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3. 待っていた

 雨が降る季節になる頃には、傷は殆ど癒えていた。

 足を引き摺る事も無くなれば、最も傷が深かった最後の一撃を受けた腕も、完全には治っていないものの問題なく動かすには十分になっていた。

 雨が降る音に混じって、蛙が鳴く音が沢山聞こえてくる。毎年、この時期の初めはその音がうるさくて眠れなくなる。居る場所で暴れても意味が無い。ただ逃げて違う場所で鳴き始めるだけだった。

 慣れるまで我慢するしか無いのは毎年もどかしかった。特に今年は、体が治るのをじっと待っていなければいけなかったのもあって、もどかしさは例年以上だった。

 とは言え、悪い事だけでもない。

 蛙は食えるし、そこそこ美味いものだ。でかい蛙は食いごたえもある。

 水に浸かっても傷に染みる事ももう余り無い。池に行こうと思った。

 まだ、完治はしていない。鱈腹食って癒えるのを少しでも早くしよう。


 池に行くと、雨の音が気にならなくなる程の蛙の鳴き声が聞こえて来る。

 足元にも小さいのが跳ねているが、それを食っても腹は膨れない。池の縁で大きく長い舌を使って魚を捕えて丸呑みにしている蛙を食いたかった。

 時に子供の獣さえも呑み込んでいる時があったが、やはりそういう光景を見ると自分とは根本的に違うなと思う。

 明確にその違いを頭で理解は出来ていない。ただ、その蛙のように生きるだけでは自分は満足出来ないだろうという思いだけははっきりとあった。

 四足になり、背後からひっそりと近付く。気付かれると同時に水の中に逃げる蛙の上に跳び、首を捕らえてへし折った。

 それでもびくびくと動くので頭を潰してから、陸に上がる。

 他の大きな蛙達は自分から逃げるだけで、小さな蛙に至っては何事も無いように自分の近くを跳ねまわっている。

 やはり、自分とは根本的に違う。そう言った事を、あの生物に出会ってから再び考えるようになった。

 父親、母親、兄、姉。それ以外で自分と同じである、と言える獣に出会った事が無い。同じ種である、という事ではなく、知能、生活が似通っているという意味で。

 狼等のここに住む他の獣とも自分の種族とは違うと思えた。

 生物は、部分的には似ていると思えたが、根本的に違う部分があり過ぎた。

 肉体のものに以外に強く頼っていたし、それは自分のようなただ大木を振り回すような乱雑なものでもなかった。この森の中で、そんな事をする獣は他に居なかった。

 森から外に出た事はまだ無い。

 外に行けば、もっと様々な獣、生物に出会えるだろうか。それは思うだけでとてもわくわくとする事だった。

 ただそれ以前に、強くならないといけないと思った。

 父と相打ちになった生物。自分と互角に戦い続けた生物。

 あの生物は、得物を持ってすればこの森の王者である自分達と互角に戦える。体も小さければ、筋力もそれに見合ったものしか無いのに、その全身を巧みに動かし得物を自身の体の一部のように扱う事で力を自分達までと同等に引き上げていた。

 仕留められるような力がなければ、この森の外には出ても無駄死にするか? 分からない。

 あの生物がこの森の外にどの位居るのか、そもそもあれが平均的な強さなのか、何も知らない。

 考えれば考える程、自分が小さな世界で生きて来たであろう事が浮き彫りになっていく気がした。そしてもう、ひっそりとこの森で生を全うする何て事は我慢出来る事でさえなくなっていた。

 森の外へ出たい。

 ただ、強くならなければいけない。

 くるくると回る思考の中で、強くなる事に対して目が向き始めた。

 ……参考にすべきはやはり、生物の動きだろうか。

 あれほど身軽には動けないが、この鈍重な体でもやろうと思えば少なくとも今よりは素早く動ける筈だ。

 それにまだ、体の成長は止まっていない。完全に成熟した体にはなっていない。

 肉体の伸びしろもあるのだ。

 腹が十分に膨れた所で、どうやったら素早くなれるか分からない事に気付いた。

 どうしよう。取り敢えず、動けば良いだろうか。

 親や兄姉とはもう別れた。会おうと思えば会えるだろうが、頼る気は何故か余りしなかった。今、自分が欲しているのは、父や母が持っていた強さとは違う方向の強さだからだろうと何となく思えた。

 単純に、親離れした身としてそこに戻ったり、兄姉に頼りに行くのはみっともないと言う理由もあるだろうけれど。


 雨の季節が終わりを告げると、蛙は地中深くへ身を消して鳴き声も聞こえなくなる。うるさかった筈なのに、聞こえなくなると少し寂しくなるのも毎年の事だった。

 そして、暑く乾いた季節がやってきても生物と再び出会う事は無かった。

 傷は痕を少し残すものの完治し、体は以前と比べて僅かながら引き締まっていた。この森でただ生きるのに必要な肉体ではなくなり始めていた。

 あの時と比べれば、自分なりに鍛えて少しは俊敏に動けるようになっただろうし、今戦えば大きな傷は負わないだろうと思える。

 しかし、生物が来る事はまだ無かった。そもそも、その生物と同種がこの森に来た事自体二回しか見ていない事を思うと、やはりあれが最初で最後だったのだろうかとも思う。

 自分は強くなったのだろうか。

 獲物を対象にしては、自分の強さは計れなかった。少しは俊敏になっただろうと言ってもそれは瞬間的なもので、全速力で逃げる狼には追いつけないのは同じだった。

 傷が癒えてからは毎日、出会った場所に行っている。自分が折った得物はそのままそこに落ちていて、雨の季節の間に茶色く変色し、既に鋭さを失っていた。

 生物がやっていたように見様見真似で木を切りつけてみると、得物の方が二つに折れた。木は皮が剥がれた程度だった。

 投げ捨てて、寂しさに似た何かを感じているのに気付いた。

 ……そうか。もう、我慢しているのか。

 森でただ暮らしている事は、当然ではない事になっていた。退屈を感じ始めていた。

 たった一回、戦っただけなのに。

 それ程、自分の中であの戦いが革新のあるものだったのだ。

 投げ捨てた、二つに折れた得物をまた拾い上げた。それからまた、捨てた。

 でもまだ、外に出ない方が良いだろう。呆気なく死ぬ事だけは絶対に避けたい。

 この森の外が自分より強い獣や生物だらけだとは思えないが、そうだという可能性もあり得ない事は無いのだ。

 自分の体躯程の肉体を持ってして、そしてあの生物のように俊敏に動ける何かが居てもおかしくない。

 それ程までに強くなれるとは思えなかったけれども、勝てなくとも負けない程度までには強くなれる気はした。

 生物が目の前に居ると想像する。たった一戦とは言え、戦った時間はとても長く、そして親族以外と戦って拮抗したのもそれが初めてだった。

 残った記憶はとても鮮明だった。

 自分が闇雲に腕を振り回そうとも、当たる距離に居ながら全てを躱して切り刻もうとしてくるその姿がはっきりと想像出来た。

 生物よりも鈍いこの体でどう動けば攻撃を当てられるのか、攻撃を躱せるのか。どちらもまだ、良く分かっていなかった。自分なりに考えて動いても、隙があれば想像した生物に胴や首を深く切り裂かれる事も多々あった。

 理にかなった動きはどのようなものなのだろう。

 多少俊敏に動けるようになったとは自負出来、それは生物よりもほんの僅かながら強くなったと思える事ではあったが、理にかなった動きの答というものに対しては分かっていなかった。

 生物が来なかったら、生物に勝つという目標が満たされなかったら、どの位強くなれば無駄死にせずにこの森から出られるのかも分かっていなかった。

 生物を探しには、行けなかった。それが臆病だと分かっていても、無駄死にはしたくなかった。無謀はしたくなかった。


 暑い季節も終わりを迎えた。乾いていた地面に潤いが戻り始め、少なくなっていた池の水量も戻り始めた。

 しかし、再び戦う事は無かった。

 やはり、生物と出会ったのは単なる偶然だったのだろう。もう、ここで戦う事は出来ない。

 諦めを覚え始めていた。

 何度も記憶を反芻して自分を鍛えても、虚しさを感じる事があった。

 記憶は出会った時のものではもう無くなっている気がした。自分の仮想しているそれは、もう生物に似た何かでしかないように思えた。

 暑くなった頃に二つに折った得物はもうぼろぼろに崩れ始めていた。風化して何十の小さな茶色が周りに散乱し、握る部分だけが僅かに形を保っているだけだった。

 あの時と比べれば、強くなったと断言出来る。普通の獣を対象にする狩りでさえも前より楽に出来るようになっていた。

 体は更に引き絞られていた。前と比べて速く走れるようにもなった。剛腕は硬さと力をそのままに、筋力としなやかさを増していた。体躯自体も少し大きくなったような気がする。

 けれども、そこまで成長しても生物を倒せる気はしなかった。優勢で戦いを進める事は出来るだろう。でも、勝てるまでの力量差はまだ無い気がした。

 仮想の生物に殺された事は何度もあれど、殺せた事は未だに無かった。

 実際は分からない。こうして自分が仮想している生物には、どう足掻こうと勝つ事が出来ないのではないかとも思う。

 戦いたかった。殺すか殺されるか、その力量が全く同じだった生物との戦いの緊張感をまた、味わいたかった。

 ぼろぼろになった得物を拾って指で押すとぼろりと幾多の破片になって崩れた。

 仮想して戦う事に飽きを感じているのは、否めなかった。

 ……けれども、それ以外に生物に勝つ為に強くなる方法は思いつかない。

 飽きが来ようとも、続ける他無いのだ。

 生物が来なかったら、この仮想の生物を殺せるまでそれは続けるしかない。それまで、この安全な森からは出られない。

 腕を構え、耳がその足音を捉えた。

 振り向くと、生物が居た。目線の先に、木々で半身が隠れてはいたが、全く同じあの時戦った生物だとすぐに分かった。

 ……ああ。

 どれだけ待った事か。何度再戦を望んだ事か。

 臆病で、この森から出られない自分の為に来てくれたのだと取っても良い気がした。

 体の向きをそちらへ変えて、腕を構えずに待った。生物は、自分がただ普通に歩くように歩いて来た。

 得物は前見た二本の刃二つ、そのままだった。鳥が巣を作るように、新しく作ったのだろうと思った。

 距離を保って、生物は止まった。

 構えずに、少しの時間、互いに見つめ合った。まだ、表情から何を思っているのか、どういう感情でいるのか、それは全く分からなかった。

 しかし、この前とは全く違う事は確信出来る事だった。

 あの時は、自分に危険を抱いた生物と無視出来ないと思った自分の、成行きからの戦いだった。

 今は、互いに進んで、勝つ為に戦おうとしている。きっとそうだ。

 腕を構えた。生物も、二本の得物を抜いて自分に向けた。

 息を吸って、吐いた。

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