24. 理解出来ていた
目が覚めると、黒い鼻があった。
目の前にはその自分と同種の草食獣が居た。
体を起こそうとすると、酷い頭痛がして、目がちかちかとした。
……何があったんだったか。
じっとしてろとでも言うかのように、草食獣は角で起きようとした自分を抑えつけた。
徐々に思い出してくる。そうだ、自分は崖から落ちたのだ。
ごろごろと転がり落ち、岩にぶつかり、体は至る所が掠られ、落ちて行った。
思い出して来るに連れて、痛みも湧き出して来た。……余り、動けそうにもない。
体中、血が出た痕が沢山あった。自分の身を守る為にいつでも犠牲になってくれていた剛腕は、特に血塗れだった。
やけに痛む頭を手で触ってみると、頭痛と共に固まった血の感覚がした。どうやら、頭も打ったようだった。
生きているだけでも、幸運な事かもしれない。
刃持ちはどうなったのだろう。とても気になるが、動けそうにもない。それにこの草食獣の体からは、刃持ちの臭いはしなかった。
生きていると、思いたい。
そう思って、自分でも少し驚いた。
草食獣は、そんな自分の事をじっと見ていた。
何かを確かめるように見ているような、変な違和感があったが、気にして考えられるような余裕は無かった。
それ程、自分の体は弱っていた。
草食獣が肉食獣の為に獣を狩って持って来るとは、おかしなものだ。
一撃で蹴り殺したらしく、体の一か所に足型まで残る程の強い蹴り痕が残っていた。
どこに行こうが、どう言う種族だろうが、同種であれば、互いに仲良くしよう、敵にはならないで居ようと思うのは同じらしい。
指を一本失った左手でその獲物の首を持ち、噛みついて血を飲んだ。
首の肉は、柔らかく、旨かった。水分が体に行き渡る。
頭は未だに動かすと酷い痛みがし、ゆっくりとしか食えないのがとてももどかしかった。
結局、腹が満腹になる前に眠くなって来た。
傷自体は全身にあるが大した事は無い。切られた指も、血は止まっている。やはり、頭を打ったのが強く響いているようだった。最初に刃持ちと戦った時の方が血を流しただろうに、今の方が動けなかった。
自然と、目が閉じて行く。老いて死ぬ時も、こんな感じなのだろうか、と思った。
熟睡していたらしい。
気付けば、空はもう明るかった。腹がやけに減っている。体調も一晩寝ただけにしては、何故かかなり良くなっている。それに、何か一晩寝ただけだとしては変な感じがした。
自分が食い残した獣からは、少し臭いがし始めていた。鳥達が沢山啄んだ跡もあった。
……もしかして自分は、一晩ではなく、丸一日以上寝ていたのでは?
まさか、と思いつつも、体の傷の治り具合を見れば、また頭痛がかなり引いているのを感じれば、そうだと思わざるを得なかった。
草食獣は、体を起こした自分を見て、立ち上がった。
じっくりと見つめられた後に、どこかへ行ってしまった。ふら、ふら、としながらも立ち上がってみる。
左手の指の一本は切り落とされたままだった。切られそうになったその隣の指は、動かすのには支障は無かったが、鈍い痛みがあった。治り始めている。右も切られたが、そっちは今はもう、そう大して痛んではなかった。
頭痛は未だにするが、軽くなっていた。体を動かす事だけに関しては、そう支障はない。走ったりは余り出来そうに無いが。
振り返って、落ちて来た崖を見上げた。随分と高い所から落ちたものだ。自分が転がり落ちた痕跡がまだ、少し残っていた。低い所に自分が頭をぶつけたらしき岩がある。
そこから流れた血の痕がだらだらとあった。
自分は、生きている。運よく、生き延びた。
刃持ちはどうしているのだろう。草食獣が自分の傍に居なかったら、自分が気絶している間に、熟睡してしまっていた間に、自分を殺せたのだろうか。
そうだとしたら、自分は負けたのだ。そして、仮に刃持ちが未だに動けなかったとしても、そこへ自分が行けたとしても、自分は勝てた事にはならない。介抱されていなかったら、未だにこうして立ち上がれていたかも怪しい。
刃持ちが、死んでいたなら、自分は勝ったと言えるだろうが、それはそれで嫌だった。それは、自分にとっては釈然としない終わり方だった。
臭いがし始めている死肉を食う。美味くない。でも空腹は満たされる。
指が一本無くなった左手を見る度に、喪失感を覚えた。深い傷も時間が経てば傷跡も無い位に治ってくれる体ではあるが、切られた指がまた生えて来るような事は流石に無い気がした。
腹が膨れると、また眠くなって来た。頭を打った影響はまだあるらしい。けれど、動ける事には動ける。
刃持ちが生きているかどうか、それだけでも知りたかった。
ゆっくりと、頭に余り振動が伝わらないように歩き始める。確か、あっちの方向に落ちて行った筈だ。
余り歩かないで済むと良いが。
食って熟睡もしたのに、未だに体はふらついた。腕を着いて歩く事にしようとすれば、切られた指の断面が土草に撫でられて痛み、結局、普通に歩く事にした。
こんなにも体が弱ってしまったのは、初めての事だった。情けなかった。
早く治る事を願うしかなかった。自分の体は、治る。けれど、どう治るか、どうやったら早く治るのか、知らない。
崖の下を隈なく探してみたが、刃持ちが居た痕跡も見つからなかった。
落ちた、と思ったけれど、落ちてはいなかったのか? 急斜面の崖を見上げて、歩いてみる。
木の根に足が引っ掛かり、頭痛がぶり返して、転んだ。起き上がりながら、また自分が情けなくなる。
あの草食獣がどの位強いのか分からないが、今戦ったとしたら、ほぼ確実に負けるだろうな。体がぶれただけでもこの様だ。口に入った土を吐き出し、また上を見た。
から、から、と石が落ちて来た。落ちて来た方を見ても、刃持ちは居ない。
崖から落ちたとしても、這いあがれたなら、這いあがっただろう。でも、そうなったとしたら、草食獣と何もせずにただ擦れ違ったんだろうか。草食獣が、刃持ちの事をどう思っているのか、白青混じりの事を考えると、良くは思っていないだろう。
自分と刃持ちが殺し合っているのを見て、そして邪魔をするなと自分が吼えて。傍から見たら、どのような関係に見えたのだろう。
本当に、何度も何度も思った事だ。分からないし、知らない。考えれば考える程、分からない事や知らない事は考えた数よりも増えて行く。
そしてそれらは、大体考え続けた所で分からないままだった。
自分が転がり落ちた後、あの場所で何が起こったのか、考えたって分からない。刃持ちは落ちて来ていない、草食獣から刃持ちの臭いはしなかった、とか事実はあろうが、分かりはしない。
もどかしい。
また、一日、一日と経って行った。刃持ちは見つからない。草食獣は、自分が動けるようになれば余り姿を見せなくなった。探そうにも、頭痛だけがしぶとく痛みとして残っていて、まだ色々と動くには辛いものがあった。
切られた指は、切られたまま傷は塞がろうとしていた。やっぱり、生えては来ないか。少し残念に思った。
雨がさらさらと降って来る。上を見上げれば、木々に邪魔されながらも、空が見える。
自分が生まれ育った、故郷を思い出した。こんなさらさらとした、柔らかい、優しい雨は余り降らない。
強く、殴りつけられるかのように降る雨が多かった。けれど、それも思い返せば懐かしい。叩きつけられる雨の音は、聞いていても決して不愉快なものじゃなかった。寧ろ、その力強さは聞いていて心地良ささえ感じる時があった。
かと言って、この雨も嫌いじゃない。音はしているのに、逆に静かになるような雨だった。
風も吹いて来る。それに連れて臭いがし始めた。山の頂上で嗅いだ臭いだ。
気になって、そっちに行く事にした。
煙が見えて来て、草食獣の歩いた跡も見つけた。
水面に雨が落ちる音が聞こえる。何があるんだろう。
草食獣の歩いた跡に続いて行くと、煙がもうもうと増えて行き、臭いも強くなって来た。呼吸するのに邪魔な程ではないが。
木々に遮られた視界の先に、池が見えた。池から、煙が出ていて、草食獣がその池の中を横切った。
……触れてはいけない水ではなかったのか?
頂上付近で、石を入れると泡を立て始めた水と同じだろうに。
池の前まで来ると、草食獣が自分の方を見た。
「生きてたか」
……え?
咄嗟に声をした方を見た。そこには刃持ちが居た。腕に何か巻きつけているが、生きている。
いや、生きている事だけじゃない。
何故草食獣と居るのか、何故自分の方に来なかったのか、色々疑問に思う事はあるが、それ以上に。
「どうした? そんなに驚いた顔して。俺が生きているのがそんなに不思議か?」
理解、出来ていた。刃持ちが発する声がはっきりと、意味まで伝わっていた。




