23. 落ちた
川が、この連なる山々から流れ出る水と合流して幅が広がっているのが、下り始めた光景に映っていた。その地平線の近くでまた、別の川と合流していた。
流れる先には一体何があるのだろう。
疑問に思った事は何度もある。きっと、歩いて行けばそれも分かる。
けれど、どれだけ歩かなければいけないのか、それを思うと辟易とした。また、長く退屈な時間を過ごさなくてはいけないのかもしれない。
木々が生える高さまで降りて来た。
特徴的な臭さも薄らいでいき、呼吸をするのが随分と楽になった。単純に、臭いも気にせず呼吸出来る事がこんなにも気分が良い物だとは思わなかった。
その代わりに空への視界は木々によって遮られていたが。
空も見えればもっと気持ち良いだろうに。少し残念だった。
がさり、がさりと音を立てながら降りて行く。気を抜くと転がり落ちてしまいそうだ。別にそうしても多分、自分は大した怪我も負わずに降りられるだろうが、白青混じりと刃持ちが接触した時にそうした時の事を思い出すと、戦っている時と同じ位に集中しなければいけなかったし、疲労も多かった。
態々そうするより、やっぱり普通に降りた方が時間は掛かるが楽だ。
暫くすると、他の獣が良く通るような痕跡が見つかった。草木がその部分だけ分けられている。
当然と言えば当然だろうが、自分の身の幅よりは狭い。
臭いを嗅いでみれば、今までに嗅いだ事の余り無い臭いがした。……これは?
今まで見て来た獣、食って来た獣の何とも違う。刃持ちの種族のような臭いでもない。
もしかしたら、また自分と同じような獣か? その可能性は結構高いと思った。白青混じりも赤い鳥も、臭いが他の普通の獣と全く同じという事は無かった。
その痕跡の先を歩く事にした。随分と歩き易く、他の獣の気配もより一層しなくなっていた。
足跡があった。それは、肉食獣の足跡と言うよりかは、草食獣の足跡のようだった。
会う事はあるだろうか。会おうと思えば会えるだろうが、自分達の関係は、草食と肉食だったらどうなるのだろう?
白青混じりや赤い鳥のように静かに、緩やかな関係になれるんだろうか。殺し合いたくはない。
……今でも自分は、刃持ちとは、本当に殺し合いたいと思っているんだろうか?
決着を着けたいとは思っている。決着が着いたならば、それは迷える状況であって欲しくないと思ってる。迷う状況にならずに、殺したいと、思っている。
先日も考えた事だ。自分が一方的に殺せる状況に陥りたくない。殺さなければいけないと思う状況になりたくない。
決着を着けたいと思う事は、殺したいと思っていなくとも、殺したいと思っている事と同じなのだ。決着を着けた後で殺したくない何て、有り得る事じゃない。生かしたとしても、生かされたとしてももう、刃持ちとは同じ関係じゃ居られない。それはもう、対等な関係じゃない。
どうなるかは分からないが、その関係は、今までのようにただ一緒に歩き続ける何て出来ないと思った。
森がいきなり開けた。
目の前には、崖があった。……そこは、戦うのにあつらえられたような場所だった。
丸く出っ張った崖。そこには草一本生えていない。砂と石だけの地面。少々狭いけれども、まるでここで戦えと言われているようなものだった。
少し立ち止ってから、その崖の端に立った。かなりの急斜面ではあるが、切り立った崖ではなかった。落ちたとしても、ごろごろと転がり落ちていくように落ちるだろう。
振り返ると刃持ちが、自分の向かい側で同じく崖の下を見ていた。そして、少し遅れて、振り向いた。
目が合う。集中が一気に高まって行く。自分の呼吸が、鼓動が、落ち着いて、そして耳に聞こえて来る。
山から向かって左に自分、右に刃持ち。距離はそんなに無い。動ける範囲も広くない。
刃持ちが二本の刃を抜いて、構えた。拳を何度か握り、構えた。
そして次の瞬間、刃持ちが走って来た。
空気を切り裂く音がする。牽制に混じって一撃を狙って来る。後ろに一歩下がろうとして、から、と小石が崖から転がり落ちる音がした。
踵が宙に浮いていた。左腕を振り、右の拳を固める。そうしながら姿勢を屈めて、前へ動いた。刃持ちは後ろへ一歩引いたが、自分が更に前へ一歩足を出した時にはまた突っ込んで来た。
振った左腕が防御に間に合わない。
拳が切り裂かれようとも、右拳を出すしか無かった。体の中心を狙って、拳を突き出した。
刃持ちの体が回転する。首に刃が向って来る。刃に裂かれながらも脇腹に拳の一部が当たった。そしてずれた刃が肩に当たる。血がだらだらと垂れ始めた。
がふっ、と刃持ちが咳き込んで膝を着いた。自分の一歩先で。
地面を蹴った。体を捻り、右腕を思い切り刃持ちに向って振り抜いた。けれども、寸前で後ろに躱された。
足が着く。もう一歩、今度は刃持ちのすぐ背後に崖がある。そしてまだ立てていない。
左腕を体の前に置き、また右の拳を握った。じくじくと久々の切られた痛みは、心地良ささえもあった。
互いに殺す事を恐れていたのかもしれない。戦ってもただ疲労するだけで傷一つ互いに付かない時さえあった。
怖かった。それ以上にとても、いつも以上に、いや、これまで戦った中で一番集中していた。楽しんでもいた。
刃持ちが左へ逃げた。防御に回していた左腕を振りながら体を回し、刃持ちを目で追う。右足に体重を掛ける。
振った左腕の隙を縫って、刃持ちが自分を腹から裂こうとすれば、左足で思い切り蹴るつもりだった。けれど、来なかった。距離を取られていた。
右の拳の血を舐める。肩の傷は浅い。拳の傷も深くはない。
刃持ちが呼吸を整えた。そこへ構えたまま歩いて行く。有利なのは自分だ。刃持ちが崖を背にしているのは変わらない。脇腹に当たった拳の影響もかなり強いようだった。
刃持ちは構えていなかった。自分が近付いて来るのを待っている気がした。
……何かを狙っている?
足を止めた。何をして来るか構えていないその姿では全く分からなかった。その瞬間、刃持ちが走って来た。そして、一本の刃を自分に向けて投げた。
剛腕に刺さる。しかし、それを投げ捨てる暇は無かった。
両手で持ち直されたその一本の刃から、恐怖が感じられた。鋭さに加え、重さまで増した。生半可な防御じゃ切り裂かれる。
手首目掛けて刃が下から飛んで来る。剛腕で受け止めるのにも恐怖を感じた。初めて戦った時、その両腕で構えられた刃で、骨まで断ち切られそうになったのを忘れる筈が無い。
腕を引っ込めた。恐怖を見止められたのか、刃持ちが全てを切り裂くような気迫を持って懐に入ろうとして来る。
蹴ろうとしてもきっと躱される。上に構えられた刃。……恐怖する理由は、両腕の、単純に考えて片腕の時の倍の加速を以て刃が振られるからだ。加速させなければ、きっとそこまで重さは無い。全てを切り裂かれるような事は無い。
前に足を蹴った。刃と同じ高さに刃が刺さっていない右剛腕を置いて。左拳を握り締め。
しかし、刃は下げられた。速くない動きだった。けれど、気付けば刃は下から切り上げるのに最適な位置にあった。
腹が冷える。背筋が凍る。心臓が爆発しそうにまでなる。しかし、体は動いた。
握り締めた左拳を、刃持ちに向って飛ばした。刃持ちはぎりぎりで躱した。また、気付けば躱されていたような感覚に陥った。それは、静かになびく風のような動きだった。
そして、切り上げられた。
指が一本、切り飛んだ。しかし、一本だけで済んだ。もう一本切り飛ばされそうになったが、無我夢中で動かした右腕が刃持ちを弾き飛ばしていた。
痛みが、やってきた。
ずぐずぐと叫びそうになる程の痛みが左手を襲っている。けれど、ここが分かれ目だった。刃持ちは倒れていた。弾き飛ばした時に手ごたえは余り無かったが、今が殺せる最大の時だった。
吼えながら、刃持ちに向って拳を振り下ろした。転がって躱された。地面に音を立てて拳がぶつかる。痛いが、意識を邪魔する事は無かった。
もう一発、指を切られた左腕で、振り下ろす。また転がって、避けられた。けれどもう、崖が近い。転がる事も許されない。
刃持ちの手が、自分の左腕に刺さっていた刃の握る場所に届いていた。掴ませる訳にはいかない。左腕を振り払った。刃持ちに自分の切られた指の根元から噴き出る血が掛かった。
刃持ちは、刃を放さなかった。
ぐい、と刃ごと刃持ちが引っ張られる。起こしてしまう形になる。そして、刃が抜ける。刃持ちは姿勢を崩しながらも、自分の背後に回った。
距離を取らなければ! 崖際ぎりぎりまで走って振り返った。刃持ちはふらふらしていた。鼻から、顔から血を出していた。がぶぅ、と血混じりの咳を吐いた。
そして、その後ろに、同種が居た。
長く白い毛。二対の枝分かれした角。黒光りしている蹄。四足の獣。
邪魔をするな!
吼えた。今はそれが一番重要だった。それ以外の事はどうでも良かった。刃持ちは後ろを見る事も無く刃をしっかりと持ち直し、血を拭った。白毛の獣はびくりとしたものの、動かなかった。
がらがら、と石が落ちる音がした。身を屈め、刃持ちの方を見たまま、背後の崖に右手を伸ばした。
刃持ちが走って来る。突き出していた岩を引っこ抜いた。手に収まる大きさの岩だった。
岩を投げる、振りをした。刃持ちが、投げて行ったら飛んで行ったであろう直線を的確に避けた。刃持ちの姿勢は傾いていた。そして近付いて来る。
左の拳をそこに合わせ、突き出した。その拳に、足が乗った。
刃持ちが眼前に居た。拳に乗って、自分の眼前に肉薄していた。
刃持ちも吼えていた。吼えながら、自分の顔面目掛けて刃を振ろうとしていた。
一瞬。両拳はもう間に合わない。姿勢も崩れている。逃げられない。
けれど、頭だけは間に合った。その唯一の選択肢が、選択出来た。頭に、刃よりも先に前に来ていたその頭に、額をぶつけた。刃が、自分の側頭と肩に当たる。けれど、切り裂かれはしなかった。刃持ちの腕が止まって、自分の下に落ちた。
しかし、刃を握っている手はそのままだった。気絶していないかもしれない。けれど、動かない。
殺せる、のか? 自分は勝った、のか?
ぴくり、と刃持ちの腕が動いた。気絶していない。殺さなければ、いけない。
一瞬、戸惑った事を後悔した。さっさと抑えつけてしまえば良かった。刃持ちの足が、体が、一瞬で動いた。
自分の腹を切り裂こうとして来て、思わず後ろに下がった。がらり、と音がした。気付いたら、自分の体が宙へと傾いていた。
咄嗟に左腕を伸ばして、崖に掴まった。切り立った崖でなかったのが幸いだった。この自分の全体重は、片腕で、特に指を一本切られた今では支えられる気はしなかった。
しかし、体を持ち上げる余裕何て刃持ちは与えてくれないだろう。刃持ちの体が崖の上からほんの少し、見えた。登ろうとすれば、切り裂かれる。
最後の足掻きだった。
左手を離し、あった岩を引っこ抜いた。崖を蹴り、出来るだけ、上に跳んだ。
まだ、右手にも岩は握られていた。刃持ちに向けて、右の岩を最初に投げた。ガインッ、刃で受け止められたが、刃持ちはふらついた。
そこに、左の岩を投げた。ふらついても、刃持ちは刃でそれを受け止めた。直撃はさせてくれなかった。そして、最後に崖の方に倒れるのを見た。




