度だった。
それに、この森の外で暮らしている獣達は、ずっとそうして太陽の光を身に受けながら暮らしているのだろう。
森の中の獣の中で王者に君臨していた自分が、そんな事で弱音を吐くのは、プライドが許さなかった。
そしてまた、幾度か後ろを振り返る。
森はもう見えなかった。木々が疎らに広がっている光景が後ろに見えるだけで、鬱蒼とした森の光景は地平線の先に消えてしまっていた。
足跡も、この場所では、森の中以上に残り辛い。土の水分が森よりも余り無かった。
さらさらとしたその土は、自分の足跡をすぐに掻き消してしまうように思えた。
ほぼ確実に来ないと分かっているのに、こうして自分の軌跡さえも消えてしまう事は寂しかった。
戻ろうか、とも一瞬思う。そうしない為に、寝床を壊したのに。
壊したとしても、また作ろうと思えば作れる。けれども、それはしない事にした。戻ったら、自分の中の何かが失われてしまう気がした。
その何かは、とても自分の中で重要なものだった。
振り返る度に躊躇いを覚えながらも、歩き続けた。
この先にあるものへの期待。それは確かに大きかったが、また自分だけになった事の寂しさも静かに大きくなりつつあった。
自分がこうして外に出てこれから得る楽しさと、ずっと森で刃持ちと戦っていた楽しさは、どちらが大きいのだろう。
後者が勝りそうな、どうしようもない不安さえもが、獣の中で渦巻き始めていた。
地平線に沈む太陽を見るのは初めてだったろうかと思う。
初めてだろう。そもそも、くっきりとした地平線を眺める事さえも、初めての事だったのだから。
沈みゆく太陽は、昼の黄色い明るさとは全く違う、燃え盛るような赤色だった。
地平線の景色が太陽でゆらゆらと揺れていた。とても、自分の何かを揺さぶるような景色だった。
森の中に居たら、この景色を見る事は出来なかったのだ。そして、後ろを振り返ると、夜が近付いて来ていた。確固たる黒が、太陽の光を奪いに来るように、背後にあった。
こうして、太陽の時間と月の時間は回っていたのだと、知った。
こんな景色が見られる時間さえ、自分は知らなかったのだ。束の間、獣は茫然としていた。空を眺めれば、森に居た時に必ず目に入って来る葉も無く、赤から青を経て黒へと変わる空のみが見えた。
暫くして振り返り、どこか休むのに良い場所が無いか、そろそろ探さなければいけないと思った時、何かが目に入った。
どどっ、どどっ、と音が聞こえる。その方へ体を向けた。
刃持ちと同じ種族が、四足の獣に乗って自分の方へ向って来ていた。




