21. 抜けた
体と体が擦れるような音で目が覚めた。もう、夜ではなかった。微かに視界は明るくなり始めていた。けれども雨は未だに叩きつけるかのように降っている。
分厚い雨雲は、ほんの僅かに太陽の光を通しているようだった。
赤い鳥はそんな中、外へ出ようとしていた。
翼は今でも乾いていない。昨夜の初めては、雨の中にまで引っ張り出してとても激しくやった。
激しく動くには、岩の下では狭過ぎた。
起きた今でも妙な倦怠感があったし、けれど多分それは赤い鳥の方が強いだろう。
獲物を獲りに行くのも止せば良いのに、と思いながらも座ったまま特に何もしなかった。
赤い鳥が飛ぶ前に自分の方を見た。何かこのまま赤い鳥は去ってしまう気がした。
いや、そんな訳あるか。
けれど、その夜になっても、雨が降り止んでももう、戻っては来なかった。
もやもやとした感情のまま、ぬかるみの中をまた刃持ちと歩き始める。
一日何も食わないと、腹の減りが少し強くなる。普通の肉食獣は何日も獲物が獲れなくともじっと草食獣の隙を伺って食らえる時を待ち続けたりするけれど、多分自分は、食える物が無くなったらまず先に餓死して他の獣の肉になる気がした。
多分、後二日位殆ど何も食えなかったら危なくなってくると思う。
川に獲れる魚が居る今はそんな心配をする必要も無い、と思ったら、川は様相が完全に変わっていた。
茶色い泥水が激しく唸りながら走っていた。近くに行けばそれだけで水が跳ねて顔に飛び散った。ついこの前までのさらさらした光景何てもうどこにも無い。
泳いでいる魚の姿なんて全く見えなかった。
ここまで川が暴れている様を見るのは初めてだった。雨は降り止んだのに、その叩きつける音に匹敵する轟音が鳴り響いている。
とても恐ろしいと感じた。泳ぎは出来るが、この中に入ったらきっともう陸には戻って来れないだろう。溺れて、どこまでも流されて、消えてしまうかのように死んでしまう。
雷と似たようなものだとも思った。一度食らってしまえば、一度入ってしまえば、死からは到底逃れられない。
けれど、入らなければ死ぬ事は無い。雷も、地面に掘った住処に隠れてしまえば食らう事は絶対に無い。
恐怖はとても感じるが、そうならば警戒する必要もそう大して無かった。
歩き続けても赤い鳥は姿を現す事は無かった。何で戻って来なかったのだろう。
どうやら、あの時単純に赤い鳥はもう戻って来ないつもりだった。けれど何故だか分からなかった。
自分に原因があるようにも余り思えなかった。赤い鳥は自分が主導権を握ろうとも余り暴れたり嫌がったりもしていなかった。今となっては、多分、としか言えないが。
まさか、死んだ訳でもあるまいし、今となっては本当にあの赤い鳥と交わって子がなせるのかどうかも分からない。
分からないと言う、もやもやとした気分だけが残っている。
空腹もそれに拍車を掛けた。余り、良い気分じゃなかった。
刃持ちも特に何も話しかけては来ない。けれど、腹が鳴る音が交互にして、顔も合わせなかったけれど何となくその気分は緩んだ気がした。
獲物が居れば、さっさと狩って食いたかった。
まあ、多分歩いていれば何かしら居るだろう。
そう思って歩いて行けば、川が微妙に曲がっている場所で、魚が打ち上げられていた。びちびちと、川に戻れずに跳ねている。
この川が暴れている中では、魚ですら流れを御する事は出来ないらしい。
口に入れれば疲れ切ったようなそんな味気ない味だった。余り食いたい味では無かったが、腹を膨らませなければいけなかった。
ちょっと、刃持ちが火を起こしてくれるのを期待したりもしたが、そもそも燃えるような物が今ここには全く無かった。何もかもが濡れていた。
刃持ちは何も食べなかった。
泥まみれだった地面がましになって来る頃には、久しく緑が見えるようになってきていた。獣もまた、様相が少し違う気がした。
暴れていた川も未だに泥まみれなものの、静かになってきていた。魚がぴちゃんと跳ねる様を見れば、魚も多分ほっとしているのだろう。
昼と夜の温度の差も少なくなって来て、過ごしやすくもなった。
刃持ちが自分に話し掛けて来る。くたびれたようなその声は、やっぱりあの砂と岩だけの暑過ぎる大地を越すのは自分と同様に疲れる事のようだった。
そして、もう暫くすれば、刃持ちの言っている事がきっと分かって来るような気がした。
最初、声から分かるのは大雑把な感情だけだった。自分が居た森で何度か戦い、そして自分が去る前には、それが少し複雑に分けられるようになっていた。
再会して、こうしてただ歩いて来る中もずっと、刃持ちは自分に話し掛けて来た。簡単な物事を示す声の種類は聞き分けられるようになった。
そして、今はまだはっきり分からないけれど、何となく喋りに決まりがあるのに気付いて来た。
また、自分の口でも僅かながら、共通して言える声があるのも知った。
そんな今日も、刃持ちは自分に話し掛けて来る。それに歩きながら、顔は向けないものの、耳を傾ける。
ぶつぶつとただ何かを呟いている時もあったが、自分に向けて話し掛けて来る時は、自分に何かとても大切な事を教えているような気がした。
それがまだ、どういう事なのかはっきりは分からない。自分に向けてだけじゃなく、自分以外の何かに向けて言っているような気もしたけれども、それが何故なのかも分からなかった。
赤い鳥は、いつまで経ってももう、来なかった。思う事ももう、そう大して無かった。悩んでも考えても何も分からないのだから。
目の前にはまた、山があった。けれども、とてもでかく、そして山自体が連なっている。そして一番でかい山の頂上からは何故か煙が出ていた。
川はその山を避けて違う方向へ進んでいた。
どうしようか。もう、獣も多く居る。川から離れても水に困る事は無いだろう。
夜になっても、月明かりでその煙は良く目立っていた。
登ってみたい気持ちがある。とても。
刃持ちが自分に話し掛けて来る。それは迷っている自分に対しても、いつも通り、特に何も変わる事も無く。
これまで刃持ちは自分に対して積極的に何かを持ちかけて来る事は無かった。強いて言えば、砂と岩だけの大地の前で自分が迷っている時に、川の方向を指し示しただけだった。
刃持ちが集落に行った時も、自分に対して何かしようとは思っていなかっただろう。結果的に自分は待ったのだが。
行先は、何か無い限り、自分に任せるのだろう。これからも。
頭を掻きながら、山の頂上を見据えた。あそこまで行ってみる事にしよう。
きっと、刃持ちは付いて来る。自分がどこに行こうが、自分が行ける場所は、刃持ちもきっと行ける。
そうして、楽な環境になったら戦って。
未知の光景を見ながら、そうやってずっと歩いて行けたらな、と思った。
けれども、それが終わる時も絶対に来る。終わった時、どうなるのか。自分はどう思うのか。殺したら、殺されたら、殺せる状況になったら、殺される状況になったら、一体、自分は、刃持ちは、どういう選択をするのだろう。何を思うのだろう。
それは本当に、その時になってみなければ分からない事だ。
自分は、刃持ちに勝ちたい。それは変わらない。けれども、殺したくないという気持ちも確かにある。
……もし、自分が勝ったとしたならば、それは殺して勝ちたい。
殺せる状況になる、捉えて動きを封じる、動けない程の怪我をさせる、そんな中途半端な状況にはなりたくない。迷いたくない。
刃持ちの方を向くと、刃持ちは喋っていた口を止めて自分の方を見つめ返してきた。
ぱち、ぱちぱち、さら、さらさら、と火の音と川の音だけが聞こえる。
後悔は、したくない。
視線を外して、段差に寄り掛かる。
寝る事にした。




